2016/10/23 礼拝⑤「赦された喜びに生きる」イザヤ書六章
牧師になって、よく質問される質問は「牧師はどうやって生活しているのか。献金で生活しているのか」と「牧師は普段何をしているのか」。そして「牧師と神父はどう違うのか」です。カトリックとプロテスタントの違いは様々ですが、礼拝に対する大きな違いはこれです。
1.聖書に書かれてあることのみ
カトリックやルター派は「聖書に禁じられていないことは許されている」と考えますが、特に私たちリフォームドの教会は
「聖書に命じられていないことは禁じられている」
と考えます。殊に、信仰の教理や礼拝、教会の運営(教会政治)に関するような大事な問題は、神が聖書に明記してくださっている。だから、聖書にないことを礼拝に持ち込むのではなく、聖書にある礼拝をお手本に礼拝を整えていくのです。マリヤ像やビジュアルな効果とかアイデアで、自分たちの好みの礼拝を造るのではなくて、神が聖書において示しておられる礼拝を、今ここで形にしていくのです。聖書に書かれてある規定を規範とする[1]。これが私たちの規範的原理です。
ではそれは、窮屈な狭苦しい礼拝を生み出すのでしょうか。とんでもない! 聖書に書かれている礼拝は、非常に豊かで多様なものです。レビ記や詩篇、黙示録には、実に色鮮やかで、豊かで、言葉に尽くせない素晴らしい礼拝が見られます。「礼拝指針」はこう言います。
(公的礼拝の自由と秩序)1-7 主イエス・キリストは、公的礼拝に定まった様式を命じることはせず、礼拝にいのちと力が満ちるために大きな自由を教会に与えている。しかし、公的礼拝においては、神のみことばの規準が守られ、主の御霊の自由のうちに、すべてのことが秩序を保ちつつ、簡素、威厳、聖さ、美しさをもって神にささげられる。[2]
今日開きましたイザヤ書六章は、私たちのモデルとして与えられている、素晴らしい礼拝の一つです。ここにある要素や順番からも、私たちの礼拝を改めて見つめ直すことが出来ます。まず、イザヤが栄光の主の幻を見て、セラフィムと呼ばれる生き物が歌うのを聴きます。
3…「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
私たちの毎週の礼拝と重なります。神によって礼拝に集められ、そこで栄光の神に出会うのです。そして、賛美の歌を聴くのです。礼拝の最初の讃美歌は、神の栄光を歌う歌から選んでいます。神の偉大さ、会堂だけでなく全地に満ちる栄光の神を仰ぐのです。すると、イザヤは、どうするでしょうか。一緒に賛美し喜んだのでしょうか。いいえ、自分の汚れを嘆くのですね。
5そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
罪の嘆きはイザヤの礼拝の鍵です。礼拝には「罪と赦し」は不可欠な要素です。
2.「あなたの罪も贖われた」(7節)
栄光の神の前に立つ時、私たちは、自分が如何に汚れているかに気づかされます。礼拝では神を口先や気分だけで賛美するのではなく、自分が聖なる神の前になんと汚れているかも知るのです。神を賛美するには相応しくない自分を自覚するのです。神をこの目で見たらもうダメだ、滅びるしかないほどの自覚です。「みんなも同じなんだから」とか「割と自分は頑張っているよ」とか「心を入れ替えます。礼拝を捧げ、何か喜ばれるようなことをしますから、勘弁して下さい」などと言う余地は全くありません。「もうダメだ」としか言えない。しかし、
6すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
7彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
こうしてイザヤは神の贖いに与るのです。ここで覚えたいのは、これが神の側から与えられた贖いであるということです。イザヤが願ったから神が赦して下さったのではありません。イザヤが悔い改めたから、セラフィムが飛んで来たのでもありません。もうダメだと思っているイザヤの所に、赦しを願うなど思いも及ばないイザヤの所に、神から赦しが届けられたのです。それが神の憐れみであり、礼拝において私たちが与る救いです。
私たちはともすると、私たちが救いや罪の赦しを願っていて、その私たちの悔い改めが十分なら赦しに与れる、と考えないでしょうか。人間が救いを願うなら、少なくともある程度の信仰や忠実さが当然必要で、それが十分なら神は「よし赦してやってもよい」と考えてくださる、という図式です。赦しは人間の努力や真剣さに大きくかかっている、と思い込むのです。
イザヤが示し、主イエスが成就された贖いはそれと正反対です。神の側から赦しが与えられるのです。悔い改めたら赦してあげようとか、派遣に従うなら贖ってあげよう、ではなく、神の側から、一方的に、贖いが宣言されるのです。ここで、イザヤは贖われた者とされたのです。
夕拝では「罪の告白と赦しの宣言」をします。そして赦しが宣言されたら、その後まで「罪人」と自称して「赦しをお恵みください」という言葉遣いはしません。少なくとも礼拝の構成そのものが「赦しの宣言」なのです。最後まで「私はダメだ」でなく、もう「ダメではないんだ」と、神の計り知れない憐れみで赦されて神の子どもとされた喜びで出て行きたいのです。
3.あわれみという栄光
そもそも、ここでイザヤが見た「主の栄光」そのものが、主の限りない恵み、愛の栄光です。
「人は誰でも神の顔を見て、なお生きていることはできない。これは人は誰でも神の輝きを見て、なお生きていることはできないという意味であると私はいつも考えていた。友人の一人はそれはおそらく人は誰でも神の悲しさを見て、なお生きていることができないという意味だろうと言った。あるいは、おそらく神の悲しさが神の輝きなのかもしれない。」[3]
ただ輝かしく眩しく素晴らしい、高尚過ぎる、というのでなく、真実で憐れみ深く、惜しみなくご自身を与えるのが、神の聖なる聖なる栄光です。この
「高く上げられた」
は、もう一度、イザヤ書五二章13節で登場し[4]、有名なイザヤ書五三章の「しもべの歌」、キリストの十字架の苦難が預言されていきます。イザヤに触れた、燃え盛る炭火が取られた
「祭壇」
は、主のしもべが自らを
「罪過のためのいけにえ」[5]
とされた祭壇でした。イザヤはキリストの贖いによって罪を取り去っていただいたのです[6]。ヨハネ伝十二章41節では、
「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」
と明言されています。ヨハネが語るイエスの栄光とは、神がひとり子をお与えになったほどに世を愛された栄光であり[7]、恵みとまことに満ちている栄光です。イザヤは主の憐れみの栄光を前にして、自分の汚れを恥じ入りました[8]。だから、彼は贖われて「あ~赦されて良かった」と思うだけで「自分が遣わされるだなんて無理です」と言ったりはしません。神の愛から離れた自分を恥じたのですから、どうぞ私をお遣わしくださいと言う他なかったのではありませんか。
罪の赦しとは、自分の罪や過ちが罰せられなくてホッとする、というだけではありません。神は聖なる聖なるお方ですから、私たちをも罪や自分本位の生き方そのものから、愛の生き方へと向かわせてくださるのです。罪を赦す事は勿論、もう私たちの生き方そのものが罪に背を向け、それぞれの生活において、神とともに喜び、愛し、仕え合い、真実を語り合うようにとせずにはおれないのです。それは簡単ではありません。綺麗事は言えません。9節以下でもイザヤの派遣される先でも抵抗の方が大きいと語られています。人の頑なさはどれほど深いか神はご承知です。でも最後には
「切り株」
がある。
「聖なるすえ」
があると言われます。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」
が、最後の最後には、イザヤのように主の聖なる贖いに与る民を約束されたのです。私たちも、聖なる神の、聖なる約束を戴いています。その憐れみが私たちに先んじて主イエスの十字架に現され、その贖いを戴いた者として、遣わされていくのです。
「聖なる聖なる聖なる主よ。あなたの栄光は全地に満ちています。この礼拝で、主の憐れみの栄光を崇め、赦しを戴き、遣わされていきます。憐れみに逆らう、本当に恥ずべき現実がありますが、あなたはそれを悲しみ、嘆かれ、その社会へと私たちを遣わされるのです。憐れみはさばきに向かって勝ち誇ります[9]。それぞれの生活に主の聖なる恵みを見させてください」
[1] 日本長老教会「礼拝指針 一-1(公的礼拝の原理)公的礼拝の諸原理は、聖書からのみ引き出される。」
[2] 参考までに、「神礼拝と教会統治に関しては、常に守らなければならない御言葉の通則に従い、自然の光とキリスト教的分別とによって規制されなければならない、人間行動と社会に共通のいくつかの事情があることを認める」(ウェストミンスター信仰告白、一6)
[3]ニコラス・ウォルターストルフの言葉。G・L・シッツァー『愛する人を失うとき 暗闇からの生還』(朝倉秀之訳、教文館、2002年)171頁より。
[4] イザヤ五二13「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」
[5] イザヤ五三10「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」
[6] この箇所についての詳しい講解説教は、玉川上水キリスト教会で清水武夫牧師が「聖なるものであること」のシリーズで書かれているもの(http://www.hat.hi-ho.ne.jp/ists1970/holiness76.pdf など)が大いに参考になります。
[7] ヨハネ三16「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
[8] ただ道徳的な罪や間違いがある、という以上に、自分の愛のなさ、自分本位の心を恥じたのではないでしょうか。唇の汚れも、悪口だけでなく、冷淡な言葉、批判、諂(へつら)い、二枚舌などに恥ずかしくて居たたまれなくなったのではないでしょうか。
[9] ヤコブ二13「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」。
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