2017/11/26 ハ信仰問答99-100「ていねいに語る」エレミヤ書4章1-2節
十誡の第三の戒めは
「主の御名をみだりに唱えてはならない」
です。神の御名をぞんざいに、ふさわしからぬ唱え方をしてはならない、というのです。私たちも自分の名前が丁寧に呼ばれるなら嬉しいですし、名前でからかわれたりしたらとても悲しいです。人の名前で遊んだり貶めたりすることは、決してしてはいけません。まして、神の御名を軽々しく口にすることは厳重に禁じられるのです。ハイデルベルグ信仰問答です。
問99 第三戒は何を求めていますか。
答 わたしたちが、呪いまたは偽りの誓いによってのみならず、不必要な誓約によっても神の御名を冒涜または乱用することなく、黙認や傍観によってもそのような恐るべき罪に関与しない、ということ、要するに、わたしたちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いることをしない、ということです。それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、わたしたちのすべての言葉と業とによって賛えられるためです。
問100 それでは、呪いや誓約によって神の御名を冒涜することは、それをできるだけ阻止したり禁じたりしようとしない人々にも神がお怒りになるほど、重い罪なのですか。
答 確かにそのとおりです。なぜなら、神の御名の冒涜ほどこの方が激しくお怒りになる罪はないからです。それゆえ、この方はそれを死をもって罰するようにもお命じになりました。
神の御名を唱える代表的な場合が
「呪いや誓約」
です。つまり
「御名をみだりに唱える」
のよくあるケースが、「神に賭けて誓う」とか「神があなたを罰するだろう」などということ。自分の行為や考えの正しさを裏付けるために、神を持ってくることですね。神の御名を乱用して、自分の正しさを確信する。あるいは、自分の嘘を誤魔化そうとする。あるいは、神の御名を使われたら相手は怯みますから、そうやって自分の思い通りにしよう、相手を言いくるめて、コントロールしよう、ということもあるでしょう。■
他にも、御名をみだりに使う場合として想定されるのは、軽々しく、馬鹿にするために神を語ることです。英語で「ジーザス」と言っているのが、「イエス様のことかな」と思ったら「しまった」とか「畜生」という使い方がよくされるのです。神さま、というのも、「あらら」とか「ひどい」という時だったりします。こういう言い方(スラング)は当然冒涜です。嫌なことがあった時、自分の名前を叫ばれて笑われるなんて、こんな失礼はありません。神を礼拝する者として、いつも神の御名は大事にしたいのです。
しかし、そういう極端な分かりやすい場合だけではありません。キリスト者でない人、いわば第一戒からして知らない人が第三戒を守らないのは不思議でもないのです。第一戒と第二戒、神だけを礼拝し、正しい方法で神を礼拝している上で、その神の御名を本当に神に相応しく口にせずに、軽々しく口にしてしまうことがここで言われています。「本当の神だけを礼拝している、自分は聖書の方法で神を礼拝している」と自負する時こそ、その神を礼拝する口と、心における態度がちぐはぐになってしまいやすい自分を省みる必要があるのです。神を礼拝しながら、不平や不満で一杯になっている。神などいないかのように、また、神を小さくつまらなく考えてしまう。そういう心のまま、ただ口先で神を礼拝したり、美しい讃美歌を献げたり、立派そうな祈りを蕩々と唱えたりしても、それは神は喜ばれないのです。また、神が憐れみ深い方だと言いながら、自分の狭く堅苦しい偏った思いで人を裁いて、「そんなことは神様は喜ばれませんよ」などと言うなら、それは間違った熱心でしょう。なぜなら、人はそのような言い方を聞くうちに、神ご自身を誤解し、憎んだり、蔑んだりするのも当然だからです。
神の御名は、神のすべてが込められた名前です。神のご人格、御性質、神の御業、イエス・キリストの受肉と十字架の死と復活。そのような神のすばらしい御業が詰まっている名前です。神の御名を口にするとき、私たちは、その神の素晴らしさ、偉大さ、正しさ、真実の前に、良い意味で襟を正させられるはずです。それは私たちの普段の言葉も、丁寧に語るように変えずには起きません。軽々しく神を考える反対に、神を味わうことによって、私たちの普段の言葉が、ゆっくり真実を語るように変わるのです。
エレミヤ書四1「イスラエルよ、もし帰るのなら、-主のことば-わたしのもとに帰れ。もし、あなたが忌まわしいものをわたしの前から取り除き、迷い出ないなら、2また、あなたが真実と公正と義によって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、互いに主を誇りとする。
主を知ることは、忌まわしいものを取り除き、真実と公正と義によって誓うこと、互いに祝福し合い、主を誇って生きる、晴れやかな生き方なのです。主は、決してご自身の名前そのものが大事だから、私たちに御名をみだりに唱えるな、と厳しく仰るのではありません。そうでなければ、御名をみだりに唱える人をたちまち滅ぼされたでしょう。しかしイエスはこう仰ったのです。
「マタイ十二31ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。32また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」
第三戒を字義通りに延長すればこんな言葉は出て来ません。イエスに逆らう言葉、イエスを冒涜する言葉は極刑だと言われたでしょう。しかし、イエスは天の神への冒涜も、ご自身への冒涜も赦されると言われました。ただ、聖霊が私たちの心に働きかけて、神への信仰を持たせて下さる時、神の御名を知って、神の恵みや正しさを知らされて、自分の生き方も深く新たにされようとするときに、なお拒んで、神の御名に背く生き方をするならば、それは赦されることそのものを拒むことだと警告されました。それは私たちのための注意であって、決してご自身の怒りや脅しではないのです。
そして事実イエスは、人から罵られ、その名を嘲られながら、黙って十字架に架かりました。イエスはそのような逞しく恵み深いお方でした。この方がおられることを思い起こさせるのが主の御名です。その御名を、噛みしめて唱えましょう。イエスは「主の祈り」で最初に「御名が聖とされますように」祈るよう教えられました。みだりに唱えぬよう、おっかなびっくり、いっそ黙る、ではありません。何よりも素晴らしい名にふさわしく、主がどんなお方で何をしてくださったかを噛みしめ味わい、御名を心から賛美する。です。
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