2021/1/24 マタイ伝15章29~39節「七つのパンと少しの魚」
前 奏
招 詞 マタイ11章28~30節
祈 祷
賛 美 讃美歌6「我ら主を」
*主の祈り (週報裏面参照)
交 読 詩篇23篇(1)
賛 美 讃美歌354「飼い主わが主よ」①②
聖 書 マタイの福音書15章29~39節
説 教 「七つのパンと少しの魚」古川和男牧師
賛 美 讃美歌354 ③④
献 金
感謝祈祷
報 告
*使徒信条 (週報裏面参照)
*頌 栄 讃美歌540「御恵み溢るる」
*祝 祷
*後 奏
マタイの福音書15章の結びです。28章あるマタイの折り返しを過ぎました。この15~17章でイエスの旅は都エルサレムから最も北に離れ、異邦人の地を彷徨うようにしています[1]。この後、南下して、都で十字架と復活へと向かう。その折り返しでの出来事がここにあります。
今日の前半、大勢の群衆がイエスのもとに足や目や手、口に障害のある人たちを連れて来、イエスが彼らを癒やされたとあります。今までにもイエスが病人を癒やす奇蹟は何度もありましたが、この人たちは初めてイエスの癒やしを見たように驚きました。30節の
「イエスの足下に置いた」
は投げたという意味で[2]、障害者をイエスの足下に投げ捨てたのです。「イエスならきっと癒やしてくれる」と願って連れて来たより、何の期待もなく捨てに来た感じです。しかし、イエスがその捨てられた人を癒やされた-期待もしなかった奇蹟を見て、驚いた。そして
「イスラエルの神をあがめた」
という言い方は、ここにいる人々がイスラエル人ではない人々、今までイエスの奇蹟を目にしたことがない人たちであった、という事です。この時の場所は、ガリラヤ湖でも、西のユダヤ人のガリラヤとは反対の、東側の異邦人の地でした。その、異邦人たちに対して、イエスがなさったのが今日の「七つのパンと少しの魚」という奇蹟です。
14章の「五つのパンと二匹の魚」は有名ですが今日の「七つのパンと少しの魚」は、似たような話だから「何が違うんだろう?」と思われるかもしれません。今申し上げたように、この奇蹟は、異邦人たちに対してです。似たような出来事ではありますが、大きな違いは、この奇蹟が、ユダヤ人ではない、ガリラヤ湖を挟んで対岸にある人々、ある意味ではガリラヤ湖の漁師のペテロや他の弟子たちと「睨(にら)み合って」来た人々に対してなされた、という事です。
そう考えると、ここには、弟子たちの彼ら群衆に対する冷たさも露骨に見えてきます。「五つのパン」では弟子たちの方から群衆の食事を心配してイエスに声をかけていました。それもその日のうちの夕方前にでした。しかしこの「七つのパン」では、三日経っても弟子の方からは何も言い出さず、イエスの方から「かわいそうに」と言い出されています。弟子たちの返事は「五つのパン」の奇蹟が彼らにも与えられるのではないかなどとは思いもせず、パンの数を聞かれて
「七つです。それに、小さい魚が少しあります」
というのも、いかにも投げやりです。「少し」ってどれぐらいなのでしょう。その「少し」も、あの群衆には惜しい、と聞こえます[3]。
これに対して、イエスが32節で仰る
「かわいそうに」
は、「腸を痛める」という言葉です[4]。イエスの深い、おなかが痛くなるほどの思いやりは、この異邦人たち、病人を足下に投げ捨てる人々にも注がれています。そして、彼のためにもパンを差し出すことを弟子たちに求めました。群衆たちにも座って協力することを求め、その後
「感謝の祈り」
を捧げました[5]。感謝! この時、弟子たちが祈ったとしたら感謝なんて思いついたでしょうか。口先だけの感謝を形ばかり祈ることはあったかもしれません。しかしイエスにはそんなことはありません。本当に感謝していたのです。異邦人の群衆とともに食事できて感謝。この群衆と出会わせてくださって感謝。彼らに食事が与えられて感謝。32節での
「空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから」
と真剣に心配された問題をシッカリと解消できて、食事をした彼らを帰らせることが出来る安心を、感謝なさったのです[6]。
この後彼らをイエスはすぐ解散させるのですから、この奇蹟に与った結果、全員がイエスを信じて回心するとか、何か結果を当て込んではいません。ともかく、今ここでこの人々とともに食事をすること、神が僅か七つのパンと数えられもしない魚数匹をさえ用いて、養ってくださることを感謝したのです。そして、その後、弟子たちにパンと魚を渡して、弟子たちは群衆に渡して、人々は食べて満腹しました。余ったパン切れは七つの籠(大きなバスケット)が一杯になるほど豊かでした。そして、イエスは
「群衆を解散させて舟に乗り」
次の地方に渡って行かれたのです。
「五つのパンと二匹の魚」でイエスが何千人もの人を養った奇蹟は、四つの福音書が揃って記す奇蹟としては、復活以外の唯一の記事です。それは、イエスの慈しみと、弟子たちに託される務めを豊かに証ししています[7]。この「七つのパンと少しの魚」は、それが更に、異邦人や、弟子たちにとっての「他人」、すべての人々にも及んでいることを見せてくれます。弟子やユダヤ人の思い及ばない所にまで、主イエスの心は及んでいました。そしてその養いのために、弟子たちは持っているものを献げ、配慮して、配るようにと召されます。主イエスが「自分の必要を満たして下さる」というだけでなく、人が視野に入れていない人々、背を向けている人々の必要にまで深く心を留めている。途中で動けなくならないかと案じられ、一食をともに出来ることを感謝して、帰らせる。そのイエスだから、私たちをあわれんで、今日まで養ってくださっています。私たちの空腹や必要に心を配り、私たちとともに食したり歩んだりできることを感謝して、私たちの持つわずかなものや、私たちの手、働きをそのために用いられるのです。
「命のパンである主よ。あなたはパンを通して民を養い、あなたの豊かな恵みを示されました。私たちが養われ、今日まで旅を続け、満たされた事もすべてはあなたの恵みです。私たちの冷たく、投げやりな思いも溶かしてください。あなたとの関係だけでなく、私たちのヨコの関係も、全く別だと思っている関係も、すべてを支えるのはあなたの思いであり、そこに私たちへの招きがあります。どうぞ御手の中で、私たちの存在も命の糧として、お用いください」
脚注:
[1] マルコ7:31によれば、デカポリス経由です。「イエスは再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖に来られた。」
[2] リプトー。マタイ9:36(また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊のように、弱り果てて倒れていたからである)、27:5(そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。)
[3] 日本語には訳されていませんが、33節には「私たちがヘーミンどこで手に入れることができるでしょう」と「私たち」が使われています。いかにも「この私たちがですか??」と不満げです。
[4] スプランクニゾマイ。マタイ9:36、14:14、18:27、20:34。
[5] 原文では「祈り」はなく、「感謝して」です。これを祈りの要素と読むことも出来ますが、第一義的には「感謝して」なのです。
[6] 感謝(ユーカリストー)は、マタイではここと26:27(聖餐の杯)のみ。
[7] イエスの不思議な力や、人に食事を与え、養ってくださるお方であることを示しています。また、その業を弟子たちが持つ僅かなものを通してなさること、弟子たちが自分の持っているものを差し出す時に、それが祝福されることも教えてくれる物語です。もう少し詳しくは、その時の説教ブログをお読み下さい。