2019/10/13 ローマ書14章7~10節「新シリーズ、スタート!」ニュー・シティ・カテキズム1
今日から新しいシリーズ「ニュー・シティ・カテキズム」新しい都市の教理問答、を見ていきます。これは、私たち長老教会の伝統で育まれてきた教理問答を、今の大都市の人にも分かるようかみ砕いたもので、一昨年出版されました。全部で52問を一年掛けて、学びながら、教会の信仰を確認しましょう。最初は
「神、創造そして堕落、律法」
という部分です。教会のお話しだから、神の話から学ぶのはアタリマエのようにも思います。しかし、その第一問は、こういう意外な始まり方をするのです。
第一問 生きるにも死ぬにも、私たちのただひとつの希望は何ですか?
答 それは私たちが私たち自身のものではなく、生きるにも死ぬにも、体も魂も、神のものであり、私たちの救い主イエス・キリストのものであることです。
ただ一つの希望。これは「慰め」とも「喜び」「幸せ」「拠り所」「生き甲斐」、色々な言い方が出来ます。皆さんもそれぞれに、自分の喜び、希望、幸せって何、と聞かれたら、どう応えるでしょうか。家族、仕事、野球や音楽、健康や食べ物、子どもの成長、趣味や旅行など、色々な答があるかもしれません。中には、パッと答えられない人もいるかもしれません。その中には、自分が大事にしていたことが出来なくなってしまった。年を取ったり、生活が変わったり、もう飽きてしまったり、以前は毎日の張り合いにしていたことが、もう味気なくなってしまった、ということもあるのです。
ですから、ここではそうした喜びや楽しみは無くなったり変わったりしても、「ただひとつの希望」は何でしょうか、と問うのです。それは死ぬときにも希望であることです。そんなものがあるのでしょうか。ここでは、それがあると言います。そしてそれは、
私たちが私たち自身のものではなく、生きるにも死ぬにも、体も魂も、神のものであり、私たちの救い主イエス・キリストのものであること…
だと言うのです。私たちが何か幸せにしてくれる趣味や宝物や能力を持つこと、持ち続けることではないのです。それは、私たちの「ただ一つの慰め」にはなりません。私たちが持っているものはすべて、死ぬときには持って行けませんし、生きている時にさえ、壊れたり古くなったり変わってしまいます。でも、私たちの持っているものがなくなっても、希望があります。それはそもそも私たち自身が、私たち自身のものではなく、生きるにも死ぬにも、体も魂も、神のもの、私たちの救い主イエス・キリストのものであること、それが私たちの慰めなのです。先ほどの御言葉でもこうありました。
ローマ書14:7私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。8私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。9キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。
私たち、というのは、私も皆さんも、すべての人の事です。全ての人は、神様のものです。「自分は違う、自分は自分で選んで生まれてきた。今もこれからも、自分は神様が何と言おうと、自分で生き、自分で死ぬのだ」なんて言える人はいません。この世界の全てのものは神が作られたもの、私たちは神のものです。
長い長いお話しがあっても、そのお話しを作るのは作者です。主人公も脇役も敵役も、作者ではありません。作者に命令したり、お話しに注文をつけることは出来ません。私たちも、神のものです。世界の作者である神が、今も私たちを通して、この世界に物語を綴っています。世界に神が見えなくても、世界がある事自体が、神がいる証拠です。私たちは、自分のものではありません。私たちは神のもの、私たちの救い主イエス・キリストのものです。それも、神は私たちが身につけているもの、特技も経歴も、自慢も見た目も全部失った私たちを、詰まらない、価値のない奴だとは思って捨てたりしません。神は、私たちをご自身のものとしてくださいました。主イエスは、この私たちを愛して、救うために、ご自身を捧げて下さいました。神と主イエスは、私たちをご自身のものとして、永遠に大事に思ってくださいます。それは、なんという希望でしょうか。
私たちは神のもの、主イエスのもの。この事実から、新しい教理問答「ニュー・シティ・カテキズム」は語り始めます。私たちがどんなことをするか、どんなことを知っているか。そういう行動や知識からではなく、私たちが何者か、から語り始めます。ですから私たちも、この言葉を深く心に刻みましょう。私たちは神のもの、主イエス・キリストのもの。神は、私たちを喜んでご自身のものとしてくださいました。主イエス・キリストは、私たちの罪や問題や、心の中も過去もこれからのことも、全部全部全部ご存じの上で、私たちのために、喜んで命を与えてくださいました。それによって私たちは、自分が自分のものであるかのようなあやふやな夢から救い出されて、神のものとして生きるようになったのです。そして、私たちは神のものですから、神の言葉に喜んで聴き、自分の人生も神のものとして捧げていくのです。また、自分も他の人も、何よりも神のものですから、大事にしなければなりません。このローマ書の言葉も続きます。
10あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。
私たちが誰かを見下したり、馬鹿にしたりするなら、それはその主である神を引き下ろすことになります。自分を虐めたり、卑しめたりすることも、自分が神のものであると思えば出来るでしょうか。またこの世界の自然や環境も、自分たちの好きにしてよいものではなく、神のものとして大切に扱うべきものだということになります。そうです。私たちが、自分たちを神のものだと思う事は、私たちの生き方の全てに対する見方を変えるのです。しかし、それを忘れて、自分たちが神のものだということを忘れても、それでも神はその私たちを決して見捨てず、私たちとともにいます。それが、生きている時も死ぬときも、私たちのただ一つの希望なのです。祈りましょう。
「生きるにも死ぬにも私たちの希望であるキリストよ。私たち自身をあなたの恵み深い、父としてのご配慮にお委ねします。あなたは私たちを愛しておられます。私たちがあなたのものだからです。あなたを離れては何の益もありません。あなたのものであることを求める以上に、素晴らしい贈り物もありません。私たちの主イエスの御名によって」
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