2017/12/3 ルカの福音書1章26-38節「幸いなマリア」
1.この世界の片隅に
アドベントに入り、キリストのお生まれからお話しします。今週はイエスの母となるマリアに御使いガブリエルが現れ、キリストを宿すことを告げた「受胎告知」の箇所です。何十回と聞いて来た箇所だからこそ、このマリアの選びは驚くべき展開だった事実を思い出しましょう。
「さて、その六か月目に」
とある25節までの話には、エルサレムの神殿で御使いガブリエルが現れた出来事が書かれています。彼は民の代表として務めていた祭司ザカリヤに現れたのですが、ザカリヤはせっかくの約束を疑ってしまいます。そのため、彼は口がきけなくなって、神殿から出て来て身振り手振りで合図するしか出来なかった。御使いの約束通り、ザカリヤの妻エリサベツは身ごもりますが、それを信じられなかったザカリヤが口をきけない事実が影を落としていました。
それから「六か月」。エリサベツの体調が安定して、あの不思議な御使いの出来事も忘れられようとしていた頃、あの御使いがもう一度現れたのです。それは、エルサレムではなく、ダビデ王の生まれたベツレヘムでもなく、北の辺境の片田舎、ナザレにでした。またその町の優れた教師や熱心な人にではありませんでした。一人の結婚前の少女の所にでした。当時の考えでは、女性は教育の対象とは見なされず、子どもは人間として扱われませんでした。しかし神は、誰も気づかない時この世界の片隅、ナザレの町にいた少女マリアに現れたのです。
マリアは御使いの挨拶を聞いても、落ち着いたり恭しく受け取ったりせず、
29この言葉にひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
まったく予期しない御使いの登場とその挨拶に彼女は戦きます。御使いはマリアに
「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。31見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。32その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
マリアは既にヨセフの許嫁でしたから、こうも思えたでしょう。「そうか、私がこれからヨセフと結婚して生まれる子はやがて王になるのね。楽しみだわ」。でも彼女はそうでなく、
「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
と答えるのです。御使いの登場は人生の計画やマリアの世界を引っ繰り返しました。結果的にはマリアはヨセフと一緒になりますが、マタイが伝える通り婚約は一旦解消しかけたぐらいの出来事でした。それ自体、生まれて来る王の支配の不思議さ、常識外れを物語ることでした。
2.神の支配の真逆さ
交読文ではこの時マリアが歌った46節以下の「マリアの賛歌」を読みました。マリアは、
ルカ一46私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が私に大きなことをしてくださったから…
と言います。マリアは自分を
「卑しいはしため」
と呼びます。ご謙遜や社交辞令ではなく、マリアは本当に自分の事をそう思っていたのでしょう。私たちは「イエスの母になるほどのマリアはきっと素晴らしい女性だったに違いない。他の人とは土台が違う信仰深い少女だったはずだ」と思いたがります。「ナザレの村に埋もれていた素晴らしい少女を主はちゃんとご存じで、敬虔なマリアを用いてくださった」とか何とか。マリアが歌っているのはその反対です。主が私にも目を留めて下さった。だから後々の人も
「私を幸いな者と呼ぶでしょう」
と歌います。でもそれは、自分がそれに相応しいからではなく、主が目を留めてくださったからです。
50節、54節に
「主のあわれみ」
という言葉が出て来ます。新改訳2017では欄外で「真実の愛」と説明されています。この「真実の愛」は新改訳2017の目立つ工夫の一つでヘブル語の「ヘセド」―「真実・愛・恵み」と訳されてきた、神の特別な深く真実な愛です。その神の慈悲を戴いて、私も幸いな者となった。そして自分だけではない、主を恐れる全ての人に主が幸いを与えてくださる。マリアへの受胎告知は、マリアが特別なのではなく、神が「真実な愛」で卑しいものを引き上げて幸いにしてくださる証しです。マリアだけでなく、私たちも神が「幸いな者」とされる、主のあわれみに生かされているのです。その「真実の愛(あわれみ)」こそ神の御支配であって、それは人間の力の支配や心の思いよりも遙かに強い御支配です。
51節以下、主が高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられたとあります。裏を返せば、世界はまさにその逆です。声の大きい者が勝ち、力や知恵ある者が権力の座に着くのです。小さな者、貧しい者、賢くない人は馬鹿を見て、それは要領が悪いから、自己責任だから、本人の問題だ、と言われます。そういう世界の中で、御使いは誰も思わない世界の片隅に現れました。そこで生きるまだ少女のマリアに現れたのです。
3.神の国は子どもたちの国
マリアは戦いて疑問も口にしましたが、38節で
「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」
と受け入れます。何故でしょう。最大の要因はマリアがまだ少女だったからでしょう。老齢になっていたザカリヤは経験や常識が邪魔をして信じることが出来ませんでした。マリアはザカリヤほど人生経験がなかった少女だったから、
「子どものように信じる」
ことが出来た面を見落としてはなりません[1]。
10月より礼拝の「招詞」に、イエスが弟子たちを招かれた時、子どもを真ん中に立たせて、子どもを受け入れる者こそ神を受け入れる、と言われた言葉を入れました[2]。神の招きを受け入れる、礼拝に相応しい態度、ということを考える際、陥りやすいのは子どもには「邪魔をしてはいけない」と窘めるような考えです。子どもにとっての教育は必要ですが、しかし、大人のためや神が喜ばれる礼拝を考えてなら、イエスは全く逆を仰いました。子どもを受け入れないなら主をも神をも受け入れてはいない、と言われるのです。
勿論、よい意味で成長し、成熟して、洞察を持つことは必要です。幼稚で単純で考えずに信じるのが良いのではありません。騙されないよう注意深くする必要はあります。しかしクリスマスにハッキリ示されているのは、神が憐れみ深く、この世の闇に来られること、人間の思い上がった力を覆されることです。私たちのために主が人となって来られ、すべてを新しくなさったこと、そしてやがて完全にその真実な恵みが地を覆う時が来ること[3]。まだ見えないその約束を、子どものように受け入れて、歩み続ける幼子の信仰を、マリアという少女の姿が私たちに語りかけています。クリスマスを祝い、主の御降誕を信じつつ、憐れみなんて綺麗事に過ぎない、とどこかでシッカリ思っているのではなく、憐れみの主が今この世界を治めておられる、と信じるよう迫られるのです。
マリアがもし御使いの言葉を信じなかったらどうなったでしょう。それは前のザカリヤの話や45節に示される通りです。マリアが信じなかったとしても、主によって語られた通りイエスは宿ったのです。それほどの主の憐れみだからこそ、マリアは受け入れたのです。私たちが信じられず抵抗しても、主は低い者を引き上げられます。高ぶる者を追い散らし、やがて世界を主の恵みによって治められます。そのために、イエスは卑しい生涯を歩まれ、十字架に架かられました。主の憐れみなど見えない道を通られました。でもその最後は、復活でした。主の恵みこそ、死よりも強い力があったのです。そのイエスのお生まれです。主の約束など信じられない、悪い方に悪い方に考え、諦め、期待もしない。そういう心を砕かれて、救い主がお生まれになったという疑いない事実に、幼子のように立ち戻るためのクリスマスです。
「失われた者を捜して救うために来られた王よ。マリアに宿られたあなたが、私たちにも来て下さり、卑しいものを引き上げて、幸いを与えてくださいます。恵みを諦めている心を新しくしてください。冷たく刺々しい心を捨てさせてください。憐れみに満ちたあなたこそ王であることを、綺麗事や夢物語ではなく、私たちの力強い希望として一歩一歩を進ませてください」
[1] 更に言えば、「マリアが信じたから、イエスの母になった」という考え方も誤解でしょう。先のザカリヤの例が示すとおり、信じない場合のデメリットは伴うにせよ、神が言われたことは必ず成就するのであって、マリアが信じる事が条件ではないのです。その力強いあわれみの支配を前にしたからこそ、マリアは信じて受け入れることに踏み出すことが出来ました。信仰は「条件」ではありません。神の恵みは無条件です。その無条件の恵みが私たちの心に、恵みへの応答としての信仰をもたらすのです。
[2] マタイ九36-37。
[3] クリスマスはイエスが私たちの所にお生まれになった、というメッセージだと言われます。その「私たち」は「自分たち」だけでなく、私たちが見下したり煩わしく思ったり眼中にさえ置いていない人も含めての「私たち」です。いいえ、私たちが人を軽んじたり、人間的な常識で諦めたり、聖書の言葉よりも人間の支配や力の方が所詮は強いのだ、と諦めたりしている、その私たちの不信仰を暴露して、引っ繰り返してしまうのがクリスマスです。そして、そのような私たちの中にキリストはおいでになった。このイエスが永久に世界を治め、その支配に終わりはないのです。そのお方が、奇蹟や眩い出来事ではなく、世界の片隅に現れること、しかもご自身が、小さな子どもとなって、その前に胎児となってマリアに宿られた。そうして、世界の王が「捨て身」で恵みを示されたのがキリストの誕生でした。
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