聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書二一章10~19節「機会となります」

2015-03-08 16:58:01 | ルカ

2015/03/08 ルカの福音書二一章10~19節「機会となります」

 

 イエス様が福音書の中で一番多く命じられている言葉は、「愛しなさい」ではなく、「恐れるな」だそうです。全部で一二五回書かれている命令文のうち、二一回が「恐れるな」で、次に多いのが「愛しなさい」なのですが、それは八回だけだという事です。「恐れるな」と繰り返されたイエス様は、私たちの心が神様以外のものを恐れることから解放してくださるお方です。しかし、その途上にある私たちは、まだまだ、恐れる必要のないものを恐れてしまいます。そして、今日の箇所も「恐れるな」と仰るイエス様のお言葉ですのに、その言葉を聞いてさえ、また心配事を抱え込むような聞き方をしてしまうことが多いのではないでしょうか。

 直接には5節から続いているこの段落は、世の終わりについての質問から始まりました。イエス様は、世の終わりが近いと不安を煽る人にはついていくな、戦争や暴動も必ず起こることであって終末のしるしではない、と言い切られたのです。そして、今日の箇所でイエス様は、民族同士、国家同士の戦いや、大地震や疫病や飢饉や、恐ろしい事や天からのすさまじい前兆を語られますが、それに続いて、12節で言われます。「しかし」。

12…これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

と仰ったのですね。戦争や大災害が起きる。しかしその前に、あなたがたは、イエス様を信じる信仰のために、迫害されたり逮捕されたりするのですよ。世界がひっくり返るような出来事が起きるかどうか以前に、イエス様を信じる信仰に対する挑戦があることに、思いを向けさせようとする。それが、イエス様の仰っているメッセージなのですね。しかも、それもまた、大変だぞ、苦しめられるぞ、と脅して覚悟していなさい、と言っておられるのではないのですね。

13それはあなたがたのあかしをする機会となります。

 迫害や逮捕や裁判も、恐れる必要はない、それがイエス様を信じる信仰を、堂々と証しするチャンスになるのだと、底抜けにポジティブにお語りになるのです。迫害がない、困難は来ないから安心していなさい、とは言われません。むしろ、信仰ゆえの戦いはあるのです。でも、それも悲観したり避けようと願ったりすることではない。それが、信仰を証しする絶好の機会になると思えば良いのだ、と楽観的なのです。「でも、私はそんな証しをすることは出来ません。何を言えばいいか分からないし、怖くて何も言えなくなるでしょう」と思うでしょうか。

14それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。

15どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

 だから、自分は何を言えばいいか分からない、何も言えないに違いない、と考える必要はないとイエス様は約束してくださっているのです[1]。勿論、その時、私が何も考えなくても、イエス様が自動的に、絶妙な弁明を語らせてくださる、という事とは限りません。また、その時に素晴らしい演説をさせてくださって、捕まえた人たちを感心させて、その人たちもイエス様を信じるようになるとか迫害を止めてくれる、という事でもありません[2]。次の16節で、

16しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、

17わたしの名のために、みなの者に憎まれます。

とあるのですからね[3]。イエス様の下さる証しの言葉で切り抜けるとは保証されません。

18しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。

 髪の毛一筋、というのは「ほんの僅かなものも」を指す言い方です。そうでないと、中には殺される者もあると言われていたのに、髪の毛だけは失われないのか。また、命は失っていなくても、髪の毛を失っている人はどうなのか、という疑問が出て来ますから、そういう事ではないのです。迫害されて、逮捕されて、家族からもみんなからも憎まれて、殺されたり、そうでなくても沢山のものを失ったりする事がある。それでも、やがて私たちの人生を振り返る時、「髪の毛一筋さえ失わなかった」と言えるような、失ったと言わなければならないものなど何もなかったと、心から言わせて戴けるような、そういう歩みをイエス様は約束してくださっているのです。このイエス様の言葉が向けられた人々も私たちも、失うこと、将来に対する心配に、必要以上に恐れを抱いてしまいます。でもイエス様は、エルサレム神殿さえ含めたすべてのものが最後には崩れ去る事、私たちが永遠にすがることの出来るものなどこの世界にはないことをハッキリとお語りになります。そして、失うことを恐れない生き方だけでなく、その失うこと、苦難や不幸が、むしろ「機会(チャンス)」となって、証しがなされる。神様の助けを味わい知る。何も失わなかったと言えるような思いをさせていただけるのだ、とまで仰っているのです[4]

 皆さん。これが、イエス様が私たちに語ってくださっている、イエス様を信じる者に与えられたストーリーです。私たちが思い描き、神様に期待しやすいのは、失う事なく守られるという展開(ストーリー)です。自分の生活も立場も、人々からの評価も命も、守られて安泰であることを期待します。けれども、それは夢です。人生はいつも失うことと隣り合わせですし、最後にはすべてが焼かれる死を迎えるのです。イエス様は、そのような人生を変えるとは仰いません。そうではなく、いつかは失うものを失う事を恐れる生き方を変えて、イエス様を信頼する生き方へと導いてくださるのです。

19あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。

 これも、忍耐のない人は勝ち取れない、とか、「私は忍耐強くないから駄目だ」と考えないでください。忍耐とは我慢強さのことではありません。イエス様を信頼し続けることです[5]。必ずいのちを勝ち取らせてくださるのだから、主イエスを信じ続けなさい、ということです[6]。迫害や天変地異や人生の大変化にあっても、それで諦めたり投げ出してしまったりしてはならない。主が、私たちを助け、逆境をチャンスとし、知恵ある言葉も、死さえも恐れない勇気も下さる。そう信じて、耐え忍ぶことの幸いを仰るのです[7]

 イエス様が語っておられる道は、厳しいようでいて、それ以上に明るく、希望があります。恐れて尻込みするような状況も、むしろ絶好のチャンスとされ、必要な助けは神様が下さるのです。その過程では、悲しみがあり、恐れるでしょう。忍耐を支えとしなければやっていけない時もあるでしょう[8]。けれども、そうした私たちの心の揺れ動きも含めて、主はここで私たちに約束しておられます。私たちが通るすべての事が働いて、本当の私たちのいのち、見えるものや家族や社会的な立場に寄らないいのち-殺されて死んでもその先に与えられる、自分の「いのち」を勝ち取るのです。主を信じる私たちの道筋は、今も、これからも、どんな事が起きても、希望と意味がある道であることを約束して、私たちを励ましてくださっています。

 

「主よ。あなた様の語ってくださる確かな言葉に、今、私たち一人一人が力を得て、あらゆる恐れから解放された、明るさを戴くことが出来ますように。助けを下さい。願わないことも、そのことを機会として、あなた様の栄光が現されることを信じて進ませてください。小さな私共が、あなた様への信頼をもって生きる姿を通して、あなた様を証しする存在としてください」



[1] これは、十二11ですでに言われていたことです。「また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。12言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」

[2] 憎まれる、と明言されています。キリスト者としての道は、喜びや人との協調ばかりではありません。家族に裏切られ、みんなに憎まれることも想定させられています。この点、日本では、キリスト者の歩みが、「犠牲を惜しまずに愛することであり、そうすれば、必ず、相手の心は動かされる」という、非聖書的なイメージが一人歩きして、すり込まれていることを感じます。殉教を恥じ、「嫌われることを恐れる」キリスト者が多いのです。その事に自覚して、聖書の示す方向に修正されることが必要です。

[3] この好例は、ルカが続けて記す「使徒の働き」に多数見ることが出来ます。六章七章のステパノの弁明は、確かに、知恵に満たされ、ステパノの顔を輝かせ、反論の余地をなくさせましたが、それでも議会の人々はステパノを憎み、彼を最初の殉教者として石打に処したのです。その他、ペテロ、パウロとシラスたちの受けた苦難、弁明の機会などが読めます。言い換えれば、このルカ二一章の主イエスの予告は、すでに使徒の働きの中で成就していきます。そして、それから二千年近くが経っている通り、終末の前兆の「大艱難時代」ではありませんでした。

[4] こうは言われても、「そんな恐ろしい状況には自分は堪えられない」と考える人は多いでしょう。それこそ、その時には主が助けて下さるのであって、私たちの側の準備にはよらないのです。そして、その方を、今、信じる事。今も、主のみを信じ、恐れ、証しする使命があるのだと心得ること。この世の賞賛と恥、憎しみ、苦難、死を越えた価値観に、今、生かされ始めること。それが、今日聞きたい事です。私たちは「今のこの程度のことでも駄目なのだから、もっと大変な目には絶対無理」と考えます。しかし主は、「もっと大変なときにも助けてあげるから、今のことにも信頼して誠実に当たりなさい」と仰せになっています。

[5] 「忍耐」とは、辛抱ではなくて、「新約では、最大の試練と苦難によっても自己の考える目的と信仰信心への忠誠から外れない人の特性」です(グリム・セイヤー)」榊原康夫『聖書講解 ルカの福音書』三八八頁)また榊原氏は、この「忍耐」が「ギリシャ語訳旧約聖書では、「望み」の訳語。「主イエス・キリストへの望みの忍耐」(Ⅰテサロニケ一・三)参照」と注を付しています(同三九〇頁)。

[6] もっと積極的に、新共同訳が訳すように「忍耐によっていのちを勝ち取りなさい」という命令でもあります。

[7] 忍耐において、と強調されています。この忍耐、耐え忍ぶ信仰がこの段落で、強調されていることに気づきます。すぐに「終末だ、おしまいだ」と騒ぐのではなく、不安に将来を見通すのではなく、待つこと、信じること。しかし、すべきことをせずにただ主の最善にすがりつく、のでもありません。また、「我慢は美徳」という日本人的な発想でもないことも付言しておきます。

[8] 主は、この世界の苦しみや罪の底にまでも降りて、苦しむ人々とひとつとなってくださった方です。その主イエスについていくことは安楽を保証される道ではなく、私たちも又、あらゆる起こりうる苦しみを厭わない人生なのです。そしてそこで起きる痛ましい出来事を味わい知るのですから、ただ楽観的に受け止めるのでもありません。無感覚にではなく、その悲しみ、苦しみ、うめきをも味わい、通らされるのです。家族にも裏切られ、いのちを奪われ、心張り裂ける思いをしながらも、それでも、最終的には、「髪の毛一つ失わなかった」と振り返ることが出来る人生。それが、ここで語られています。

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