2021/7/4 マタイ伝24章1~14節「苦しみは産みの苦しみ」海外宣教週間[1]
福音が全世界に宣べられて、すべての民族に証しされる。それが神のご計画である。教会が福音を世界に宣べ伝えていく使命が、ここにも明言されています。この言葉から二千年近くの間に海外宣教が進められて、今ここで私たちが福音を聞いています。私たちそのものが、この御言葉の成就してきた証しです。そして、この尊い働きを覚えて、加わりたいと願います。
今見ましたように、この24章は弟子たちがエルサレム神殿を指し示した事から始まります。エルサレム神殿は高さ22m。純金が貼られ、それ以外の所も大理石が白く輝く姿は、遠くから窺えて、地中海世界で指折りの、美しい建造物でした[2]。しかしイエスはあっさり、どの石も積まれたまま残ることはない最後が来ることを仰います。これに弟子たちは慌てて、問う。
3…「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」
これに応えたイエスの言葉が4節からずっと続き、24章の最後でも終わらず、25章までの長い説教です。応えは弟子たちの質問への答ではありません。人々から問われた質問にイエスが直球で答を返されることは殆どなく、大抵かみ合わず、問いそのものを問い直されます。ここでも「終わりはいつですか。神殿も石一つ残さず崩れ、あなたが王として来られるしるしは何ですか」の質問に対して、イエスは「いつですか」という問い自体を終わらせています。
4…「人に惑わされないように気をつけなさい。5わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。6また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。…8これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。
偽キリストが現れて、戦争・紛争、飢饉・地震が起きても、終わりのしるしではない。大きな災害や、神殿や町が崩れるような出来事、パンデミックがあると、人は「これは終末のしるしではないか」と不安になりがちですが、そんな人の声に惑わされないように、むしろ、その苦しみも、「産みの苦しみ」、いのちを生み出す痛みと見る、全く新しい見方を仰いました[3]。
それはただ楽観して問題を小さく考えることでは決してありません。産む苦しみは大変な痛みです。9節からは厳粛です。酷い苦しみや殺され憎まれる。10~12節は弟子たちのことで、大勢のキリスト者が躓き、裏切り合い、憎み合い、偽預言者に惑わされ、不法が蔓延り[4]、多くの人の愛が冷える。そういう事もイエスは見通しています。でも、だから終わり、ではない。
13しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
14御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。[5]
人間の作った物はいつか必ず残らず崩れ落ちる。私たち信徒同士でも躓いて疑って、自分の愛が冷え切る。それが神ならぬ人間の現実です。でも絶望しなくて良い。人や自分の愛が冷えても、主に立ち戻って、耐え忍べばいいのです[i]。その先に待つのは、絶望的な終わりではなくゴール・完成なのです。
「いつだろうか。この先どうなるのか」と何かにすがりつけるものを探して、不安を煽る人の言葉に惑わされそうな私たちに、主は語りかけて「いつでも主の帰りをお迎えする生き方に立ち戻りなさい」と仰います。
将来を案じるより「今」を生きるよう呼びかけられます。
「確かさ」を求めてかえって不安に駆られるより[ii]、不確かな世界だからこそ、小さい私たち同士、憐れみをもって互いに励まし合い、助け合うこと。主が私たちによくしてくださったように、私たちも互いに支え合うこと。
そうして、主が私たちの王でいてくださる幸いに生きる。
それこそが「いつ主が来られても良い」生き方です。主の御国を迎える生き方なのです。そういう事が、この24章の後、25章まで書かれていくのです。
弟子たちの「いつですか、どんなしるしがありますか」という質問は、確かさを求め、不安に裏付けられたものです。イエスの言葉は、「いつかは分からない。しるしに惑わされないようにしなさい」と不確かさ、限界を受け入れさせ、その中でイエスを信頼し、互いに支え合うよう招きます。いつか、より、いつ主が来られても良いように、今ここに生きるよう、目を向けさせてくださいます。人が盤石だと思っているものはすべて崩れ、確かに思えたモノが崩れて慌てたり諦めたりしそうになる。私たち自身も弱さや愛のなさを露呈する。イエスはそう語った上で、それは終わりではなく「すべて産みの苦しみの始まり」だと仰います。世界は不確かなもので、だからこそ主の良い御支配に立ち戻れる。イエスが王となってくださり、病気や行き止まりの中でも、最後まで耐え忍ばせてくださり、福音が宣べ伝えられ、冷えた愛をもう一度温めていただく。そして主が私たちにしてくださったように、私たちも助け、励まし合う。苦しみは「産みの苦しみ」となって、私たちの中に謙虚と希望と交わりを育てます。そういう、「御国のこの福音」なのです。その言葉が、このユダヤから広まり、私たちは今この日本でこの福音を聞いていて、世界でこの「御国の福音」を伝える海外宣教があるのです。
海外宣教報をどうぞ読んで、海外宣教のために祈りましょう。また、世界で最もキリスト者の少ない日本にいるキリスト者のために世界の教会が祈ってくださっています。この交わりも、主ご自身が私たちを愛し、神の国の民としてくださっている証しです。この御国の福音が全世界に宣べ伝えられることと、私たちもこの「御国の福音」を受け取り続けることを祈ります。
私たちがこの福音の素晴らしさを味わってこそ、「世界に届きますように」と心から祈れるのですから。
「世界の王なる主よ。御国の福音が全世界に宣べ伝えられ、すべての民族に証されますように。私たちもあなたの御国より、自分が王でいようとして、狭い壁を築き、不安や絶望に流れやすい者です。先が見えない今こそ、主よ、あなたの良き御支配に既に与り、あなたのあわれみを証しさせてください。神話や不安よりも遙かに強いこの幸いを、世界の人が知っていけますように。そのために遣わされ労している方々を祝福し、支えて、主にあって一つとしてください」
脚注:
[1] 海外宣教週間にあたり、マタイ福音書の講解説教の流れを崩して、24章14節の「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」の海外宣教の箇所を、その前後の文脈も含めて聞きます。
[2] ヘロデ大王は悪王として知られていますが、建築家としては高い評価を得ています。復元模型の図はこちらをご覧ください。https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/e5/f4f604b446d17021b829fa9d4ad775de.jpg
[3] 4~8節を「偽メシアや戦争の事を聞いたら、その後民族紛争が起きてから、患難期が始まる」と読んでいる人もいるでしょう。しかし、ここでの「まだ」は、「まだだけど、もうすぐ」ではなく、「まだです」との断言です。そして、それを「産みの苦しみ」と見るのです。「産みの苦しみオーディン」は、マタイではここのみ。マルコ13:8の並行記事、使徒2:24(しかし神は、イエスを死の苦しみ[欄外注:直訳「陣痛」]から解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。)、テサロニケ人への手紙第一5:3(人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。)9節の「苦しみスリプシス」 13:21、24:9、21、29
[4] 神の「法」は、冷たい秩序ではなく、神と隣人を愛する法です。その愛の法ならぬ法(=不法)が蔓延るので、人々の愛は冷えるのです。「世紀末」や終末的な状態は、単なる無法状態、無政府主義よりも、全体主義・絶対統制が蔓延ることも想定できます。それは、愛を冷やすでしょう。この言葉を逆手にとって、秩序を強制することは、この言葉の成就になります。それに対して、神の法は、愛を喜ぶもの。22章34-40節。
[5] 6節、13節、14節の「最後」と「終わり」は同じテロス(目標・ゴール)です。所謂「終末エスカトス」という悲壮な思想より、ゴール・完成という喜びと希望の思想が聖書の終末論です。
[6] 「愛が冷える」ならだめで「最後まで耐え忍びなさい」という読み方では、愛よりも不安を駆り立てます。自分の愛は冷えるけれども、主の愛に立ち戻り、耐え忍ぶことが出来るのです。そもそも、「不法が蔓延るので○○」で「愛が冷える」に着目し愛のなさを嘆かれる事自体、イエスがどれほど「愛」のお方であるか、に他なりません。その愛の主は、私たちの愛の冷えやすさをご承知で、なお愛してくださり、愛の炎を燃え立たせてくださるお方です。
[7] マタイの福音書10章22節でも「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」と同じフレーズで言われていました。