聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

詩篇23篇「恵みが追ってくる」

2015-07-20 08:11:04 | 説教

2015/07/12 詩篇23篇「恵みが追ってくる」

 羊は聖書で最もよく登場する動物です[1]。しかし、現代の日本人にはあまり馴染みがありません。ここの「緑の牧場」「憩いの水の畔(ほとり)」などのイメージを膨らませて、アルプスのハイジのような、長閑(のどか)で牧歌的な光景を勝手に想像しています。私、初めて羊を見たときはショックでした。羊は可愛くて、羊飼いが緑の牧場に侍(はべ)らせている、ではなかったのです。主は羊飼いとして私たちを導かれ、旅をさせるのであって、羊の所に美味しい牧草を持ってきてくれるのではありませんね。それでは「主は私の羊飼い」ではなく「召使い」です。江戸っ子でもないのに「羊」を「執事」にして、「主は私の「執事」かい?!」とツッコまれるような勘違いです。

 この詩篇を読んだダビデは、若き日、自分自身羊飼いをしていました。そこで体験していた通り、羊を飼うことは苦労が多い仕事でした。荒野では、いつも牧草を捜して移動します。狼や熊が襲って来たら守らなければなりません。羊は、弱く、迷いやすい動物でした。群れたがり、一頭が間違えばみんなゾロゾロついていくのだそうです。食べ物には貪欲で餌に釣られると簡単について行く、というのも私たちと同じです[2]。頭は余り良くなくて近眼だ、という人もいますが、意外と知能は豚よりも高く牛並みで、聴力も視力もいいらしいです。いずれにしても、羊は羊飼いが居なければ死んでしまう、弱い動物です。そして、羊飼いは、苦労の多い羊の世話を精一杯して、羊を丁寧に養い、導き、鞭で守り、杖で促しながら旅をさせるのです。

 1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

は、羊のような自分の頼りなさ、貧しさと、その私を養ってくださる主への全面的な信頼と感謝を歌う言葉です。マックス・ルケードは、この詩篇二三篇を取り上げ、『心の重荷に別れを告げて』という本を書きました。この詩篇を一行一行紐解(ひもと)きながら、「疲れ、不満、心配、恐れ、悲嘆、絶望、罪責感、傲慢、寂しさ、恥、失望、妬み、疑い」といった「重荷」を丁寧に浮き上がらせます。私は乏しい、足りない、あれもないこれもない、と文句ばかり言いがちだったり、疲れて憩えない、心配事を抱えたり、後悔にいつも引っ張られてしまったり。あるいは、自分の死や、身近な人の死という「死の陰の谷」も通ります。人生には必ず起こる事です。禍や敵も襲って来ることがあるでしょう。恐れもあります。憎しみや、人を赦せない思いもあります。荒野のような人生には、沢山のストレスがあります。実際、詩篇を七つの範疇に分けると、最も多いのは「哀歌」で、六十以上あります[3]。その中に、この詩篇はあるのです。

 私たちは生きてゆくために、もっと賢く、強い羊になればいいのでしょうか。死の陰には近づかず、敵を作らないような処世術を身に着け、怒りや妬みや憎しみに流されない清い心を持てるよう修行をしたらいいのでしょうか。いいえ、この詩篇が言うのは、主が私たちの牧者でいてくださり、私たちを正しく導き、必要を満たしてくださる。ただそこにのみ、私たちの慰めと希望があるのだ、という信仰なのです。それは、イスラエルの王として、戦争や失敗、駆け引きや家庭の問題を抱えて生きてきたダビデの、経験に根差した深い確信です[4]

 6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

 アブラハム・ヘシェルという方が、ここを「幸せが猟犬のように追って来る」と表現しています。幸せの方が私たちを追って来るのです。私たちは自分が幸せを追い求めていると考えます。自分の力で幸せになろうとします。そして、どうするのでしょうか。羊飼いである主のもとから飛び出して、違う所に幸せを求めようとするのです。ダビデ自身がそうでした。彼は、生涯に少なくとも九人の妻とそれ以上の側女(そばめ)を娶(めと)りました[5]。次々に妻を娶って、慰めを得ようとしました[6]。それでいて、彼は子どもたちを叱ったり躾けたりすることから逃げていました。ダビデの優しさの裏側には、「愛されたい」「嫌われたくない」という強い渇きがあったのだと思わずにはいられません。そして、有名なバテ・シェバの事件があります。部下ウリヤの妻バテ・シェバを見初めて子どもを孕(はら)ませてしまい、隠蔽工作にウリヤを、戦死を装って殺させ、他の部下たちも巻き添えにしてしまうのです。そのダビデの過ちは、ダビデの家庭もイスラエルの国家も深く傷つける羽目になりましたね。しかし、主はその深い渇きと闇を持つダビデにも、常にともにいてくださいました。ともにいるだけでなく、鞭や杖を振るわれて、間違いから強いてでも引き戻してくださいました。間違って夢見て追いかけた幸せではなく、本当の幸いである「いつくしみと恵みとが私を追って来る」という体験をしたのです。

 ダビデが王になったのが間違いだったわけではありません。私たちも、煩わしい荒野ではなく牧場に住んで幸せに暮らすことを願うとしたら、それは勘違いです。社会で生きるからには重荷や煩わしさは避けられません。疲れ、誘惑があるのです。だからこそ、主が私たちを羊飼いのように導き、いや、羊飼いの喩えでは収まらず、客をもてなす主人のように食事を整え、油を注ぎ、杯の飲み物も溢れさせて[7]、更には「いつまでも主の家に住まう」家族とさえしてくださる恵みに、繰り返して与ることが必要なのです[8]

 主なる神の前には「羊並み」の頭しかない私たちには分からないことだらけです。でも、ハッキリしていることは主に従って行く生活を通して、主は私たちに深い憩いを与え、私たちを生き返らせてくださるのです。そして、私たちには「死の陰の谷」としか思えない現実を通る時も、それも「義の道」であり、いのちへと続いているかけがえのない道であって、恐れることはないと信じるのです。なぜなら、主がともにいてくださるからです[9]

 この主が「インマヌエル(ともにいてくださる神)」としてこの世に来られました[10]。イエス・キリストは

「疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとにきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。わたしのくびきを追って、わたしから学びなさい。」

「わたしに従って来なさい」

と言われます[11]

「わたしはよい羊飼いです。よい羊飼いは羊のためにいのちを捨てます」

と仰ったのです[12]。良い羊飼いであるイエスに私たちが従うことは、この世界の真っ只中で、私たちを力づけ、生き返らせ、重荷を下ろした歩みをくれます。慈しみと恵みとが、私たちを追いかけるのです。

 主に従うことは、ただついていけば楽になれる、という約束ではありません。主は御言葉に表された神の御心に従って、正しく、愛をもって生きられました。その主に従うなら、私たちもまた御言葉に従い、自分を捨て、低くなること、愛する者へと変えられて行くのです[13]。そして、愛に対しても私たちは思い込みや誤解が多いですから、具体的にはどのように生きることなのかを教えられることも必要です。でもそれは、難しい要求や、新しい負担ではありません。主に従い、御言葉に学んで、生き方を変えられながら、自分という重荷を下ろすのです。主が私の羊飼いであり、私たちに具体的な助けも日々のいのちを下さる恵みを、深く味わわせていただくのです。私たちもまたダビデのように、感謝と信頼の歌を歌うのです。

 

「主よ。自分があなたに養われる存在であることを忘れて、迷いだし、死にかけてしまう私たちを、今日この詩篇によって引き戻し、導いてくださって感謝します。あなたが私たちを生き生きと生かそう、荒野や死の陰でも、ともにいて、私たちを慈しみと恵みで捉えてくださいます。今ここに、悲しみや死や、恐れや疑い、孤独や無意味さなどに捕らわれている方がいたら、どうぞ羊飼いなるあなたが、その歩みに格別に関わって、新しい希望と信頼を与えてください」



[1] 直接の羊や、比喩的な用い方もあわせると、五百回以上登場するそうです。

[2] 「…聖書でこの類推[羊飼いと羊に準えること]が頻繁に用いられたのは、私たちをおだてるためではありません! むしろ、その類推は私たちがあの偉大な羊飼いの優しい、愛のこもった世話をどれほど必要としているかを絶えず思い起こさせるために役立っています。」フィー、333ページ。

[3] 「…そのことはおそらくそれ自体で、私たちに共通する人間性について何かを語っています。」ゴードン・フィー、『聖書を』343ページ。個人的な哀歌(三、二二、三一、四二、五七、七一、八八、一二〇、一三九、一四二篇)と、集団的哀歌(例えば、一二、四四、八〇、九四、一三七篇)として紹介されています。

[4]  この詩篇二三篇は、「私たち」ではなく、「私」と一人称単数が最後まで貫かれます。願いも嘆きもなく、感謝と信頼の告白のみなのです。

[5] Ⅱサムエル3章2~5節には六名の妻の名が、子どもとともに挙げられており、5章13節には「ダビデはヘブロンから来て後、エルサレムで、さらにそばめたちと妻たち[複数]とをめとった。…」と書かれています。また、最初の妻であり、後に取り戻した、サウルの娘ミカルもいました(同3章13~16節)。あわせて、少なくとも九名です。

[6] 申命記十七章17節では、王が「多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多く増やしてはならない」と明言されていました。

[7] 「私の杯は、あふれています」は、頭に注がれた油が杯にまでこぼれ溢れる、ということではありません。

[8] 羊飼い、と始まりましたが、5節では「食事に招かれた客と主人」になり、6節最後では「いつまでも主の家に住まいましょう」というのですから、客でさえなく、家人、家族となっています。羊飼いの喩えは、ユニークで含蓄に満ちていましたが、歌い続けているうちに、それでさえ足りなくなってしまう、というダビデの告白だったのです。

[9] 4節「あなた」は、ヘブル語で「アッター」という強調された代名詞が使われています。詩篇二三篇の単語は、ここまでが27字、この後が27字(表題の「ダビデの讃歌」を除く)。偶然かも知れませんが、ど真ん中、なのです。「あなたが私とともにおられますから」こそ、詩篇二三篇の中心的告白です。

[10] マタイ一23。

[11] マタイ十一28。

[12] ヨハネ十11。

[13] 主が導かれるのは、低くなり、自分を捨てていく道。弱さや死、破れや貧しさを受け入れ、主の養いに生かされていく道です。具体的には、共同体的に生きること、親離れや、責任ある行動、などが含まれます。そして、そうした生き方にこそ、いのちも憩いも回復もある。

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