2014/08/10 ルカ18章9~14節「自分を高くする者は低くされます」(#525)
今日もイエス様の例え話を聞きましょう。喩え、ですから、とても分かりやすく、単純化されたお話しです。当時の敬虔な信者の代表者である「パリサイ人」と、正反対に、憎むべきローマ帝国側に回って同胞から税金を搾り取る「取税人」、という二人が出て来ます[1]。もうこれだけで、当時の人たちにとっては、いかにも神様に近い立派な人、片や神の怒りに相応しい人、というイメージが出来上がったでしょう。その二人が、
「…祈るために宮に上った。…」
というのです。そして、それぞれが祈りを捧げるのですが、パリサイ人の祈りはこうでした。
11…『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
非の打ち所がないようです。悪を犯していない。そして、断食やささげ物といった善行は、規定以上に行っていました[2]。一方の取税人はどうでしょう。
13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
パリサイ人の祈りとは大違いです。何も言えることがない。神さまを喜ばせるような正しいことは何一つしていない。ただ、憐れんでくださいと言うだけです。でも、イエス様は、
14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。…」[3]
これは、当時の人にとっては、目が飛び出る程ビックリしたオチだと思います。まさか、パリサイ人ではなく、取税人の方が、神さまの前に義と認められた、だなんて、大どんでん返しもやり過ぎだと思われたはずです。でもイエス様は、こんな大胆な譬えをお話しになりました。なぜイエス様がこのお話しをなさったのかは、最初の9節に書かれていました。
9自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、…[4]
これを読んで私たちはどう思うでしょうか。ナルホド、そりゃそうだ。自分が義人だと思い上がって、他の人を蔑んでいるような高慢ちきな人は、神様が喜ばれるわけがない。イエス様が仰るとおり、自分を低くする者は高くされるが、自分を高くする者は低くされるのだ。偉そうにせず、祈りは謙遜にささげなきゃなぁ、と思うのでしょうか[5]。今日のお話は「喩え」です。分かりやすく、典型的な二人を描いたのです。実際には、二つのタイプに色分け出来る訳ではなくて、私たちはその中間で揺れ動いているのです。そして、11節に、
11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。…
とあります。「心の中で」とは「自分に向かって」という言葉ですが、神様に向かって祈っているようで、結局は、自分で自分を褒めているような自己満足だったということでしょう。また、当時の祈りや読書は大概、声に出してのものでしたから、口ではもっと違うことを、ちゃんとした祈りや賛美をしていたのかも知れない。けれども、唇で礼拝を献げながら、その心の中にあった言葉は、自己賛美、自己満足、自慢だったのです。神様は、私たちの舌先のご謙遜を喜ばれるのではなくて、本心で何を考えているかを見ておられる、のですね。
彼は、「神よ」と呼びかけます。「感謝します」と言います。でも、結局は彼の言葉は全部「私は、私は」なのですね。自分が、ひどい奴とは違っていることを感謝して、人以上の善行を果たしていることを自慢している[6]。自分の人生設計、セルフイメージが理想通りであることに満足しているのですし、彼が祈りに来たのも、その水準を守りたいから、だけでしょう。神様は、その裏方とか背景でしかないと思っているんじゃないでしょうか[7]。
対して取税人は、自分が神様の近くに立つことが出来るとさえ思えません。目を天に上げる、普通の祈りのポーズさえ取れず、胸を叩いて嘆くのです。
「こんな罪人の私」
とは、「罪人のひとりa sinner」ではなく「the sinner罪人と言えばこの私」です。そして、その自分が何か、ではなくて、神様があわれんでくださることを願うだけです。注意してください。この取税人は真面目で、純粋な罪の自覚があって私よりも素晴らしい、などと褒めないようにしましょう。パリサイ人が言ったとおり、取税人は強請(ゆす)る者、不正な者、姦淫する者だった。そこで人々や家庭で汚いことをし、取り返しのつかない状態になっていた。「ことにこの取税人のようではないことを感謝します」と言われるような酷い人生だったのかもしれない。そうやって初めて、13節のような祈りが出て来るものじゃないでしょうか。
私たちはどちらのようでしょう。パリサイ人と取税人を前に、私たちはどちらのようでもある、と言えます。パリサイ人のようではない、と言いたがるとしたら、それこそがこのパリサイ人と変わらない決定的な証拠になります。どちらにも自分が重なる、そう気付いて初めて、私たちはこの喩えに近づけたのです[8]。でも、それは自分の嫌らしさ、罪深さ、傲慢さに気付いて、自己嫌悪や絶望に落ちることではありません。今日の喩えの結びは何と言っていますか。
14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。
そうです。人は、自分の呆(あき)れ果(は)てるほどの罪に気付かされて主の前に立つ時、義と認められて家に帰ることが出来るのです。罪の重荷に押しつぶされ、自分の胸が張り裂けるまで叩き続けるのではなく、神の憐れみを戴いて、罪の重荷をすっかり下ろして、神が義としてくださった者として、家路に着くのです。今日、この会堂を後にする時、私たちはお互いに、明るく、軽やかな心で、帰るのです。なぜなら、イエス様がこう宣言してくださるからです。
この「あわれんでください」とは、「なだめをする」という動詞で、名詞形は「なだめの供え物」と訳されます[9]。ただ「可哀想に思って下さい、同情して大目に見て下さい、とかでは罪は片付きません。神の怒りに値する私のためにあなたご自身が償いを果たしてください。どうかあなたご自身が、この罪の片をつけて、解決してください。お願いします」と必死に祈ったのです。イエス様こそは「なだめの供え物」です。イエス様が私たちを憐れんで、ご自身を「なだめの供え物」として十字架につけてくださいました。私たちを見下すのでなく、私たちを義とするために、十字架にまで低くおり、卑しい私たちを御前に引き上げてくださるのです。
1いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、
とありました。他人を見下し、勘違いした感謝を献げた祈りではなく、イエス様の測り知れない憐れみを見上げる祈りは、私たちを失望から救います。私たちは今日も、義とされているという本当にフシギな恵みを戴いて帰ります。やがて主が私たちを高くしてくださる[10]。その希望に立って、傲慢を砕かれながら、本当に謙虚にされて、共に歩ませていただく私たちです。
「主よ。あなた様が、私たちを憐れんでくださいますように。パリサイ人の滑稽な傲慢さは私たちの姿です。そして、取税人の祈りに、私たちの希望があります。そして、今日もここから、主の義を戴いて帰ります。それでも、高ぶろう、人を見下して安心しようという誘惑は尽きません。心から謙虚になり、ますます、主の贖いに確かな望みをおいて歩ませてください」
[1] 十五1などに「取税人、罪人」と並び称されるように、取税人(徴税請負人)は忌み嫌われ、神から遠いとされていました。
[2] 律法では、年に一度(第七月の十日の贖罪の日)のみを規定。しかし、段々と増えていき、パリサイ人たちは、「週に二度」と、律法の要求以上の回数をして(年に一度が、年に100回以上!)敬虔のしるしとした。「余剰功徳」というらしい?(榊原康夫、一八一頁)。余談だが、「週に2回の断食」は、月曜と木曜。モーセが山に登ったのが木曜で、降りて来たのが月曜と考えられたから。ウルガタ訳(ラテン語聖書)は「安息日に二回」というナンセンスな訳。ギリシャ語を全く知らなかった訳者の誤訳と思われる。
[3] 「あなたがたに言います」は、ルカが使う、重要な宣言を権威をもって語るときの慣用句である。(七・二六、二八、九・二七、一〇・一二、二四、一一・九、五一、一二・四、五、八、三七、四四、五一、一三・三など) (『説教者のための聖書講解 ルカによる福音書』四五五頁)
[4] 「見下す」は、大変強い言葉。二三11では「ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した」とあった。それほどのことを、心の中ですることがあるのだ。
[5] 日本では「謙遜」が美徳とされます。高価なものであっても「詰まらないものですが」と言うのです。本心では自慢したくても、口では「そんなことありませんよ」と言っておくのが、「ご謙遜」です。けれどもイエス様はそんなことを仰っているのではありません。
[6] 直後の18節以下の役人も、同じような自覚に立っている。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」(21) しかし彼にイエスは言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。…」このパリサイ人は、自分が人並み以上にしていると自負していたが、貧しい人々がなお困窮している事実には心動かされることがない。
[7] また、彼の祈りは「夜昼神を呼び求めている」祈りではない。自己義認、自己満足の祈り。
[8] 自分はどうか? チェックバランスシートと言えるのは、他人を見下していないか。他人以上に頑張っているなどの自負がないか。祈る内容が、自分を主語にしていないか。何を感謝しているか。でも、究極的には、心のこと。いくら形式や言葉や姿勢をまねても、それを誇りかねないのが我々だから。
[9] 「あわれみ」は日本語では、自分の罪深さを、悲しみながらも、言い訳をし、被害者意識を持ち、自己憐憫に酔うことも出来る。しかし、ここで彼は「あわれみ」を乞う。こことヘブル書2章17節にしか使われない強い、罪を意識した言葉。ヘブル2章17節「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」(新共同訳「償う」) この名詞形が「なだめの供え物」(ローマ3章25節、Ⅰヨハネ2章2節) 罪を犯した人間に対する神の義なる怒りを、なだめる供え物をささげて、やわらげ、和解させていただくこと。罪に対する義なる怒りをなだめて、和解してください、との祈り。強い罪の自覚であり、法的な罪の自覚だとも言える。
[10] 「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」(未来形)という言葉が、8節の「人の子が来た時(未来形)、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」という前段に続く。
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