[2] 律法にかなっている(欄外:よろしい)エクセスティンは、マタイにおいて、イエスが問われるよりも、イエスの敵たちがイエスに問いかける時に用いられます。個々の行動を「どうすべきか」は、イエスではなく、イエスが立ち向かった相手の発想です。イエスは、その「べき」よりも大きな人の生き方、神の国のあり方を教えて、「べき」から人を解放してくださったのです。 12:2(するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」)、4(どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。)、10(すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。)、12(人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」)、14:4(ヨハネが彼に、「あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない」と言い続けたからであった。)、19:3(パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」)、20:15(自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか[エクセスティンの否定疑問]。それとも、私が気前がいいので、あなたは妬んでいるのですか。』)、22:17、27:6(祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」)
[3] イエスがまず問われたのは「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち」という問いであった事自体、イエスがこの難問の表面に捕らわれず、彼らの心の思いを問題とされたこと、イエスの視点が抽象論ではなく、人格にあったことを示しています。
[4] ローマ帝国との関係はとても現実的で、簡単には答の出ない問題でした。民衆はローマから解放をしてくれる救い主を期待していました。人々が待ち望んでいた「救い主」は、神の国に迎え入れてくれる存在であると同時に、憎いローマを滅ぼしてくれる軍事的な英雄でした。だからイエスに向けられた期待も、力尽くでローマ軍を蹴散らしてくれるという期待だったのです。しかし、そのような「敵」への攻撃以上に、イエスは「王はだれか」を語り、その王の「御国」がどのようなものかを描き出しました。イエスが、ローマへの糾弾に乗らなかったことは、民衆の失望を招きました。ある意味ではイエスは「カエサル」について(ここ以外)語らなかったからこそ、十字架につけられた、とも言えるのです。
[5] 国家との関係についての聖句は、一方的に批判でもなく、むしろ、その役割を認めています。エレミヤ書29:7(わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』)、Ⅰテモテ2:1(そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。)、ローマ書13:7(すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。)、など。ウェストミンスター信仰告白は「第23章 国家的為政者について」第一節で、「全世界の至上の主また王である神は、ご自身の栄光と公共の益のため、神の支配のもと、民の上にあるように、国家的為政者を任命された。そしてこの目的のために、剣の権能をもって彼らを武装させて、善を行なう者を擁護奨励し、また悪を行なう者に罰を与えさせておられる。」と述べています。リンクから、第二節以下もご参照ください。http://www.rcj-net.org/resources/WCF/text/wcf23.htm
[6] Ⅰ歴代誌29:11「主よ、偉大さ、力、輝き、栄光、威厳は、あなたのものです。天にあるものも地にあるものもすべて。主よ、王国もあなたのものです。あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあがめられるべき方です。…16 私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために宮を建てようと私たちが準備したこの多くのものすべては、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。」、詩篇24篇1節「地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの」、104:24「主よ あなたのみわざはなんと多いことでしょう。 あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。 地は あなたのもので満ちています。」、119:94「私はあなたのもの。どうか私をお救いください。 私はあなたの戒めを求めています」。コリント人への手紙第一10:26「地とそこに満ちているものは、主のものだからです。」など。
[7] 肖像エイコーンと銘エピグラフェー エイコーンは福音書ではこの並行記事。パウロ書簡ではキリストを現す。ローマ1:23、Ⅱコリント3:18。
[8] 創世記1:26「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」
[9] 神は私たちに「お返し」を求めてはおられませんし、神に「お返し」などは不可能です。日本語で「感謝」は「お礼をする」という「お返し」文化の中で捉えられがちですが、聖書の神との関係は、「お返し」など出来ないものですし、「感謝」も、「有り難いと思う思い」であって、「お返しをして礼儀を果たす」という意味ではありません。
[10] 「返すアポディドーミ」は、「本来、相手のものであるものを渡す」の意。マタイでは、5:26(まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから出ることはできません。)、33(また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。)、6:4(あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。)、6(あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。)、18(それは断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。)、12:36(わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをし[説明を与え]なければなりません。)、16:27(人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。)、18:25-26(彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。26それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。)、28(ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。30しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。)、34(こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。)、20:8(夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』)、21:41(彼らはイエスに言った。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。」)、22:21、27:58(この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。)
[11] 例えば、マタイ25:27(それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してコミゾーもらえたのに)、27:3(そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返してストレフォー言った。)は、それぞれ、戻す、方向転換する、などの意味が違います。ちなみに、漢字の成り立ちも意味深長です。「「帰る(帰す)」の「帰」という字は、「肉」と「ほうき」の象形から成っており、「人が無事にかえったとき、清潔な場所で神に感謝をささげる」ことを意味しています。」Web記事「「帰る(帰す)」「返る(返す)」「還る(還す)」の意味と違い」https://business-textbooks.com/kaeru-kaesu-difference/
[12] パリサイ人もヘロデ党も、どちらが正しい、とは言わず、イエスは彼らの悪意、人を試す偽善を問われます。そして彼らは、イエスを試すつもりが、逆に自分の生き方を問われ、自分が神のものを神に返しているか、自分を神に帰しながら生きているか、と問われて、驚嘆してしまうのです。彼らは、ここでイエスの元に留まらず、「イエスを残して立ち去った」と結ばれています。彼らは立ち去るべきではなく、留まるべきだった、とも言えますが、パリサイ人やヘロデ党から遣わされた「弟子」である彼らが、自分に命じられた「イエスをことばの罠にかける」という使命を投げ出して、「立ち去った」とすれば、イエスによって彼らの生き方は大きく影響された、とも言えましょう。
[13] 「…キリスト教信仰とは単に個人の救いや聖性に関するものではなく、必ず「公共性」をも含んでいる…。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」という、旧約聖書のミカ書6章8節の正義に関する記述は、その最もよい例証と言える。 「正義を行う」、これは間違いなく、キリスト教信仰の核心的信念である。私は正義に関する聖書の理解を整理し、「正義を行う」とは、寡婦・孤児・寄留者・貧しき者、またその他の社会的弱者が圧迫を受けないように保障し、彼らが人間らしい尊厳ある保護を受けられるようにすることである、と指摘した。 しかし、「正義を行う」とは言っても、それらの圧迫を受けている人々のために正義の手を差し伸べたり、公平な待遇を勝ち取ったりするために立ち上がるだけでは、不十分な場合がある。というのも、不正義は制度的な問題でもあり得るからだ。制度的な不正義に直面する場合、「正義を行う」ためには、時には行動によって現在の不正義な法律を変える必要があり、あるいは憲法・政治・法律を再設計・再構築しなければならない場合がある。 「正義」こそが、キリスト教信仰と法律を結びつける架け橋なのだ。」『香港の民主化と信教の自由』(キリスト新聞社、2020年)、119頁。
[14] マタイの福音書10:28。2021年にも禁固刑に処された黄之鋒氏が、2017年に収監された祭、母親が彼に送った公開メッセージにこの箇所が引用されています。「愛する息子よ、聖書の言葉をよく覚えておきなさい。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(新約聖書・マタイによる福音書10・28)。信念をしっかりと持ち続け、持っている価値観を大事にしなさい。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(新約聖書・マタイによる福音書5・6)、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(新約聖書・ローマの信徒への手紙12・12)という聖書の教えに従い続け、活きた命の証しを立てなさい。試練を通して、あなたの命がより強くなり、人間性の美しさと神様の愛と正義とをよりよく現すことができるようになることを願っているわ。(以下略)」、前掲書、190頁。
[15] 全体主義社会は、体制を掌握した後に、徐々に人々の心までも変えようとする。香港教会は、未だ社会の制度に対して大きな変革をもたらすことができていないかもしれないが、少なくとも、自分自身が同化させられたり、無理矢理に変えさせられたりしなければ、なおそこには希望がある。チェコの元大統領ヴァーツラフ・ハヴェルは、全体主義に抵抗する道は日常生活において「真実の生」を生きることであり、「嘘の生」を拒絶することである、と主張していた。これは一種の倫理的行為であり、毎日の生活をより自由に、より真実に、そしてより尊厳あるものにするために、戦うことである。これこそが、彼が主張する「力なき者の力」の意味なのだ。」前掲書、108頁。