聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/7/11 マタイ伝22章1~14節「準備は出来ています」

2021-07-10 15:36:26 | マタイの福音書講解
2021/7/11 マタイ伝22章1~14節「準備は出来ています」

 前回21章28~32節「ぶどう園に行くよう言われた兄と弟の譬え」を見ました。次の33~46節の「ぶどう園の悪い農夫」は飛ばして、22章「王子の婚宴に招く王の譬え」に急ぎます。しかし21章23節以降ずっと、語っている相手は、「祭司長や長老たち」、当時の宗教界の権威たちです。自分たちの地位を誇る特権階級です。この譬えで、最初に出てくる人々、以前から招待されていたのに、呼ばれても雑用のために、来ようとしなかった人々です[1]。そこで王は、
4…『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』5ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、6残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。[2]

 これが、ここで直接語りかけられている「彼ら」、祭司長や長老の姿です。7節の乱暴な対処も、21章41節で祭司長たちが「悪者どもを情け容赦なく滅ぼしたらいい」と言った事を、そのまま突き返した言葉です。ですから、話は先に進みます。8節以下で言います。
 8…『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。9だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』10しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。

 この「大通り」は町の真ん中のメインストリートというよりも、町の境目、他の町々に通じていく大通りです。住民と外国人、商人や難民がゴチャゴチャに旅する街道です。そこで出会った人を皆集めた。良い人も悪い人もで、披露宴客は一杯になったです。先の招待者たちが「ふさわしくなかった」のに、今度は「良い人も悪い人も」はふさわしいのでしょうか。
 しかしこれが鍵です。ふさわしい[3]とは、この王の招待を受け取って、お祝いすることです。王子の結婚披露宴を喜んで、王が自分の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも惜しみなく用意するほどのお祝いに招かれた、その招待を受け取る。良い人も悪い人も、この招待を受けて、披露宴に来ればふさわしいのです。祭司や指導者、地位や仕事や誇りがあって、王のすぐ近くに住んでいても、王の喜びを他人事(ひとごと)としか思わず、行かないならば
「ふさわしくない」
のです。
 気になるのは11節以下の
「婚礼の礼服を着ていない人が一人いた」
という所です。王はこの人を外に放り出させてしまうのです。ここにいる誰もが、大通りで招待を受けた人ですから、礼服なんて持っていなくて当然です。でもこの人以外は礼服を着たのです。それは当時の習慣が、婚礼の礼服をお客たちに用意するのも主人だったからだとも言われます。庶民の結婚式ではそんな用意は出来なくても、王が客や家来、奴隷のためにも、王の前に出るにふさわしい服装を用意した例は聖書に沢山あります[4]。「礼服ぐらい用意しなきゃ」でなく、礼服も用意され、着るだけなのです[5]。それを、この人は着ていませんでした。理由は分かりません。確かなのは、この人は自分が礼服を着ていないことを見咎められるなんて考えなかった事です。婚宴を祝う気持ちがないまま、婚宴の席に着いていた。それは王の招待を踏みにじる事です。
 だから王は言います。
「13この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる[6]」。
 「泣いて歯ぎしり」は悔しさ、自己憐憫や恨みがましさの強い表れです[7]。「王に悪かった。王子の婚礼なのに申し訳なかった」でなく、力一杯悔しがるだけ。それ自体、この人が婚礼の招待を別の意味で踏みにじっていた現れです。「外で泣いて歯ぎしりする。いい気味だ」ではなく、悔しがる反応自体が、この人が、礼服だけでなく王の招待の思いを受け取っていない証し、選ぶにふさわしくない自己証明だと言うことです。

 「天の御国」という将来は、自分たちの楽園、自分の愛する人との再会、とても狭く、独り善がりな心地よい世界で描かれがちです。祭司長たちの頭にも「特権階級」の延長の天国だったでしょうし、私たちもそうした「救い」や「御国」を思い描きやすい。イエスは言われます。
「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王に譬えることが出来ます」
と。王が自らの牛や肥えた家畜を屠り、来る人を皆、永遠にもてなしてくださる祝宴。その用意をすべてご自身が支払ってくださる。礼服も用意してくださる。ただその婚宴は私たちの婚宴ではない。「主役はあなた」でなく、神ご自身です。私たちは礼服を着るのが礼儀ですが、ゲストが白いウェディングドレスを着るのも御法度です。だからといって「人の婚礼なんか出るか」と歯ぎしりするよりも、その喜びに惜しみなく招いてくださる神がいてくださいます。自分たちの幸せな天国ではなく、神が神となられる、永遠の祝宴が将来にある。神がすべてを用意して、私たちを「ともに祝う婚礼の客」として迎えてくださるお祝いに一日一日近づいている。そこに向けて生かされているのです。
 そして、そこに向かう今、主は私たちをも整えてくださっています。自分が特別だと考える思いを脱ぎ捨てて、神の下さる礼服、新しい生き方を受け取らせてくださる。自分の喜びでなければそっぽを向いたり、悔しがったりする心を変えられる。私たちが主役の婚礼ではありませんが、欠かせない来賓として招かれ、心からこの喜びを一緒にお祝いしてほしい、それが唯一の「ふさわしさ」だ。その用意は全部惜しまずにしてあるから、来なさい、と招かれるのです。
 その恵みを私たちが受け取れるように、自分が神でも特別でもなく、皆がこの惜しみない招待に与っているのだと見られるようにも、私たちを整えてくださるのです。

「主よ。神であり王であるあなたの祝宴に、私たちを招いてくださり有り難うございます。私たちがふさわしいからではなく、あなたが全てを準備して、犠牲も厭わずに、相応しさを着せてくださるご招待です。今、地上で味わう喜びやお祝いはすべて将来の栄光の前味です。今ある痛みや悲しみの中で、私たちはあなたの備えを待ち焦がれています。差し出された恵みを着つつ、あなたの喜びを喜び、互いの喜びや思いをともにする者と変えられていけますように」



脚注

[1] 当時の結婚式の習慣では、最初に、結婚の予定を大雑把に告げて招待しておき、式が近づいたらもう一度招待客に案内を出す、というのが流れでした。

[2] この譬えと、21章33~46節の譬えは、構造的に多くのことが似ています。ぶどう園の主人と王、農夫たちと招待客、しもべを遣わし、「別のしもべたちを再び遣わし」たこと、彼らが捕らえられ、酷い目に遭い、殺されてしまうこと、など。その相似関係からも、この譬えが、単体ではなく流れから読まれるべきことが分かります。

[3] 「ふさわしい」アクシオス 原意は「重さがある。重りが釣り合う」の意。マタイでは、3:7~8([洗礼者ヨハネが、大勢のパリサイ人やサドカイ人が洗礼を受けに来るのを見て]まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。8それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。…)、10:10~11([イエスが自ら派遣する弟子たちに]袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。11どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。)、37~38(わたし[イエス]よりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。38自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。)

[4] ヨセフ(創世記41章14節)、ソロモンの家来(Ⅱ歴代誌10章5節)、エステル(エステル記2章3節)。礼服さえ用意されているのに、それでも、興味本位か、ご馳走を食べられたらいい、という思いか、招待を軽んじて、自分のための宴会であるかのように思う。

[5] 今回の箇所も、「日本の現代の結婚式」のしきたりと、当時の結婚の披露宴の違いを混同しないように、自分たちの先入観で、「礼服を着るのは当然」「招待されなくて来るなんてあり得ない」という判断が的外れであることを意識したいと思います。六日前の徳島新聞の記事にありましたが、日本に身近な台湾の結婚式でさえ、呼ばれていない人も当日かなり増えるのは当たり前、予想をつかないのが結婚式、普段着でもOKという文化がユニークに紹介されていました。

[6] 泣いてクラウスモス歯ぎしりブリュグモス・オドゥースする」は、マタイの福音書で六回も繰り返される、御国に入れない者たちの末路です。また、この言い方はそれ以外には出て来ませんから、御国に入れない「罰」というよりも、御国を拒む者たちの「特徴」と読めます。 8:12(しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」)、13:42([不法を行う者たちを]火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。)、50([悪い者どもを]火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。)、22:13、24:51(彼[悪いしもべ]を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与「えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。)、25:30(この役に立たないしもべ[1タラントを地に埋めたしもべ]は外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』

[7] ここでは「歯ぎしりする」を日本語らしく「強い悔しさ」と表現しました。「悔しさ」の感情について「ひとつは取り返しのつかないことで残念に思う「持っていた、または得られたかもしれない可能性を失ってしまった悔しさ」と、もうひとつは相手に辱められたり、無力を思い知らされた「自分の尊厳を傷つけられた悔しさ」です。」という解説がありました。また、英語には「悔しい」に相当する言葉はなく「受け入れたくない」「自分を責めている」が相当する、という解説もあります。

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2021/7/11 創世記39-41章「ヨセフ、エジプトへ行く」こども聖書㉒

2021-07-10 12:56:18 | こども聖書
2021/7/11 創世記39-41章「ヨセフ、エジプトへ行く」こども聖書㉒

 先週からヨセフのお話をしています。ヨセフの父はヨセフばかりを可愛がりました。それで十人の兄たちの妬みは燃え上がり、遂にヨセフを捉えて、通りかかった商人たちに売り飛ばしてしまいました。今から四千年近く前の話です。帰って来ることなどまず期待できません。もうヨセフとは、二度と会うことはない、死んだ存在となったのです。
 ところが、そのエジプトで、ヨセフは生きていました。エジプトの高官ポティファルに買われて、彼の家で奴隷として働くことになりました。ヨセフはよく働きました。
 2主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。3彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。4それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。
 神はヨセフとともにいてくださいました。そして、ヨセフの仕事を成功させてくださいました。その家の主人も、ヨセフが優秀だと言うよりも、主なる神がヨセフとともにいてくださるのだなぁと思いました。あの仕事もせずに、長袖の晴れ着を着ていた、お坊ちゃんのヨセフが、遠くのエジプトに行って奴隷として働かされたら、直ぐに倒れてしまうだろうと思ったら、違いました。主は、ヨセフをたくましく助けて、ともにいてくださったのです。ヨセフは、そこでエジプトの言葉を覚え、家を管理する仕事を覚え、エジプト人の主人に信頼され仕事を任されて、たくましく成長していったのです。
 ところが、そのご主人の奥さんが、ヨセフを陥れて、ヨセフは牢屋に入れられてしまいます。ヨセフは悪くないのに、濡れ衣を着せられて、捕らえられ、囚人になってしまいます。奴隷になったのも最悪と思ったのに、囚人になって牢屋に入れられたら、もっと最悪に思ったでしょう。暗く、汚く、恐ろしい場所ではなかったでしょうか。
21しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。22監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
 牢屋でも、主はヨセフとともにおられました。主はヨセフに恵みを施し、助けて、そこにいる他の囚人を助けるようになりました。不思議ですね。主は、ヨセフがどこにいてもともにいてくださって、ヨセフの働きを祝福してくださったのです。神様は、私たちがどこにいてもともにおられます。私たちが行きたくないような所、そんなところにいくなんて最悪、と思う所でも、ともにいてくださいます。そして、そこで、私たちがすることを通して、最悪な場所で暮らしている人たちを助けるようになさいます。そんなことを、ヨセフの人生は私たちに教えてくれています。
 勿論、ヨセフにとって楽しい時間ではなかったでしょう。ヨセフがお兄さんたちに売られたのは17歳のとき。それから、23年、奴隷と囚人としてヨセフは生きていました。いろいろな事があったでしょう、ヨセフが牢屋を出たのは、40歳の時でした。とても長い長い23年です。早く牢屋から出たかったでしょう。いや、もう牢屋を出ることは諦めていたかも知れません。そんな時に、エジプトの王様を助けるため、ヨセフは牢から出されたのです。王が見た不思議な夢の説き明かしをするためでした。
15ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」
 ヨセフは夢の中で、人の夢を解き明かしたことがあったので、それを伝え聞いたファラオが自分の夢を話したのです。他にエジプトにいた誰も、ファラオの夢の話を聞いてもさっぱり分からなかったのです。ただ一人、ヨセフだけがそれを解き明かしました。
29今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れようとしています。30その後、七年間の飢饉が起こり、エジプトの地で豊作のことはすべて忘れられます。31この地の豊作は、後に来る飢饉のため、跡も分からなくなります。その飢饉が非常に激しいからです。…33ですから、今、ファラオは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの地の上に置かれますように。…35…これからの豊作の年のあらゆる食糧をすべて集めさせ…36…その食糧は、エジプトの地に起こる七年の飢饉のために、国の蓄えとなります。…」
 この言葉を受けて、エジプトの王ファラオはヨセフに言うのです。
40おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」
 こうして、ヨセフはエジプトを治めて、多くの人の命を救うのです。甘えん坊で、奴隷で、無実の罪で囚人だったヨセフが、エジプトの大臣になりました。牢から出されて、名前も与えられ、結婚して子どもも与えられます。牢屋から、国を治める働きに大きく変わりました。そして、国中の収穫を集めて、倉庫に蓄え、来る大飢饉に備えたのです。

 エジプトの王はここでは全く無力です。エジプトは当時の世界の超大国です。その王ファラオは「神の子ども」だと自称していました。世界一の権力者だと、思っていました。しかし、ファラオもただの人間です。神ではありません。飢饉を止めることも、どう備えたら良いかも分かりません。自分の夢さえ、どうにも出来なかったのです。そのファラオを助けたのは、囚人だったヨセフでした。もとは奴隷で、その前は遠くの野蛮人。そんな名前も知られなかったヨセフが、最高の王ファラオを助け、エジプトの命を救いました。こうして神は、ファラオたちのプライドを打ち砕いたのです。
 神は、人の支配や上下関係をひっくり返されます。神の子だと思い上がる人を辱め、一番苦しい思いをしている人々とともにいてくださいます。私たちが「最悪だ、終わりだ」と思った場所から新しいことを始められます。私たちがどこにいようとも、神は私たちとともにおられます。そして、偉そうにする人の言葉など気にせず、神のなさる働きを担うように、本当に尊い生き方をするように、招いて、そうしてくださるお方です。

「主イエス様。あなたこそ真の王でありながら、貧しく生まれ、飼葉桶に寝かされ、田舎者と笑われ、最後は十字架に処刑されたお方です。そのあなたこそ、世界を治めておられ、最も低くされている人をも慰め、強めて、高ぶる者を卑しめるお方です。どうぞ、私たちの人生も、そのあなたの不思議な御支配を現し、命の王の証しとしてください」
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