2019/10/13 マタイ伝3章1~12節「きよくなれるのです」
キリストの誕生にまつわる出来事が一章二章と続き、いよいよイエスご自身の登場に先立つ出来事が今日の「バプテスマのヨハネ」の働きです。マタイだけではなく四つの福音書全てが、洗礼者ヨハネの登場を導入にイエスの生涯に入っていきます。ヨハネを通して、イエスとはどんなお方か、私たちがイエスに対してどんな迎え方をすれば良いのか、が教えられるのです[1]。
3:1そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、2「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。[2]
イエスは4章17節で宣教を開始する際、これと全く同じ言葉を語ります。イエスの働きとヨハネは一致していました。ヨハネはイエスがおいでになる露払いだったのです。そこで、
3この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
と言います。この言葉は、今日交読したイザヤ書40章の言葉です[3]。紀元前8世紀のイザヤの時代、社会が荒んで、希望もなく、神への期待も失っていた時代に、もっと希望もないような荒野から、
「慰めよ、慰めよ」
という声が呼ばわる。罪の罰は終わり、主が来られる。人間が造り上げた貧富の差、身分の差は埋められ、人間の誇る富や栄華、一切の虚栄は消え失せて、神の国が始まる。そのように告げる声が荒野から聞こえてくる、と語っていたのです。
このイザヤの
「主の通られる道をまっすぐにせよ」
と叫ぶ声がヨハネで、それを言い換えたのが
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
です。「天の御国」とは「天を御座とする大いなる神が治める王国」です。死後に行く「天国」とは違います。神が治める国がこの地に近く来た。だから、あなたがたは神を王として迎える準備をしなさい。神の道を備えなさい。自分たちが王や神のように振るまい、人を踏みつけたり豊かさや安逸を貪ったりしている「わが世の春」はもう終わり、主を王として迎えなさい、それが「悔い改め」という準備です。
「悔い改め」とは「考えを変える」というのが第一の意味で、「生き方の方向転換」「回心」とも訳せます[4]。旧約聖書では「帰る」「戻る」という言葉です。神に帰る、神を神とする生き方に立ち戻る、神の御支配を忘れた考えを一新する。それが「悔い改め」です[5]。またこれは一度の悔い改めでなく、継続して「悔い改め続けよ」という生き方です。神を神とし続ける、神を忘れて傲慢や絶望を行き来する考えを、恵みの神へと向き直り続ける、生涯続く作業です[6]。でも中心なのはその私たちの「悔い改め」ではありません。大事なのは、「天の御国が近づいた」ことです。イザヤが告げたように「主の通られる道」を備えるのが「悔い改め」です。道を完璧にすることが目的ではなく、主が来られることが肝心なのです。道に欠けがあったら主が来ないとかお怒りになるとか、そんなことはありません。主はおいでになる。だから私たちは、その主を王として、考えを神の国の生き方に方向転換し続けて行くのです。
そう思うと、4節のヨハネの出で立ちの異様さも、それ自体がメッセージなのでしょう。
…らくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
ヨハネは、王服や華やかな着物をまとう人ではありませんでした[7]。人の関心は、食べ物や着る物に向きがちです[8]。そんな人たちにヨハネはかつての預言者エリヤのように毛衣を着て荒野に現れて、強烈な一石を投じました[9]。勿論、毛衣を着て蜜や蝗を食べるかどうか、ではありません。こんな姿は新約には他に出て来ませんから。同じように、このヨハネの元には、
5そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、6自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
確かに、神に立ち帰ることには「罪を告白」する要素が伴います。悔い改めには当然、罪を捨てることが出て来ます。罪とは、真の神ならぬものを神のように中心にすることですから。でも悔い改めの中心は、罪の告白ではなく、神を神とすることです。聖書には「ごめんなさい」という言葉は出て来ません。しでかした行為を詫びることは勿論大事です。でも悔い改めとは、罪を悔い改める以上に神へと悔い改めること。自分を責めるより、「帰って来なさい」と言って下さる神に帰ること。それも一度ではなく、生涯継続してなのです。洗礼は立ち戻り続ける生涯へのスタートです[10]。洗礼の水を浴びればもう悔い改めなくて良いわけではないし、悔い改めの印に何度も洗礼を受けもしません。洗礼は一度だけ。その一度の洗礼から始まるのが、いつも神に立ち帰り続け、神の言葉によって思いを変えられ続け、方向転換した生き方を軌道修正し続ける生涯が始まったのです。私たちは安心して罪を告白し、神に立ち戻れるのです。
ですから自分を明け渡すこともないまま、自分の非も認めないままやって来た、当時の宗教的なエリート、パリサイ人やサドカイ人に、ヨハネは厳しく言います[11]。彼らの考えは、「迫り来る怒りを逃れる」だけのことでした。神に立ち帰る気持ちはなかったのです。
8それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。…
悔い改めの実は、心の中で
「自分たちの父はアブラハムだ」
と思っていては結ばれません。「自分は特別だ。自分は他の人とは違う。自分はましなほうだ。自分は変わる必要が無い」と思っているなら、心を変えるという「悔い改め」とは相容れません。神が生き方を変えてくださろうとしていて、その招きを本当に有り難いと集まって自分の罪を告白している庶民、罪人、厄介者を軽蔑したり見下したりする。主が招く人を断罪して、懲罰やレッテル貼りをしようとする思い上がりを捨てることこそ、
「悔い改めにふさわしい実」
です[12]。これは、この後のマタイの記述で、イエスとパリサイ人の対立で繰り返されていく、大事な問いかけになります。
ヨハネは自分よりも、後に来るイエスを大いなるお方として紹介します。
「履き物を脱がせて差し上げる資格もありません」
とありますが[13]、自分には資格があると思っているパリサイ人やサドカイ人に対して、ヨハネはその方に対して自分に何か資格があるとは思っていないと言うのです。資格などない人間なのです。その人の所に、主が来て下さる。そして、聖霊と火によって人もこの世界も隅々まで「掃き清め」ます[14]。主は私たちをきよめてくださる。神の国にふさわしい実、神の憐れみ深い招きを映し出すような生き方は、小さな一粒も、水一杯でも、忘れたような小さな親切さえ、残さず集めて下さる[15]。その実を育てるための「殻」に過ぎなかったもの、社会の地位とか立場とか業績とか実績とか、何を着たとか何を食べたとか、そんな殻は焼き尽くされ、神に立ち帰った本物の実だけが残される[16]。それは慰めであり希望です。でも上辺の殻を握りしめ、自分に資格があると思い上がり、自分が王でいたい思いにとっては、自分のプライドが呆気なく燃え尽きる事実は「とんでもない」と抵抗してしまうことでもあります[17]。私にもそんな抵抗があります。だから毎日、主に立ち帰り続けるのです。有り難い事に、主は私たちを迎え、隅々まで掃き清めてくださるのです[18]。これからのマタイの記事を読みながらも、抵抗を覚えつつ、その主を心に迎え入れ「掃き清めて」いただくのです。
その主が来られるのだから、その用意をせよ、といわれています。それは、自分できよくなることでも、「自分は他の人より立派です」と資格を翳すことでもありません。ただ、神に立ち戻ること、神を神として受け入れ、恵みを戴き、自分の生き方を神の恵みに照らして変え続けていただくことです。そこには赦しがあり、慰めがあります。罪を悔い自分を責めなければだめだ、という意味ではなく、私たちを生かし、憐れみ、回復して下さる神に立ち返り、心や考えも御言葉によって原点に返る、という悔い改めが何度でも出来ます。安心して罪を告白することが出来ます。こう語ったヨハネが指し示したキリストが来られました。そのイエスがもっとハッキリと、私たちに神の国を示し、私たちに新しい生き方を教えて下さっています。
「主の御支配がここに始まって、私たちにも用意を呼びかけてくださり感謝します。洗礼を通して示された新しい生き方、あなたに何度でも立ち帰り続ける幸い、そしてともにその赦しと回復に与り、あなたを証ししていける幸いを感謝します。プライドや殻に縋る愚かさを吹き飛ばし、主の恵みをともに喜び、祝い、主よ、いつでも来て下さい、と待ち望ませてください」
[2] 「そのころ」は、1節、5節、13節とありますが、1節の「そのころ」は「これらの日々に」という言葉です。24章22節、29節、38節で使われる用語です。3章5節、13節の「そのころ」は英語のthenに当たるトテという一語です。2章7節「そこで」、16節「そして」、17節「そのとき」などと訳され、マタイで90回使われる接続詞です。
[3] イザヤ書40章「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──2エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」3荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。4すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。5このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる。」6「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。7主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。8草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」9シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ、あなたがたの神を。」10見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある。11主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
[4] 『広辞苑』では「悔い改め」の意味を「悪事や過失を悔いて善に向かう」としていますが、聖書は日本語の「悔い改め」に新しい意味を与えています。
[5] 聖書の「悔い改め」は、「考えを変える」「生き方の方向転換をする」。神に帰ってくること。マタイでは動詞で四回(4:17、11:20、21、12:41)、名詞形で2回(3:8、11)。「ゴメンナサイ」と言うことではない。神も「謝れ」とは言わない。「帰って来なさい」なのだ。
[6] マルチン・ルターの『九十五か条の提題』の第一は、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ……」〔マタイ4.17〕と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」でした。引用元、ルターの「九十五か条の論題」(抄)
[7] 後の11章でもイエスはヨハネの事を「柔らかい衣を着た人」ではない事を思い出させています。マタイ11章7~9節「この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。8そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。9そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。」
[8] マタイ6章25~34節「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。26空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。27あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。28なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。30今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。31ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。33まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」
[9] Ⅱ列王記1章8節「彼らが「毛衣を着て、腰に革の帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。」
[10] 洗礼は、ヨハネが始めたものではなく、既にユダヤ教において実践されていました。ただし、ユダヤ人になるために、異邦人が一度受けるものであって、ユダヤ人が受けるものではなかった。
[11] 「まむしの子孫」12:34、23:33でも。7節の「バプテスマを受けに来る」は、原文では「バプテスマに来る」です。必ずしも「受ける」ためではなく、その場に「来」ただけ、野次馬根性だったのかもしれません。
[12] 「実」は、マタイで14回。7:16~20、12:33、13:8、26、21:19、34、41、43。いずれも、行動としての実、というよりも、当然の結果としての実です。実は無理に力んで結ぶことは出来ません。
[13] 奴隷でさえ、履き物を脱がせるような屈辱的な仕事はしなくていい、と言われていたのに、ヨハネは「私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません」と言いました。
[14] ヨハネの洗礼と、イエスの命じた洗礼は同じではありません。しかし、ここで言われている「聖霊と火とのバプテスマ」と、イエスに命じられて教会で行われている「水のバプテスマ」とも違います。教会は、聖霊の働きを信じつつ、礼典として、洗礼を授けます。イエスの「聖霊と火とのバプテスマ」によってきよめられることを待ち望みつつ、今ここで洗礼や聖餐を行います。それと、イエスの洗礼や聖餐は、重なりはしても、イコールではありません。
[15] 神の国が示す「実」は、個人的な善行ではありません。それは、罪人への招き、告白と赦し、絶望の中での希望、恵みによるコミュニティ形成、あわれみのわざです。最後の日に刈り取られる「実」の実例としては、マタイの10:42「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」や、25章の「羊と山羊の譬え」(25:34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。35あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、36わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』37すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。38いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。39いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』)に表れています。
[16] イザヤ40:6-7で「「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。7主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。8草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」といわれていた「主の息吹」とは「霊」とも訳せます。主の聖なる霊が吹くと、人の栄えはみな野の花のように枯れ、神の言葉が永遠に立ち、神の喜びに満ちた国が終わることはない、と言われていたイザヤの言葉が、洗礼者ヨハネによって言い直されているのです。
[17] そして、そのような神の国のメッセージに、パリサイ人たちは最後まで抵抗して、結局、イエスを十字架に殺す結末につながっていくのです。しかし、それは神の国の終わりではありませんでした。イエスは、その死からよみがえらされました。神の国は、人の抵抗や誇りや悪足掻きよりも強いのです。これが、今後のマタイの展開でも見えてくるアプローチ。そして、最終的にパリサイ人は、イエスの最後の日々に、既に亡くなっていた洗礼者ヨハネの権威を問われて、否定するのです。(マタイ21:25)
[18] 「きよめる」(カサリゾー)は、8:2(すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。)、8:3(イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。)、10:8(病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。)、11:5(目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。)、23:25(わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。)、23:26(目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。)の6回使われています。3章12節の「掃き清める」(ディアカサリゾー)はそれを徹底的にする、強調形で、新約聖書でここにしか使われていません。
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