聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/7/18 マタイ伝22章15~22節「神に返す 神に帰す」

2021-07-16 16:02:21 | マタイの福音書講解
2021/7/18 マタイ伝22章15~22節「神に返す 神に帰す」

 19節の「デナリ銀貨」は礼拝の最初にお見せしたとおり、小さな銀貨に皇帝(カエサル)ティベリウスの肖像があり、その回りに「ティベリウス・カエサル 神君アウグストゥスの息子にして皇帝」という銘が刻まれていました[1]。

 当時、ローマ帝国の属州だったユダヤでもこの銀貨が使われ、一人一デナリ(1日分の労賃)を毎年ローマに納める決まりになっていました。ローマの属国となって支配に屈して、税金を納めなければならない。この屈辱にユダヤ人には耐えかねていました。15節の「パリサイ人」は納税には批判的で、取税人を強く軽蔑していました。一方16節の「ヘロデ党」はローマ政権で権力を与えられているヘロデ家を応援する立場です。彼らはローマへの納税を受け入れています。そのヘロデ党と、パリサイ人、政治的には反対の立場の両者が結託して、イエスに質問しています。それは、この税金という微妙な難問をイエスにふっかけて、言質を取ろう。納税に賛成なら民衆の反感を煽り、反対と言えばヘロデ党が反乱罪で訴える。そういう
「言葉の罠にかけよう」
としたのです[2]。これに対して、イエスは、
18…彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。…
という問いで答えられます[3]。その後、税として納めるデナリ銀貨を持ってこさせ、有名な、
21…「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」
を仰います。イエスが皇帝やローマについて直接語ったのはここだけです[4]。ここでも税金をローマに納めるべきかどうか、自分を「神の子」だなどと思い上がるカエサルに税金を納めるべきかどうか、という二者択一の質問にイエスは答えていません。この銀貨を納めるべきかどうか以前に、その皇帝の肖像が刻まれた銀貨で自分たちが生活している。給料のやりとりも、買い物も、経済や社会が回って、その上に自分が生きている。あんな政府に税金なんか取られたくない、と言いつつ、自分の生活を成り立たせているお金にはシッカリ政府の名前が書かれている。その笑ってしまうような矛盾を、イエスは銀貨を出させて気づかせるのですね。[5]
 そこから更に踏み込んでイエスは言われます。
「神のものは神に返しなさい」
と。神のものとは何でしょう。これは、この世界のすべては神がお造りになったものですから、すべてが神のものでもあります[6]。しかし私たちがまず
「返す」
のは私たち自身です。デナリ銀貨にはカエサルの肖像と銘が刻まれていました。この「肖像(かたち)」という言葉は[7]、創世記1章26節で神が人間を「神のかたちに造ろう」と言われたのを思い出させます[8]。銀貨を持って「税金は神の律法に叶っているかどうか」と論じている、その銀貨がカエサルのものでしたが、それを持っている手も体も、口も、自分のものではなく神のものなのです。人間は、神の肖像が刻まれ、神の言葉という銘が刻まれたものです。私たちは神の尊い価値を刻まれて、神の栄光を現すために生かされています。ただ「税」を納めるように神に献金や奉仕で「お返し」をする以上のことです[9]。
 この「返す」は「本来相手のものであるものを戻す」という事です[10]。日本語の「返す」には「私が返す」という意味合いが強く、「帰す」は「本来の場所へ戻らせる」。こちらの方がいいかも知れません[11]。人は、神のものとして、神に自分を帰しながら生きる。その時、悪意で人を罠に掛けよう、事実をねじ曲げることは到底できないはずです[12]。
 この言葉に教会は従って、イエスこそ王という告白に立ちました。「反ローマ」よりも「イエスこそ王」という告白を鮮明にしたのです。それはローマが皇帝崇拝に強めていった時、教会を脅威と感じることに繋がりました。もし皇帝や国や支配者がその分を越えて礼拝や服従を求めたり、人の命や自由を脅かしたりするなら、それまで従う必要はありません[13]。イエスが、
「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」[14]
と仰った通りです。しかしその「滅ぼせる」神が、人間の王と違い、奉仕や服従を強いるどころか、私たちを救うため、ひとり子イエス・キリストを送り、魂も体も十字架に献げてくださった。そして甦って、私たちが喜びをもって、この方のものとして生きるようにしてくださる。この事実を、ねじ曲げることの出来ない事実として告白しながら生きるのです。今なお、です。

 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」。
 この大原則を具体的な個々の状況にどう適用すれば良いかは、いつも簡単に答えが出るわけではありません。誰に投票するか、環境と経済の両立、賛成できない法案にどう抵抗するか、オリンピックのナショナリズムや拝金主義と、ワクワクする事実…。判断に迷い、難しくして試してくるのがこの世界です。「~すべきか、すべきでないか」で悩んだり、対立したりする私たちに、王であるイエスは近づいてくださいます。憎まれながら税金を求めるカエサルと違って、このイエスは私たちに向き合い、私たちの生活のただ中に来られて、驚くべき言葉で私たちに語りかけてくださいます。
 「あなたこそ神です、私たちはあなたのものです」
と告白させてくださる。ここに立てることは本当に幸いです。信仰の自由や迫害で大変な思いをしたキリスト者たちはこの「キリストこそ私たちの唯一の主」という告白に立ち、爽やかな、吹っ切れたような姿が共通しています。私たちもそこに立てるのです。迷いの中、神のものを神に帰する。ポケットの中身から、心の思いも、口にする言葉も、この方に帰して生きる[15]。そして、わざわざ難しい問題を突きつけられた時には、堂々と悩みながら、悪意や嘘を捨てて、大胆に決断することが出来る。そうさせてくださるイエスこそ私たちの王です。

「世界の王なる神よ、あなたこそすべての主です。私たちも万物も、あなたのものです。すべての栄光をあなたに帰しつつ、真実を曲げることなく、あなたこそ主であると証しさせてください。あなたのものを奪おうとしたり、人の尊さや自由や命を奪おうとする者には、あなたを恐れて立ち向かわせてください。私たち自身もあなたにすべてを帰することを忘れる時、どうか恵みにより、その危うさに気づかせ、あなたのものである幸いに立ち戻らせてください」



脚注:

[2] 律法にかなっている(欄外:よろしい)エクセスティンは、マタイにおいて、イエスが問われるよりも、イエスの敵たちがイエスに問いかける時に用いられます。個々の行動を「どうすべきか」は、イエスではなく、イエスが立ち向かった相手の発想です。イエスは、その「べき」よりも大きな人の生き方、神の国のあり方を教えて、「べき」から人を解放してくださったのです。 12:2(するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」)、4(どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。)、10(すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。)、12(人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」)、14:4(ヨハネが彼に、「あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない」と言い続けたからであった。)、19:3(パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」)、20:15(自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか[エクセスティンの否定疑問]。それとも、私が気前がいいので、あなたは妬んでいるのですか。』)、22:17、27:6(祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」)

[3] イエスがまず問われたのは「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち」という問いであった事自体、イエスがこの難問の表面に捕らわれず、彼らの心の思いを問題とされたこと、イエスの視点が抽象論ではなく、人格にあったことを示しています。

[4] ローマ帝国との関係はとても現実的で、簡単には答の出ない問題でした。民衆はローマから解放をしてくれる救い主を期待していました。人々が待ち望んでいた「救い主」は、神の国に迎え入れてくれる存在であると同時に、憎いローマを滅ぼしてくれる軍事的な英雄でした。だからイエスに向けられた期待も、力尽くでローマ軍を蹴散らしてくれるという期待だったのです。しかし、そのような「敵」への攻撃以上に、イエスは「王はだれか」を語り、その王の「御国」がどのようなものかを描き出しました。イエスが、ローマへの糾弾に乗らなかったことは、民衆の失望を招きました。ある意味ではイエスは「カエサル」について(ここ以外)語らなかったからこそ、十字架につけられた、とも言えるのです。

[5] 国家との関係についての聖句は、一方的に批判でもなく、むしろ、その役割を認めています。エレミヤ書29:7(わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』)、Ⅰテモテ2:1(そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。)、ローマ書13:7(すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。)、など。ウェストミンスター信仰告白は「第23章 国家的為政者について」第一節で、「全世界の至上の主また王である神は、ご自身の栄光と公共の益のため、神の支配のもと、民の上にあるように、国家的為政者を任命された。そしてこの目的のために、剣の権能をもって彼らを武装させて、善を行なう者を擁護奨励し、また悪を行なう者に罰を与えさせておられる。」と述べています。リンクから、第二節以下もご参照ください。http://www.rcj-net.org/resources/WCF/text/wcf23.htm

[6] Ⅰ歴代誌29:11「主よ、偉大さ、力、輝き、栄光、威厳は、あなたのものです。天にあるものも地にあるものもすべて。主よ、王国もあなたのものです。あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあがめられるべき方です。…16 私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために宮を建てようと私たちが準備したこの多くのものすべては、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。」、詩篇24篇1節「地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの」、104:24「主よ あなたのみわざはなんと多いことでしょう。 あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。 地は あなたのもので満ちています。」、119:94「私はあなたのもの。どうか私をお救いください。 私はあなたの戒めを求めています」。コリント人への手紙第一10:26「地とそこに満ちているものは、主のものだからです。」など。

[7] 肖像エイコーンと銘エピグラフェー エイコーンは福音書ではこの並行記事。パウロ書簡ではキリストを現す。ローマ1:23、Ⅱコリント3:18。

[8] 創世記1:26「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」

[9] 神は私たちに「お返し」を求めてはおられませんし、神に「お返し」などは不可能です。日本語で「感謝」は「お礼をする」という「お返し」文化の中で捉えられがちですが、聖書の神との関係は、「お返し」など出来ないものですし、「感謝」も、「有り難いと思う思い」であって、「お返しをして礼儀を果たす」という意味ではありません。

[10] 「返すアポディドーミ」は、「本来、相手のものであるものを渡す」の意。マタイでは、5:26(まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから出ることはできません。)、33(また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。)、6:4(あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。)、6(あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。)、18(それは断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。)、12:36(わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをし[説明を与え]なければなりません。)、16:27(人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。)、18:25-26(彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。26それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。)、28(ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。30しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。)、34(こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。)、20:8(夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』)、21:41(彼らはイエスに言った。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。」)、22:21、27:58(この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。)

[11] 例えば、マタイ25:27(それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してコミゾーもらえたのに)、27:3(そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返してストレフォー言った。)は、それぞれ、戻す、方向転換する、などの意味が違います。ちなみに、漢字の成り立ちも意味深長です。「「帰る(帰す)」の「帰」という字は、「肉」と「ほうき」の象形から成っており、「人が無事にかえったとき、清潔な場所で神に感謝をささげる」ことを意味しています。」Web記事「「帰る(帰す)」「返る(返す)」「還る(還す)」の意味と違い」https://business-textbooks.com/kaeru-kaesu-difference/

[12] パリサイ人もヘロデ党も、どちらが正しい、とは言わず、イエスは彼らの悪意、人を試す偽善を問われます。そして彼らは、イエスを試すつもりが、逆に自分の生き方を問われ、自分が神のものを神に返しているか、自分を神に帰しながら生きているか、と問われて、驚嘆してしまうのです。彼らは、ここでイエスの元に留まらず、「イエスを残して立ち去った」と結ばれています。彼らは立ち去るべきではなく、留まるべきだった、とも言えますが、パリサイ人やヘロデ党から遣わされた「弟子」である彼らが、自分に命じられた「イエスをことばの罠にかける」という使命を投げ出して、「立ち去った」とすれば、イエスによって彼らの生き方は大きく影響された、とも言えましょう。

[13] 「…キリスト教信仰とは単に個人の救いや聖性に関するものではなく、必ず「公共性」をも含んでいる…。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」という、旧約聖書のミカ書6章8節の正義に関する記述は、その最もよい例証と言える。 「正義を行う」、これは間違いなく、キリスト教信仰の核心的信念である。私は正義に関する聖書の理解を整理し、「正義を行う」とは、寡婦・孤児・寄留者・貧しき者、またその他の社会的弱者が圧迫を受けないように保障し、彼らが人間らしい尊厳ある保護を受けられるようにすることである、と指摘した。 しかし、「正義を行う」とは言っても、それらの圧迫を受けている人々のために正義の手を差し伸べたり、公平な待遇を勝ち取ったりするために立ち上がるだけでは、不十分な場合がある。というのも、不正義は制度的な問題でもあり得るからだ。制度的な不正義に直面する場合、「正義を行う」ためには、時には行動によって現在の不正義な法律を変える必要があり、あるいは憲法・政治・法律を再設計・再構築しなければならない場合がある。 「正義」こそが、キリスト教信仰と法律を結びつける架け橋なのだ。」『香港の民主化と信教の自由』(キリスト新聞社、2020年)、119頁。

[14] マタイの福音書10:28。2021年にも禁固刑に処された黄之鋒氏が、2017年に収監された祭、母親が彼に送った公開メッセージにこの箇所が引用されています。「愛する息子よ、聖書の言葉をよく覚えておきなさい。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(新約聖書・マタイによる福音書10・28)。信念をしっかりと持ち続け、持っている価値観を大事にしなさい。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(新約聖書・マタイによる福音書5・6)、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(新約聖書・ローマの信徒への手紙12・12)という聖書の教えに従い続け、活きた命の証しを立てなさい。試練を通して、あなたの命がより強くなり、人間性の美しさと神様の愛と正義とをよりよく現すことができるようになることを願っているわ。(以下略)」、前掲書、190頁。

[15] 全体主義社会は、体制を掌握した後に、徐々に人々の心までも変えようとする。香港教会は、未だ社会の制度に対して大きな変革をもたらすことができていないかもしれないが、少なくとも、自分自身が同化させられたり、無理矢理に変えさせられたりしなければ、なおそこには希望がある。チェコの元大統領ヴァーツラフ・ハヴェルは、全体主義に抵抗する道は日常生活において「真実の生」を生きることであり、「嘘の生」を拒絶することである、と主張していた。これは一種の倫理的行為であり、毎日の生活をより自由に、より真実に、そしてより尊厳あるものにするために、戦うことである。これこそが、彼が主張する「力なき者の力」の意味なのだ。」前掲書、108頁。

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