2014/07/13 ルカ17章20~21節「あなたがたのただ中にある」(#227)
ルカの福音書を見ていきますと、「神の国」というのはイエス様がずっと語ってこられたメッセージであったのだなぁ、とよく分かります 。当時、イスラエルの民の中にそうした期待があったということもありますが、イエス様のメッセージそのものが「神の国の福音」だとも言えるのです。パリサイ人たちが、
20…「神の国はいつ来るのか」
と尋ねたのはそういう流れがあってのことでした。「イエス様よ、神の国というが、それはいつ来るのか、早く見せてくれ」。そんな挑発もあって聞いたのでしょう。これに、
「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
21『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』」
とイエス様が仰いました。
この言葉は、「私たちの中=心の中に」という読み方がされることが多いのではないでしょうか。見えるものではなく、もっと精神的なもの、考え方とか、観念的なもの、という理解です。でも、「神の国」とは「神の王国Kingdom」という事です。神様が王として私たちを治められる、というのが、精神的なものだけだ、と考えるのは小さすぎます。勿論、心にまで神の御国は及ぶのですけれども、この時、「あなたがた」と言われているのは、パリサイ人たちのことですよね。パリサイ人たちの心の中に、神の国はあったんでしょうか。イエス様に逆らい、教えを笑っていた彼らの心に、神の国がある、などとはとても言えません。「神の国をあなたがたの心に迎えなさい」と言われているのでもなくて、
神の国は、あなたがたのただ中にある
もうそこにある、と言い切っておられるのです。イエス様は「神の国の福音」をお語りになりました。言い換えれば、イエス様がおいでになった時、神の国の福音も始まりました。なぜなら、イエス様こそは王なる神であり、私たちを神の国の民としてくださり、サタンやこの世の支配者を退位させて、神の御国を打ち立てて下さるお方だからです。そのイエス様がおいでになった時、神の国は始まっていました。ですから、
神の国は、あなたがたのただ中にある
と仰ったのは、王であるイエス様がおられて、そこに神の国を始めておられたこと、そのものなのです 。パリサイ人はイエス様が自分たちの中に来て下さって、目の前におられるのに、イエス様を信じようとしませんでした。その説教を嫌いました。それは、イエス様がお語りになる神の国が、罪人や弱い者を招き受け入れる、恵みの御国だったからです。パリサイ人たちは、真面目に生きようとしました。けれどもそこにも、自己中心的な罪の性質が入り込んで、自分のしたことや権力やお金を誇り、人よりも立派な生き方をすることを目指していました。彼らからすると不完全な生き方しか出来ない人を蔑み、裁きながら、そういう人たちがいることで安心していたのです。けれども、イエス様はそういう人たちを愛されて、新しい歩みを説き聞かせながら、神の国に招き入れてくださったのです。
パリサイ人たちは、そのイエス様のメッセージに耳を塞ぎ、イエス様が指摘される傲慢の罪、赦さない罪、自己中心の罪を認めようとしませんでした。そして、神の国の王であるイエス様に食ってかかって、やがては、イエス様を十字架に殺す側になってしまうのです。そういう彼らが今ここで、神の国はいつ来るのか、とイエス様に尋ねています。イエス様が丁寧に説き明かして、彼らに迫ってこられた、神の国の原理から目も心も背けたまま、神の国はいつ来るのか、とだけ答を求めています。すり替えています 。ですから、イエス様は仰るのです。神の国は、そのような目でいては決して分からない。そんな、見てやろうとか、ここにある、あそこにある、などと言えるものではない 。あなたがたのただ中にもうある 。わたしが来て、もう神の国はここに始まっている。神の国が、罪人を迎え入れ、互いに赦し合い、愛し合い、尊び合う、まさに神の恵みによってともに生きていく国であることを明らかにしている。だから、あなたがたは、この神の国を今受け入れ、わたしのことばに従いなさい、と言われているのです 。
あの「放蕩息子」の兄は、父親の仕事を懸命に手伝っていました 。その自分の苦労が父親に通じていない、いつか報われて楽になる日を夢見て待ち焦がれていたようです。でも、放蕩した弟が帰ってきた時、盛大な祝いをして喜ぶ父の姿にこそ、その家を支えていた家族の姿が現されました。兄はその喜びに招かれて、間違ったプライドを捨てるように迫られました。自分が父の愛の家にいることに気付くチャンスでした。でも、彼はその喜びの家に入ることを嫌悪して、外に立っていましたね。「こんな馬鹿な話があるものか。いつになったら俺の努力が報われる時代が来るのか」と言いたかったかもしれません。しかし、そんな風な思いでいるかぎり、本当の家族の幸せは彼には分かりませんし、彼が期待するような楽園が来ることもありません。なぜなら、彼が抵抗した喜びこそは、本当の幸せだったからです。神の国はもうイエス様によって、自分たちのただ中に来たのに、彼がそれを拒んで、勝手に想像した「神の国」を考えているだけなのです 。
神の国は、私たちのただ中にあります。イエス様が、私たちの中に来て下さったからです。今もともにおられる主は、私たちの中に、御国を始めておられます。それは、私たちにとって、居心地がいいとか、楽園のような環境を備えるとか、そういう意味ではないようです。むしろ、イエス様が語ってこられたのは、躓きが避けられないのが人生であり教会であることでした 。私たちが互いに戒め合うことを必要とし、悔い改めたなら何度でも赦す、というあり方でした。受け入れがたい現実を受け入れ、お金の誘惑に負けず、自分を正当化しない、という課題です。でも私たちは、主から恵みを受けても感謝するために主のもとに帰って来るのが難しい者です。しかし、だからダメだというのではありません。そこにイエス様が来て下さったこと、主イエスが王なるお方として私たちとともにいてくださる。十字架の愛によって治めてくださることに、私たちの望みがあります。
私たちの傲慢や身勝手さ、愛のなさ、赦せない心、そうした思いは、どんなにイエス様の手を焼かせるでしょうか。けれども主は、私たちを治めてくださる王、力あるお方です。その十字架の恵みを、私たちを新しくします。赦されていることに気付かされて、傲慢を砕かれ、赦す者としてくださる主の御支配に期待しましょう。私たちのただ中から御国を始めて下さる主が、必ずや私たちを教え、導いてくださいます。いつか、ではない、今日ここに主がおられるのですから、私たちの頑なな心をもお委ねすることが出来るのです。
「神の国がここにあります。この小さく、不完全な私たちのただ中から御国が始まっています。主の聖なる愛が治める御国のため、まず私たちの心を治めようとの御心を感謝します。どうか私たちをその御国に相応しく、受け入れ、愛し、正直にあれるよう、一切の偽りや身勝手から救い出してください。自分を棚上げする誘惑から救いだしてください」
文末脚注
1 「御国」 「サタンの国」や「この世の国々」を除いて、38回:1:33、4:43、6:20(「平地の説教」序言)、7:28、8:1、10、9:2、11、27、60、62、10:9、11、11:2、20、12:31(「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい」)、32(「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになります」)、13:18、20、28、29、14:15、16:16、17:20、21、18:16、17、24、25、29、19:11、(12、15。この2回は例え話で「主人の王国」を指しているが、38回には含めていない)、21:31、22:16、18、29、30、23:42、51。同じ著者ルカによる「使徒の働き」では8回。
2 「ただ中に」は、心の内ではなく、現にの意。「神の国は近い」(一〇・八-一一)も、間近な未来でなく、すでに現存している神の国(一一・二〇)の場所的近さのこと(マルコ一二・三四)。/パリサイ人の「いつ来るのか」の問いの真意は、カレンダーの問いでなく、神の国はきていないではないか、イエスのメシヤ名乗りは偽りではないか、という反論にあることを、読者は看破しなければならない。二五節の反論は、この問いに見事に答えている(一一・二九参照)。(榊原『聖書講解 ルカの福音書』322-323頁)。
3 次の言葉も傾聴に値します。「御国を来たらせたまえ……この地にも」、とわれわれは口にする。しかし、もしも、突然、本当にそのことが起こったらどのようなことになるのであろうか。何が残り、何が崩れ去ることになるのであろうか。誰が迎え入れられ、誰が地獄に投げ込まれることになるのであろうか。たとえ、神とはどなたであり、人間とは何者なのかということについて、最上かつ最良の見識をわれわれが持っていたとしても、何が多少なりとも的を射ているとされ、何がありもしない偽物であるとされるのであろうか。これは、まことに大胆なことである。主の祈りの言葉を口にするとは、虎を檻から呼び出すことであり、原子力さえも春のそよ風に変えてしまうことなのである。」Friederick Buechner, Listening to Your Lifeより(ハワーワス『主の祈り』10頁の引用より)
4 「目で見えるように」 パラテーレーシス。ここのみの副詞。動詞パラテーレオーはルカ6:7「律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。」、14:1「ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。」、20:20「さて、機会をねらっていた彼ら[律法学者、祭司長たち]は、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った。」 いずれも、パリサイ人や律法学者、イエスの敵たちが、批判や先入観をもって伺っているという見方。そのような目でいくら見ていても、神の国は見えない。
5 「ただ中」という言葉エントスは、新約聖書でももう1回しか使われていない言葉です。中エンの強調でしょう。マタイ23:26「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」
6 23:42、強盗の一人とのやり取りも、まさに神の国が「どこか」の話ではなく「あなたはきょう、わたしとともに」の話だと例証。
7 ルカ十五章参照。
8 19:11でも「神の国がすぐにでも現れるように思っていた」と誤解が窘められます。神の国を、キリストの支配ととらず、いつか訪れる楽園とする「終末思想」はルカが意識しているもののひとつです。
9 ルカ十七1。
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