聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/7/4 創世記37章「ヨセフ」こども聖書㉑

2021-07-03 09:25:00 | こども聖書
2021/7/4 創世記37章「ヨセフ」こども聖書㉑

 今日のお話は「ヨセフ」。先週まで見てきたヤコブの息子です。ヤコブには12人の息子がいて、その11番目がヨセフで、次はまだ小さい弟。上には十人の兄がいるのに、父ヤコブは、弟のヨセフばかりを特別扱いしていました。ヨセフだけに綺麗な上着を着せ、兄たちには仕事を与えていました。それでは兄たちはどう思うでしょう。
創世記三七章4節ヨセフの兄たちは、父が兄弟のだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。
と書かれています。お兄さんたちの嫉妬、寂しさは、激しくヨセフに向かっていました。そんな中、ヨセフが一つの夢を見たのです。それは不思議な夢でした。
 7見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が回りに来て、私の束を伏し拝んだのです。8兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
 そりゃそうですね。自分の麦束をお兄さんたちの束が拝んでいる。そんな夢を見たのだとしても、それを聞かされたら、お兄さんたちは今でもお父さんに贔屓されているヨセフが憎くて堪らないのですから、怒るのは当然です。この時、ヨセフは十七歳。もう、それぐらいの想像力は働かせられたはずですが、お兄さんたちの心を思いやることは出来ませんでした。同じようなもう一つの夢を見たとき、さすがのお父さんも怒ります。
10…いったい何なのだ。おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、血に伏しておまえを拝むというのか。」
 お父さんでさえ窘めるほどの、ヨセフの生意気さ、お坊ちゃんさ、世間知らずでした。けれども、この夢は確かに神がヨセフに見させてくださった夢でした。やがて、本当にヨセフの元に、兄たちがやってきて、ヨセフを拝むことになるのです。ヨセフは支配者と成って、多くの人を治め、救う役割を果たすことになります。神がヨセフの将来を、この夢に託して見せておられるのです。ヨセフは二十年もしてから、この夢を思い出すことになるのです。けれども、それまでの二十年の間に、ヨセフはたくさんの経験をします。奴隷になって、エジプトに行き、囚人になって、大臣になって。鍛えられて、指導者になるのです。今のままの、世間知らずなヨセフでは到底この夢は担えません。いいえ、その夢がかえってヨセフの生意気さを煽ってしまって、兄たちの憎しみの火に油を注いでしまうのです。兄たちを探して、ヨセフが遠出をしてきた時のことです。
18兄たちは遠くにヨセフを見て、彼が近くに来る前に、彼を殺そうと企んだ。
19彼らは互いに話し合った。「見ろ。あの夢見る者がやってきた。20さあ、今こそあいつを殺し、どこかの穴の一つにでも投げ込んでしまおう。そうして、凶暴な獣が食い殺したと言おう。あいつの夢がどうなるかを見ようではないか」
 兄たちはヤコブを捉えます。殺すことは止めますが、着物をはいで穴に投げ込みます。
23ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らは、ヨセフの長服、彼が着ていたあや織りの長服をはぎ取り、24彼を捕らえて、穴の中に投げ込んだ。その穴は空で、中には水がなかった。
 こうして兄たちは、長年ヨセフに抱いてきた憎しみや妬みをやっと晴らした思いでい増した。そこに、商人たちの隊商がやってきました。らくだに乗って、高価な香料を運んで、エジプトに下っていくところでした。そこで、兄たちはヨセフをこの商人たちに売ったのです。兄たちは、銀貨二十枚をもらいました。ヨセフは、売られた奴隷となって、エジプトに連れて行かれてしまいます。エジプトに行く、というのは、もう生きて帰って来ることなど考えられない、死んだも同じことでした。売り飛ばしてから兄たちは、どうしようかと考えます。そこでヨセフが死んだことにします。
31彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎを屠って、長服をその血に浸した。32そして、そのあや織りの長服を父のところに送り届けて、言った。「これを見つけました。あなたの子の長服かどうか、お調べください。」
 死んだことにしてしまえば良い、と思ったのです。あの忌々しい着物に血をつけて、父がヨセフの死を信じたらいい、と思ったのでしょう。ヨセフが死んでいなくなれば、父は今度こそ自分たちを大事に思ってくれるだろう、と考えたのでしょうか。もしそうだとしたら、彼らの考え通り、ヤコブはヨセフの死を信じます。
33父はそれを調べて言った。「わが子の長服だ。悪い獣が食い殺したのだ。ヨセフは確かに、かみ裂かれたのだ。」34ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、何日も、その子のために嘆き悲しんだ。
 しかし、彼らが願った以上に、ヤコブは打ちひしがれ、兄たちは困ってしまいます。
35彼の息子、娘がみな来て父を慰めたが、彼は慰められることを拒んで言った。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」こうして父はヨセフのために泣いた。
 兄たちは、この後何十年も、ヨセフを追いやった自分たちの過ちを後悔し続けることになるのです。勿論、ヨセフが生きているなどとは夢にも思いませんでした。しかし、ヨセフは死んでいませんでした。奴隷としてヨセフは生きていて、大都市エジプトに売られます。そして逞しく鍛えられていき、やがてあの夢は成就するのです。
 神が将来の大きな夢を見せてくださった時、ヨセフも兄や父たちもそれを理解できず、誤解してしまいます。特に兄たちは嫉妬して、その夢を潰そうとします。それが成功したように見えて、実は自分たちも後悔するような結果を招いて苦しみます。それでも、神は彼らを導いておられました。それが神のご計画です。人の悪意にも関わらず、悪巧みさえ用いて、着々と不思議にも進んで行きます。それが神の正義です。ヨセフ物語は、創世記の最後に語られている、私たちを悪や絶望、妬みから救い出す神の物語です。

「主よ、あなたは私たち一人一人に、良いご計画をおもちです。今の私たちは、それを聞いても誤解してしまうでしょう。また、それを阻むような出来事で、到底無理だと思うかもしれません。それでも、あなたは祝福のご計画を必ず成し遂げられます。どうぞ私たちを、あなたのいのちの業に相応しく整えて、あなたの器として用いてください」
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2021/7/4 マタイ伝24章1~14節「苦しみは産みの苦しみ」海外宣教週間

2021-07-03 09:24:44 | マタイの福音書講解
2021/7/4 マタイ伝24章1~14節「苦しみは産みの苦しみ」海外宣教週間[1]

 福音が全世界に宣べられて、すべての民族に証しされる。それが神のご計画である。教会が福音を世界に宣べ伝えていく使命が、ここにも明言されています。この言葉から二千年近くの間に海外宣教が進められて、今ここで私たちが福音を聞いています。私たちそのものが、この御言葉の成就してきた証しです。そして、この尊い働きを覚えて、加わりたいと願います。
 今見ましたように、この24章は弟子たちがエルサレム神殿を指し示した事から始まります。エルサレム神殿は高さ22m。純金が貼られ、それ以外の所も大理石が白く輝く姿は、遠くから窺えて、地中海世界で指折りの、美しい建造物でした[2]。しかしイエスはあっさり、どの石も積まれたまま残ることはない最後が来ることを仰います。これに弟子たちは慌てて、問う。
 3…「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」
 これに応えたイエスの言葉が4節からずっと続き、24章の最後でも終わらず、25章までの長い説教です。応えは弟子たちの質問への答ではありません。人々から問われた質問にイエスが直球で答を返されることは殆どなく、大抵かみ合わず、問いそのものを問い直されます。ここでも「終わりはいつですか。神殿も石一つ残さず崩れ、あなたが王として来られるしるしは何ですか」の質問に対して、イエスは「いつですか」という問い自体を終わらせています。
 4…「人に惑わされないように気をつけなさい。5わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。6また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。…8これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。

 偽キリストが現れて、戦争・紛争、飢饉・地震が起きても、終わりのしるしではない。大きな災害や、神殿や町が崩れるような出来事、パンデミックがあると、人は「これは終末のしるしではないか」と不安になりがちですが、そんな人の声に惑わされないように、むしろ、その苦しみも、「産みの苦しみ」、いのちを生み出す痛みと見る、全く新しい見方を仰いました[3]。

 それはただ楽観して問題を小さく考えることでは決してありません。産む苦しみは大変な痛みです。9節からは厳粛です。酷い苦しみや殺され憎まれる。10~12節は弟子たちのことで、大勢のキリスト者が躓き、裏切り合い、憎み合い、偽預言者に惑わされ、不法が蔓延り[4]、多くの人の愛が冷える。そういう事もイエスは見通しています。でも、だから終わり、ではない。
13しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
14御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。[5]
 
 人間の作った物はいつか必ず残らず崩れ落ちる。私たち信徒同士でも躓いて疑って、自分の愛が冷え切る。それが神ならぬ人間の現実です。でも絶望しなくて良い。人や自分の愛が冷えても、主に立ち戻って、耐え忍べばいいのです[i]。その先に待つのは、絶望的な終わりではなくゴール・完成なのです。
 「いつだろうか。この先どうなるのか」と何かにすがりつけるものを探して、不安を煽る人の言葉に惑わされそうな私たちに、主は語りかけて「いつでも主の帰りをお迎えする生き方に立ち戻りなさい」と仰います。
 将来を案じるより「今」を生きるよう呼びかけられます。
 「確かさ」を求めてかえって不安に駆られるより[ii]、不確かな世界だからこそ、小さい私たち同士、憐れみをもって互いに励まし合い、助け合うこと。主が私たちによくしてくださったように、私たちも互いに支え合うこと。
 そうして、主が私たちの王でいてくださる幸いに生きる。
 それこそが「いつ主が来られても良い」生き方です。主の御国を迎える生き方なのです。そういう事が、この24章の後、25章まで書かれていくのです。

 弟子たちの「いつですか、どんなしるしがありますか」という質問は、確かさを求め、不安に裏付けられたものです。イエスの言葉は、「いつかは分からない。しるしに惑わされないようにしなさい」と不確かさ、限界を受け入れさせ、その中でイエスを信頼し、互いに支え合うよう招きます。いつか、より、いつ主が来られても良いように、今ここに生きるよう、目を向けさせてくださいます。人が盤石だと思っているものはすべて崩れ、確かに思えたモノが崩れて慌てたり諦めたりしそうになる。私たち自身も弱さや愛のなさを露呈する。イエスはそう語った上で、それは終わりではなく「すべて産みの苦しみの始まり」だと仰います。世界は不確かなもので、だからこそ主の良い御支配に立ち戻れる。イエスが王となってくださり、病気や行き止まりの中でも、最後まで耐え忍ばせてくださり、福音が宣べ伝えられ、冷えた愛をもう一度温めていただく。そして主が私たちにしてくださったように、私たちも助け、励まし合う。苦しみは「産みの苦しみ」となって、私たちの中に謙虚と希望と交わりを育てます。そういう、「御国のこの福音」なのです。その言葉が、このユダヤから広まり、私たちは今この日本でこの福音を聞いていて、世界でこの「御国の福音」を伝える海外宣教があるのです。

 海外宣教報をどうぞ読んで、海外宣教のために祈りましょう。また、世界で最もキリスト者の少ない日本にいるキリスト者のために世界の教会が祈ってくださっています。この交わりも、主ご自身が私たちを愛し、神の国の民としてくださっている証しです。この御国の福音が全世界に宣べ伝えられることと、私たちもこの「御国の福音」を受け取り続けることを祈ります。
 私たちがこの福音の素晴らしさを味わってこそ、「世界に届きますように」と心から祈れるのですから。

「世界の王なる主よ。御国の福音が全世界に宣べ伝えられ、すべての民族に証されますように。私たちもあなたの御国より、自分が王でいようとして、狭い壁を築き、不安や絶望に流れやすい者です。先が見えない今こそ、主よ、あなたの良き御支配に既に与り、あなたのあわれみを証しさせてください。神話や不安よりも遙かに強いこの幸いを、世界の人が知っていけますように。そのために遣わされ労している方々を祝福し、支えて、主にあって一つとしてください」

脚注:

[1] 海外宣教週間にあたり、マタイ福音書の講解説教の流れを崩して、24章14節の「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」の海外宣教の箇所を、その前後の文脈も含めて聞きます。

[2] ヘロデ大王は悪王として知られていますが、建築家としては高い評価を得ています。復元模型の図はこちらをご覧ください。https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/e5/f4f604b446d17021b829fa9d4ad775de.jpg


[3] 4~8節を「偽メシアや戦争の事を聞いたら、その後民族紛争が起きてから、患難期が始まる」と読んでいる人もいるでしょう。しかし、ここでの「まだ」は、「まだだけど、もうすぐ」ではなく、「まだです」との断言です。そして、それを「産みの苦しみ」と見るのです。「産みの苦しみオーディン」は、マタイではここのみ。マルコ13:8の並行記事、使徒2:24(しかし神は、イエスを死の苦しみ[欄外注:直訳「陣痛」]から解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。)、テサロニケ人への手紙第一5:3(人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。)9節の「苦しみスリプシス」 13:21、24:9、21、29

[4] 神の「法」は、冷たい秩序ではなく、神と隣人を愛する法です。その愛の法ならぬ法(=不法)が蔓延るので、人々の愛は冷えるのです。「世紀末」や終末的な状態は、単なる無法状態、無政府主義よりも、全体主義・絶対統制が蔓延ることも想定できます。それは、愛を冷やすでしょう。この言葉を逆手にとって、秩序を強制することは、この言葉の成就になります。それに対して、神の法は、愛を喜ぶもの。22章34-40節。

[5] 6節、13節、14節の「最後」と「終わり」は同じテロス(目標・ゴール)です。所謂「終末エスカトス」という悲壮な思想より、ゴール・完成という喜びと希望の思想が聖書の終末論です。

[6] 「愛が冷える」ならだめで「最後まで耐え忍びなさい」という読み方では、愛よりも不安を駆り立てます。自分の愛は冷えるけれども、主の愛に立ち戻り、耐え忍ぶことが出来るのです。そもそも、「不法が蔓延るので○○」で「愛が冷える」に着目し愛のなさを嘆かれる事自体、イエスがどれほど「愛」のお方であるか、に他なりません。その愛の主は、私たちの愛の冷えやすさをご承知で、なお愛してくださり、愛の炎を燃え立たせてくださるお方です。

[7] マタイの福音書10章22節でも「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」と同じフレーズで言われていました。

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