聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/1/17 マタイ伝15章21~28節「小犬の信仰」

2021-01-16 12:00:50 | マタイの福音書講解
2021/1/17 マタイ伝15章21~28節「小犬の信仰」

前奏 
招詞  エゼキエル書36章26a、28b
祈祷
賛美  讃美歌3「天地の御神をば」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交読  詩篇1篇(1)
賛美  讃美歌298「安かれわが心よ」①③
聖書  マタイの福音書15章21~28節
説教  「小犬の信仰」古川和男牧師
賛美  讃美歌467「思えば昔イエス君」
献金・感謝祈祷
 報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌539「天地挙りて」
*祝祷
*後奏

 今日の舞台となる「ツロとシドン」はガリラヤから更に北、異国の地でした。前回、都エルサレムから指導者たちがやってきて、イエスを批判した事が書かれていました。その決裂でイエスは更に遠くのツロとシドンに、一時的にではありますが退いたのです。旧約聖書の預言書には、創世記の最初から名前が出て来る古い町で[1]、貿易で大いに栄えた反面、偶像崇拝や暴君ぶりで神の厳しいさばきを受けるともされていました[2]。このマタイの福音書でも、
十一21…さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすい…
と持ち出されたのは、それだけこの地域が神の前に、悪を積み上げてきた歴史を持っているからです。しかし、皮肉なことに今イエスは、エルサレムの宗教家たちの躓きに距離を置くため、ツロとシドンの地方に退かれています。そして、そこでカナン人の女の信仰に驚くのです。
22すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
 「カナン人」も旧約聖書にはなじみ深い地名で、かつてこの地域に住んでいた民の総称です。カナン人の罪は非常に重く、神はイスラエルにその地を与えて、カナン人をさばき、カナンの風習を真似てはならない、と繰り返して言われていました。ですから、そのカナン人であるこの女性は、イスラエルにとって異邦人であり敵です。その先祖の女帝イゼベルとも重なる、滅ぼされるべき人、近づくのも忌まわしい人でした[3]。なのに、彼女の口から出たのは「主よ、ダビデの子よ」という、イエスに対する告白でした。彼女は娘のため、イエスに叫び続けます。
23しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
 女は、イエスに無視されても引き下がらず、弟子たちに邪魔者扱いされても食い下がります。
24「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
 イエスの将来的な働きはすべての民に広がります[4]。そのためにも神が選ばれたイスラエルの民をまず扱う[5]。その順番をイエスは仰っています[6]。それでもこの女性は諦めません。イエスの前にひれ伏して「主よ、私をお助けください」と懇願します。これにイエスは、
26…「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
 これは24節を言い換えたもので、「子どもたち(イスラエルの家の失われた羊たち)」のパン(祝福)を小犬(異邦人)に投げてやるのは、ご自分の使命に反すると仰有るのです。異邦人を「犬」と呼ぶのは、ユダヤ人に慣わしだったようですが、あんまりな言い草ではあります。
27しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」[7]
 この「ただ」は「なぜなら」という言葉です。子どものパンを小犬に与えるのはとんでもない。なぜなら、小犬は食卓から零れるパン屑を戴けるからです。彼女は諦めません。ここまで娘のために食い下がるこの母親に、イエスは言われました。
28…『女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。』彼女の娘は、すぐに癒やされた。」[8]。
 この女性の「信仰」が立派(大きい)とイエスは仰有いました。彼女が願ったのは、罪の告白や主への悔い改めではなく、わが娘の癒やしでした。その娘思いにしても、詳細は不明です。娘が悪霊に憑かれていたのも、母である彼女自身が関係なかったかどうか分かりません。シドンもイスラエルも、現代の日本も、親は子どもを愛する一面、やり過ぎたり間違ったり、子育てに後悔や失敗はつきものです。彼女が立派な信仰者だったと理想化するより、娘の苦しみに今、必死で、たまたまそこにやってきて出会ったイエスになぜかしら、
「ダビデの子」
という聖書的な告白で呼びかけて、諦めることなく食い下がって、おこぼれでも良いから助けてほしいと願った、それをイエスが
「あなたの信仰は立派です」
と見てくださった。自分の娘への必死な願いと、神のあわれみは大きいに違いないとしがみついた。現実の厳しさや神のつれない応答や、物事には順序があるという理屈さえ踏み越えて、ひれ伏し求める願い。その願いを、信仰など最も縁のなさそうな所にイエスは見つけて、それを「立派な信仰」と言ってくださいました。言わばイエスご自身が、そこにあった願いに「然り(アーメン)」と言ってくださったのです。
 主の食卓には零(こぼ)れ落ちるほどの恵みがある。私たちもユダヤ人ではなく異邦人、小犬です。溢れる恵みに与って、失われた生き方から良い羊飼いが見つけて下さって、今ここにいます。そして、その私たちからも溢れて、主の祝福が周りにも届いている。だから教会の外で、聖書を知らない人が、キリスト者以上の信仰や愛を見せます。悪霊や不信仰や、危険に一線を画して退かなければならない生活の中でも、なお家族や愛する人のために献身し、諦めずに回復を願う行為に頭が下がる思いをします。その時、主イエスはその人の願いに
「あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」
と-
アーメン
と言っておられるのです。

「主よ、あなたの食卓から零れた恵みで豊かに養われ、喜びを注がれた私たちです。どうぞ私たちをもあなたの祝福のパン屑として、周囲への恵みとしてください。あなたの恵みを小さく遠く考えて、願い祈ることも諦めてしまう私たちの弱さ、愛する者の苦しみに手をこまねいて苦しむこの世界の叫びも、あなたはご存じです。どうぞ憐れんでください。そして、私たちの思いを超えて咲く恵みを見落とさず、世界に働き続けるあなたを褒め称えさせてください」

脚注:

[1] 創世記10:19(19 それでカナン人の領土は、シドンからゲラルに向かって、ガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムに向かって、ラシャにまで及んだ。)、49:13(ゼブルンは海辺に、船の着く岸辺に住む。その境はシドンにまで至る。)、ヨシュア記19:28(エブロン、レホブ、ハモン、カナを経て大シドンに至る。)、他。

[2] イザヤ書23章(1 ツロについての宣告。タルシシュの船よ、泣き叫べ。ツロは荒らされて家もなく、そこには入れない。キティムの地から、それは彼らに示される。2 海辺の住民よ、黙れ。海を渡るシドンの商人はおまえを富ませた。)、エレミヤ書25章22節、47章4節、エゼキエル書26~28章(2 「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門は壊され、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった』と言った。3 それゆえ──神である主はこう言われる──ツロよ、わたしはおまえを敵とする。海が波をうねらせるように、多くの国々をおまえに向けて攻め上らせる。4 彼らはツロの城壁を荒らし、そのやぐらを壊す。わたしはそのちりを払い去って、そこを裸岩にする。5 ツロは海の中の網干し場となる。わたしが語ったからだ。──神である主のことば──ツロは諸国の餌食となり、)、ヨエル書3章4~8節(4 ツロとシドン、またペリシテの全地域よ。おまえたちは、わたしにとって何なのか。わたしに報復しようとするのか。もしわたしに報復しようとしているなら、わたしはただちに、速やかに、おまえたちへの報いをおまえたちの頭上に返す。)、アモス書1章9-10節(9 主はこう言われる。「ツロの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らがすべての者を捕囚の民としてエドムに引き渡し、兄弟の契りを覚えていなかったからだ。10 わたしはツロの城壁に火を送る。その火はその宮殿を焼き尽くす。」)、ゼカリヤ書9章2~4節(2 これに境を接するハマテや、非常に知恵のあるツロやシドンの目も。3 ツロは自分のために砦を築き、銀をちりのように、黄金を道端の泥のように積み上げた。4 見よ。主はツロを占領し、その富を海に打ち捨てる。ツロは火で焼き尽くされる。)、参照。

[3] Ⅰ列王記16章31節「彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。」

[4] マタイの福音書28章18~20節

[5] 「イスラエルの家の失われた羊」 イスラエルが正しいから、きよいから、愛するのではない。彼らこそ、失われていた。イエスの方が、イスラエルから追い出されたかに見えて、イエスはご自分ではなく、イスラエルの家こそ失っている。迷っている、と仰る。

[6] とはいえそれはカナンの女性からすれば、あまりにも素(す)気(げ)ない言葉です。

[7] ここでイエスが使われた「小犬」という言葉は、異邦人への蔑称の「犬」ではなく、ペットの小犬です。キュナリオス、小犬。この箇所(と並行箇所のマルコ七24~30)のみに出て来る。家の中に入れられ、食卓の下でおこぼれを期待しているのを許されている、家族同様の存在で、野良犬ではない言葉をイエスは使われました。つまり、この言い方の中に、既に異邦人も恵みの視野の中に入れられていると匂わされているのです。

[8] 神の民イスラエルが不信仰でまさに霊的に「失われた」状態であった時、呪われるべき民、救いとは遠いと思われていた民の中に、信仰が見出されました。これは、歯がゆいような、嬉しいような、ビックリもしガッカリもする出来事です。しかし、これが事実でした。そしてイエスはその事実から目を逸らしたり、否定したりしません。彼女の信仰を受け止めて、その願いを叶えて、娘を癒やされたのです。イエスが人の信仰を褒めたのはマタイの福音書でハッキリと二度、遠回しには四度だけです。そのいずれもが、当時の「敬虔な」と思われる範疇ではない人々の「信仰」に対してでした。マタイの福音書8章10節(百人隊長の告白に対して:「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。)、9章2節(中風の人を運んできた人々を見て:イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。)、9章22節(長血の女に対して:イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。)、9章29節(目の見えない人たちに:そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。)、15章28節(本日の箇所)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/1/17 創世記一章1-5節「光よ、あれ」こども聖書①

2021-01-16 11:49:48 | こども聖書
2021/1/17 創世記一章1-5節「光よ、あれ」こども聖書①

 今日から「こども聖書」を一緒に読んでいきます[i]。

 子ども向けに、聖書のお話しを、旧約聖書の創世記から新約聖書の最後の黙示録まで、順番に分かりやすく書いてくれています。今日のお話は、創世記の一番はじめの言葉を今読みました。
創世記一1はじめに神が天と地を創造された。
とありました。神様が、この世界をお造りになりました。その時の世界は、まだ何もない世界でした。真っ暗でした。神様が作られたから世界は始まったのです。けれども、神様が作られたその世界は、最初、何もない闇の世界だったのです。本も読みましょう。

ずっとずっとむかし、この世界がはじまる前のこと。神さまが天と地をつくられました。地は真っ暗で、どこまでいっても何もありませんでした。そう、どこまでも、どこまでも真っ暗闇だったのです。ずっとずっと昔、この世界はとっても寂しい所だったのですね。

 真っ暗な世界。それも、神が作られた世界でした。この最初の暗闇の世界も、神がお作りになったから始まった世界でした。寂しいようですが、創世記の1章2節には、光が照る前の世界でも、
「神の霊がその水の面を動いていた」
とありました。この「動いていた」という言葉は、母鳥が翼を広げているような言葉です。「舞い掛けていた」と欄外にあります。お母さん鳥が、巣の中の卵や雛の上に、大きな翼を広げて覆い、守っているような言葉です。神は、最初の真っ暗な世界にも、闇の中でも、そこにおられて、優しく、力強く守っておられました。そして、巣の中の冷たい卵が、ひび割れて雛が顔を出すように、この真っ暗な世界に、神の光の業が始まりました!
 その時です。神様が口を開かれました。
「光よ、あれ」
 そうです。神は、その世界に、光を差し出されたのです。すると光が照りました。
するとどうでしょう。光が出来たのです!
それは、どんな様子だったのでしょうか。世界がパッと明るくなったのでしょうか。ボワッと明るくなったのでしょうか。それとも、小さな光が見えたのでしょうか。でも、その小さな光でも、闇の世界は大きく変わったはずです。まだ、光の当たっていない闇もありましたが、それでもその光は、闇の世界を一変させた輝きでした。
 神様はこの光を喜ばれました。光は、世界を明るく照らし、金のような輝きをもって、世界を温めてくれます。
 暗い所が好き、という人もいるでしょうし、明るすぎるのが苦手、という人は少なくありません。それでも、神様が光を作らない方が良かった、とは思わないでしょう。光がない真っ暗闇だったら、世界はどんなになるでしょうか。真っ暗な世界に、光が照ったのは、本当に嬉しいことです。真っ暗だと、何がいるのか分からなくて怖いです。寒くて、冷たくて、不安です。でもその世界に、神は光を照らしてくださいました。神はその光を見て「良し」とされました。喜ばれ、満足されました。神は、喜んで私たちを照らして温めてくださるお方です。今でも神は、この世界に光を照らしてくださいます。
 この光に満足された神さまは、次にこの世界をクルクルと、優しく回されました。明るい所と暗い所が出来るよう…。そして、明るい所を昼、暗い所を夜、と名づけました。
 神様は「光よ、あれ」と仰有って、光を照らされた時、それで闇がなくなったわけではありませんでした。闇の部分もあって、光の部分もあるのですね。闇がなかったら、「夜」と名づける部分もなかったでしょう。
 神様は最初から光のある世界をお作りになることも出来たのに、闇の世界に光を照らされたのはどうしてでしょう。闇のない世界ではなく、闇もある世界をお作りになったのは? 神様は闇がお好きなのでしょうか? 私は小さい頃、闇が嫌いでした。真っ暗な所は怖くて、夜トイレに行くのも怖くて嫌でした。神は、光を照らして喜ばれるお方ですが、闇もお作りになりました。世界を真っ暗に作った上で、そこに光をお作りになりました。神様は、闇の世界の中に、光やいのちをお作りになるお方です。どんな夜のような時も、いつまでも暗いままではありません。神がこの世界に夜を残しているのは、その夜も、朝にしてくださるからです。夕があり、朝があります。夜が来て、昼が来る。そういう世界が、この時から始まったのです。この世界を、神様は昼と夜がある場所、光と闇の両方がある場所となさったのです。光を世界一杯に照らして、闇を無くしたり、最初から、光が照っている世界になさることも出来たのに、神様は、闇の世界を作り、そこに光を照らし、闇の夜と、光の昼が交互に来るようになさったのです。
わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを行う者。イザヤ書45章7節
 この後、人間は神様から離れて、闇の方に逃げてしまいます。神様の前から隠れて、嘘やごまかしを始めます。人間の心が、闇になり、真っ暗になってしまいます。しかしその人間の闇の中に、神様はこれからもいて下さいます。そして、罪の暗い中にも、新しい道を開いてくださいます。人間の力ではどうしようもない所に、神は不思議な希望をおはじめになります。神様は闇に光をお作りになるお方です。この事が、聖書の中で最後まで強く繰り返されるのです。ですから、私たちも、この世界をお作りになった方は、光を作られた方だと、ここに帰って来ることが出来るのです。
「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。Ⅱコリント4章6節
 さあこれから何が始まるのでしょうか。聖書の最初で、神が作られた世界に何をなさるか、この光の中で見せて下さいます。ワクワクしながら読んでいきましょう。そして今も、神がこの世界に何をなさっているのか、私たちを生かしてくださっているこの場所に何をしてくださるのか、神が下さる光の中で、見せていただきましょう。
神が最もすばらしいみわざをなさるのは、日が昇る前のまだ暗いうちなのです。[ii]

「神よ、あなたは沈黙のうちに世界を闇の中にお作りになり、その後「光よ、あれ」と最初の言葉を口にされました。そして、今も闇の中にも働かれ、光をお作りになるお方です。あなたご自身が光です。どうぞ、私たちを、あなたの光によって導き、闇の中でも私たちを守り、ゆくべき道を示し、あなたへの信頼をもって歩ませて下さい」

脚注:

[i] 『こども聖書 かがやく神さまのことば』、メロディ・カールソン文、デニス・オッシナー絵、フロイラン・規子訳、新生宣教団、1998年。

[ii] ナディア・ボルツ=ウェバーの言葉。中村佐知『まだ暗いうちに』(いのちのことば社、2020年)290頁より。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする