


[1] C・S・ルイス『被告席に立つ神 C・S・ルイス宗教著作集別巻2』、本多峰子訳、新教出版社、1998年。また、被告席に立つ神 | 過去の礼拝説教 - 日本キリスト教団 茅ヶ崎恵泉教会 も参照。
[2] 60節。
[3] 特に、榊原、『マタイによる福音書 下』、261頁以下を参照。「…事実、欧米の聖書学者たちは、多くの点で、この審理の不正をあばいてきました。第一に、この裁判は、客観的な証拠によらず、被告の自白だけで判決されました。第二に、裁判長・議長たる大祭司が先に「彼は神を汚した」と結論してから「あなたがたの意見はどうか」と誘導しました。第三に、サンヘドリン議会は、神殿内の一定の部屋で開かれることが決まっていたのに、この時は大祭司邸宅で開かれました。第四に、こういう問題に関するユダヤ教議会は、午後から、ましてや真夜中には、開廷されてはならないのに、非合法な夜中に行われました。第五に、とくに死刑決議は、ユダヤでは慎重に行われ、二人の書記の一人が賛成票を、もう一人が反対票を数えるほどでしたし、証人は、特別に正義と真実とを求められ、また死刑決議の表決は、少なくとも翌日まで延期されねばならなかったのに、ここでは、その場で即決されてしまいました。 なるほど、今日の議事法からみれば、これらの点は不当な議事運営法かもしれません。けれども、このうちの第一点(自白にもとづく判決)と第二点(議長の誘導)とは、欧米の議会通念から下された勝手な批判であって、東洋人のセンスでは、それほど異例ではありません。…以下略」
[4] ここにはイザヤの預言した「苦難のしもべ」の姿があり、キリスト者にとっての模範もあるといえます。イザヤ書53章5~6節「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」、同7節「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」、Ⅰペテロ書2章20~25節「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。21このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。25あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」 しかし、イエスは沈黙し通してはおらず、64節で発言をされています。ですから、単純な「預言の成就」とは言い切れない複雑さも加味しなければなりません。
[5] この質問を最初からすれば良かったのであれば、わざわざ偽証人を大勢立てる必要はありません。偽証人の存在は、大祭司たちの策が(不完全で穴だらけではあれ)あったからです。その準備がうまくいかなかったために、大祭司はこの質問を問うたのでしょう。
[6] ダニエル書7章13~14節「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。14この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」また、同26~27節「しかし、さばきが始まり、彼の主権は奪われて、彼は完全に絶やされ、滅ぼされる。27国と、主権と、天下の国々の権威は、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』」、詩篇110篇1節「主は私の主に言われた。「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」」
[7] イエスの罪状を決定づけたのは、ご自分が「預言された「人の子」、やがて、栄光のうちに来る」と仰ったことです。第一に、イエスが人の罪を背負った、とはいえ、濡れ衣を着せられたり、身代わりとなることを申し出たり、誰かを庇って罪を背負うことで有罪判決を下されたのではありません。ですから、私たちがイエスに倣うとは、私たちが人を庇ったり、身に覚えのない罪をも認めたりするような事ではありません(けれど、そのような、「自分が罪を背負う」ことがキリスト者の証しだと誤解されていることも少なくないのです)。第二に、イエスがキリストであることは、証明できることではありません。大祭司も証明を求めませんでした。しかし、イエスがそう仰っただけで十分でした。私たちが、神の子どもとされた、という告白もそうではないでしょうか。また、私たちが他者からの言いがかり(偽証)や挑発にどう応えようかと悩む必要はありません。誤解を解こう、言葉尻を取られたことに抗弁しようとする必要もありません。相手を説得することがキリストの証しでもないし、無理矢理、誰かの罪を背負おうとして「証ししよう」とするのでもないのです。ただ、キリストのことばのゆえに、自分が神の子どもとされた事実。これを証すれば良いのです。
[1] ヘブル語ハーグの複数形。
[2] エズラ記4章4~5節「すると、その地の民はユダの民の気力を失わせようとし、脅して建てさせないようにした。5 さらに、顧問を買収して彼らに反対させ、この計画をつぶそうとした。このことはペルシアの王キュロスの時代から、ペルシアの王ダレイオスの治世の時まで続いた。」
[3] エズラ記5章1節「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤという二人の預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に対して、自分たちの上におられるイスラエルの神の御名によって預言した。」、6章14節「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、またキュロスとダレイオスと、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、建築を終えた。」
[4] 彼らが自分の歩みを考えたら、板張りの家に住むとか、多くの種を蒔いて豊作を見込むとか、自分の家のために走り回る事でした。でもそこに神の家がなかった。それは生ける神ではなく、富とか暮らしを神として、生活や時間を献げて、幸せになろうとする事でした。それは虚しい事です。神を神としないなら、何かを「神」としているのです。自分の住居、暮らし。何にお金を掛け、何に時間を費やしているか。何のために犠牲を惜しまず、何を今、気に掛けているか。それこそあなたの「神」です。「主なる神を、イエス・キリストを通して礼拝する」と言いつつ、私たちはその神の顔を何に見えているでしょうか。神は、地上の何かの形に、自分を形作るな、と仰せられます。それは私たちの神ではないのですから。主は生ける、力ある神で、人が主を神とするなら、それを喜び、栄光を現すと約束してくださいます。私たちが自分の家や生活のために走り回るとしても、それを拝むのではなく、神を礼拝すること。それは、私たちのためにも、ただ一つの第一のことなのです。
[5] 「よく考えよ」(に心を備えよ。欄外) 新共同訳「自分の道に心を留めよ」1:5、7。2:15、18も。
[6] 主はご自身のために、立派な宮を建てよとは求めません。山に上って運んでくる木で良いのです。
[7] エズラ記では3章10~13節にこう記されています。「3:10 建築する者たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。11そして彼らは主を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。12しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。13そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた。」 しかし厳密には、これは最初の神殿建設が中断される直前の記事です。ですから、ハガイ書2章の出来事そのものではありません。18年前に、この比較と嘆きがありました。それも、神殿再建を中断されたまま放置した、心理的な要因と絡んでいるのかもしれません。その反省もなく、今ここでも、せっかく始まった再建工事に水を差す声として、ハガイ書2章3節は読まれるべきなのかもしれません。いずれにせよ、神が、大きさにかかわらず、神殿を建てることを命じて、その基礎作りを祝われているのに、人間のほうが、「まるで無いに等しい」と嘆いている、という奇妙なことが起きているのです。
[8] エレミヤ書25章11節「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──主のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」、29章10節「まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。」、ダニエル書9章2節「すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」
[9] 第三回バビロン捕囚において神殿が破壊されたのが紀元前586年。その後、新興のペルシアによりバビロン帝国が滅ぼされたのが、紀元前539年。翌年、ペルシア王クロスによりイスラエル人の希望者による捕囚帰還(538年)。その後、18年の中断を経て、工事が再開され、ゼルバベル政権下で神殿が再建されたのが前515年です。
[10] イエス・キリストこそ、私たちといつもともにいますと仰いました。言いかえれば、キリストを信じる信仰者の共同体こそ、主の宮とされました。暮らし向きも違い、生きてきた時間も違う者たちも、ただこの真ん中に主がおられるゆえに、一つの聖霊の一つの宮です。建物や場所ではなく、私たちキリスト者を、神ご自身が生ける石として、宮としてくださいました。私たちが犠牲を献げることによってではなく、イエスご自身が唯一のいけにえとなって、礼拝を全うしてくださいました。その事を覚えるために、私たちは礼拝を第一とするのです。主がここにいますことを覚える事で、私たちは生活を偶像とせず、ともに歩むことが出来るのです。
[11] 鳴門キリスト教会も、皆さん一人一人も、この一年、大きな変化を予想しています。そうでなくても、時間の中で多くの事は変化し、予想もつかない出来事が起きるものです。その時の流れの中で、私たちは自分で時を見てしまい、神の時をも決めたくなります。でもそれは逆です。神こそが、時を支配しておられます。変わる時をも益に変えて、祝福を用意されています。その神を信頼するために、私たちにとって礼拝を第一とするのです。そうして、ともに生きることが出来るのです。主をともに礼拝する事が、新しい2022年の歩みを方向付け、支える祝福なのです。神殿再建を促すハガイの言葉は、私たちにも何度も何度も再出発を促してくれます。