聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問105-107「心でも殺さない」ルカ10章25-37節

2018-01-07 20:47:02 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/12/31 ハ信仰問答105-107「心でも殺さない」ルカ10章25-37節

 十誡を見てきましたが、今日は第六戒を見ましょう。

「殺してはならない」

です。殺してはならない、なんて当たり前のことのように思うかもしれません。読みましょう■。

問105 第六戒で神は何を望んでおられますか。

答 わたしが、思いにより、言葉や素振りにより、ましてや行為によって、わたしの隣人を、自分自ら、または他人を通して、そしったり、憎んだり、侮辱したり、殺したりすることなく、かえってあらゆる復讐心を捨て去ること、さらに、自分自身を傷つけたり、自ら危険を犯したりすべきではない、といことです。そういうわけで、為政者もまた、殺人を防ぐために剣を帯びているのです。

 ここでは「殺す」ことが、思いや言葉や素振りや行為で、誹ったり憎んだり侮辱したりすることも含めている、と言います。また、隣人を直接だけでなく間接的に苦しめることも禁じられている、と言われています。復讐心を捨てることや危険な行為も避けるべきこと、と言います。また為政者に剣の権威が与えられている、とも言っています。これは今では、警察のことを指していると考えて良いでしょう。犯罪を取り締まるのは、神が為政者に委ねられた命を守る役目です。これに続いて、問106問は、

問106 しかし、この戒めは殺すことについてだけ語っているのではありませんか。

答 神が、殺人の禁止を通してわたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、ねたみや憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること、またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。

 これはイエスがマタイの五章でハッキリ仰ったことです。殺してはならないと聴いているだろうが、人を馬鹿にしたり呪ったりすることも殺人の罪だと言われました。「嘘つきは泥棒の始まり」と言いますが、「怒りは殺人の根っこ」なのです。神は、私たちが心の中で憎らしい、殺さないけど死んで欲しい、苦しんで欲しい、そう思うことの方を嫌われるのだ、だから「殺してはならない」とは殺人を犯さなければ良い、ということではないのだ、と言うのです。しかしハイデルベルグはここで終わりません。更に

問107 しかし、わたしたちが自分の隣人をそのように殺さないということで十分なのですか。

答 いいえ。神はそこにおいて、ねたみや憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、この方がわたしたちに求めておられるのは、わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐と平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人の損害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。

 人を殺さないだけではない、「殺したい」と思ってしまう相手、敵をさえ、自分のように愛し、忍耐を示し、その人の損害をできうる限り少なくしてあげよう、善をしてあげよう、ということです。その典型的な例は、今日読みました

「良きサマリア人の譬え」

だと言えるでしょう。サマリア人とユダヤ人は長い確執があって敵対していました。しかし、あるユダヤ人が強盗に会って倒れていた時、神殿で仕えている祭司やレビ人は反対側を通って行ったのに、たまたま通りかかったサマリア人は、可哀想に思い、近寄って手当をして、宿屋に連れて行き、介抱をし、宿屋の主人に彼を託して、できるだけの事をしてあげました。そしてイエスはこの譬えの最後に

「あなたも行って、同じようにしなさい」

と言われます。憐れみ深く生きなさい、と仰るのです。

 とはいえそれは簡単なことではありません。この時代と現代とでは沢山の事情の違いができました。ここから「殺してはいけないのだから死刑制度や戦争もダメだ」という人がいますが、聖書には重罪の場合は死刑は命じられていますし、戦争も行われています。

 現代の死刑制度は問題がありますし、戦争も勿論避けるべきですが、武器や自衛もせずに、侵略されたらそのまま人が殺されたり、悪い思想に再教育されたり、そういう暴力を放っておいて良いのか、という問題があります。

 殺人や戦争で殺されるよりも、交通事故の死亡の方が多いです。

 環境汚染で亡くなる人は6人に一人とも言われます。

 日本では死者の2~3パーセントが自殺でなくなっています。

 心を病む人、過労死、追い詰められている人、生きづらさで苦しむ人がたくさんいます。

 飢餓で亡くなる人は、一分間に17人で、その背後には10億人の飢餓で苦しみながら生きている人がいます。

 産まれてくる子どもは100万人いても、20万件の人工妊娠中絶が報告されています。実際はもっとでしょうが、聖書からすると、中絶は殺人だと考える人もいます。確かにとても複雑な問題です。色々な事情があって、決して堕ろさざるを得なかった女性たちを責めることは出来ません。中絶の苦しみは本人が一番辛いのです。

 また、自殺も殺人ですが、自殺はいけないと禁じたり罪悪感を煽り立てても、何の解決にもなりません。

 「殺してはいけない」とは簡単に見えて、とても複雑です。

 だからこそ私たちは、主が

「殺してはいけない」

と仰るのが、ただの道徳や命令ではなく、私たちの命を愛される叫びだと覚えたいのです。人が「あんな奴はいなくなった方がいい」と思っても、神は「殺してはならない」と仰います。私たちが傷つけ合い、自殺や絶望を止められず、自分の命の価値も見失っているとしても、主は私たちの命を「殺されてはいけない尊い命」と言われるのです。

 だから主は「殺してはならない」と命じるだけでなく、御自身がこの世に来て、十字架に殺される道を選ばれました。

 

 殺人が悪いという道徳や罰をかざしたまま遠くを通り過ぎたりせず、こちら側に来られ、殺されることも厭わずに、私たちにいのちを取り戻してくださいました。憐れんで、出来る全てのことをしてくださいました。私たちはそのイエスの下さったいのちをいただいています。

 私たちが人のいのちや自分のいのちをどう思うかに関わらず、神は私たちのいのちのために、最大級の犠牲をも惜しまれませんでした。その原点に絶えず立ち返りたいと思います。そこから始めるからこそ、飢餓や自殺、戦争、中絶、死刑制度、安楽死、様々な具体的な問題にも取り組み、学び、取り組みたいのです。そしてそれ以上に、いのちを祝いたい。人生という贈り物を喜び、愛して、互いのいのちを生かし合いたいのです。キリストが御自身のいのちを捨ててまで取り戻してくださったいのちです。殺されたり生きながらも魂が死んだように傷つけられている多くの人がもう一度いのちを喜ぶため、まず自分や周りとのいのちを取り戻し、祝うようになりましょう。

 

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使徒の働き13章1-15節「主が召した働きに」

2018-01-07 15:08:51 | 使徒の働き

2018/1/7 使徒の働き13章1-15節「主が召した働きに」

1.第一回伝道旅行

 久しぶりに「使徒の働き」に戻ります。今日の一三章からパウロの三回の伝道旅行が書かれます。パウロ自身は三回の伝道旅行を計画したつもりはなかったでしょう。それどころか、誰も伝道旅行に出掛ける、宣教のためにどこかに積極的に出掛けていくという発想を持っていなかったようです。置かれたその場所で神の言葉を語り、散らされていったらそこで福音を伝えるという伝道で、教会は広がっていったのです。それがこの時初めて、アンティオキアの教会に聖霊が語りかけ、積極的に伝道のための旅行に出掛けていく、という行動に導かれたのです。

 バルナバとサウロを送り出す。それはアンティオキアの教会にとって大変痛い決断だったでしょう。初めての異邦人教会の成立は暗中模索だらけだったでしょう。1節の顔ぶれも

「ニゲル」

は黒人を指したでしょうし、領主ヘロデの乳兄弟という権力者の家系や、迫害者だったサウロ、五人とも個性派です。大都市アンティオキアは国籍も文化も言葉も多様な人種の坩堝でした。彼らが一つ教会として育ったのは、バルナバとサウロがいたからこそでした。しかし今、聖霊はその中心的なバルナバとサウロを聖別して、主が召した働きに就かせるよう言われます。宣教師を遣わす派遣団体では「教会が簡単に喜んで送り出す人物はいらない。『大切な人材だから送り出したくない』という人こそ、宣教師として相応しい」と考えるそうです。ここでも、バルナバやサウロを送り出すことには躊躇いがあったでしょう。けれども、彼らはその言葉を受け入れて、悲しみや心配を断食で十分に嘆いた上で、二人の祝福を祈って派遣したのです。

 これに似ているのが、大事な娘を嫁に出す、優秀な片腕が独立する、大切な人を惜しみつつ見送る、などでしょうか。主が一人一人をどう召されるかは、私たちの願いとは違います。それは主が冷たいお方だからではなく、主の深い憐れみによることです。バルナバとサウロには召された働きがありました。彼らの宣教を必要としている人々が待っていました。そしてアンティオキアの教会にとっても、主を信じて二人を送り出し、主に新しい展開を期待して、内向きではなく外に向かう教会として踏み出すことは大切な前進でした。私たちが、大事な何かを自分のモノとして握りしめずに手放し、主に献げるのです。教会も「自分たちの教会」ではなく「主の教会」として手を開き続けます。それは、それ自体が主イエスに従う恵みなのです。

2.魔術の敗北

 さて一行はアンティオキアから港町セレウキアに下って、船でキプロス島に向かいます。東西に細長いキプロスをユダヤ人の諸会堂で宣べ伝えながら、反対のパポスまで行きました。ここでバルイエスというユダヤ人の魔術師で偽預言者に出会います。彼が庇護を親しくしていた地方総督が、バルナバとサウロの話を聴こうとした時、この魔術師は邪魔をし出しました。その時サウロは聖霊に満たされて、彼をにらみつけて、実に容赦ない非難を浴びせます。すると、その言葉通り、たちまち魔術師を霞と闇が覆って、視力を失って、手を引いてくれる人を捜し回った、というのです。総督はこの出来事を見て、主の教えに驚嘆し、信仰に入ったのです。

 これはとても驚く出来事です。そして怖い出来事でもあります。決してこのような出来事ばかりが起きたわけではないし、反対者を呪うような、有無を言わせぬ神通力で圧倒しながら伝道をしたわけでもありません。実際この時もキプロスの諸会堂で神の言葉を宣べ伝えても芳しい反応はなかったようです。この地方総督が信じたものの、パウロたちはそこから去って、小アジアに船で渡り、更にピシディアのアンティオキアにまで上って行きます。先の出発地はシリアのアンティオキアからキプロスまで五百kmほどでしたが、更に北に五百kmの旅です。海抜が千百メートルという高地です。その手前のタウルス山脈という三千メートル級剣山の1.5倍の山道を、這いつくばに上って行ったのでしょう。

 この手前、13節で助手のヨハネは一行から離れて帰りました。なんで帰ったのか、あれこれ言われますが、むしろパウロとバルナバがピシディアまでの百kmの旅路を行こうとした方が驚きなのかもしれません。そうしてやっと着いたアンティオキアでようやく

49…主のことばは、この地方全体に広まった」。

実りらしい実りがあるのです。そこでも反対がありますが、パウロがにらみつけて何かが起きたとか、奇跡の力で人々が入信したりはしません。むしろパウロもバルナバも実りが少ない中、足にまめを作り、反対者の迫害を交わしながら、地味に黙々と伝道したのです。ですから、この聖霊によって魔術師に荒っぽい応対をしたのはよっぽどの緊急事態、特例措置なのです。

3.主のまっすぐな道

 聖霊に満たされたパウロが語った言葉を見てみましょう。

10こう言った。「ああ、あらゆる偽りとあらゆる悪事に満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。

 エリマはユダヤ人で魔術師で、神の言葉を預かって語ると偽る偽預言者でした。そして地方総督の下で助言や怪しげな魔術で驚かせて庇護を得ていたのでしょう。真理を知っている、総督を導くことが出来る、と豪語する大嘘つきだったと推測できます。そしてバルナバとパウロに反対する時は、そういう自分の本音や嘘や騙してきたことは棚に上げて、「バルナバとパウロの言葉など嘘だ、耳を貸すな」と言いくるめようとしたのでしょう。聖霊はパウロを通して、この魔術師の本心をズバリと言い当てたのですね。「お前こそあらゆる偽りとあらゆる悪事に満ちているではないか」と。主のまっすぐな道を自分のトリックや嘘で誤魔化して曲げて伝えているではないか。そう核心を突くのです。魔術師の本心を突きつけるのです。それで

「しばらくの間」

目が見えなくなって、惨めな思い、自分の無力な真実を味わわせて、考えなおさせるのです。パウロが怒りに任せて口汚く罵ったのではなく、聖霊がパウロを通して彼の真実をさらけ出した台詞です。売り言葉に買い言葉ではなくて、まだ誤魔化して生きようとしている魔術師への荒療治であり、ちゃんと彼の問題を見ておられる方の言葉なのです。

 これはパウロの伝道旅行でも極めて稀な出来事です。私たちが怒りや憶測で人を悪人呼ばわりしてよい訳ではありません。でも聖霊に導かれるとは、決して善い人になる事でもありません。人の心を見ている、まっすぐなお方に導かれて、悪意に対して強い態度を取ることもあるのです。善い人になろうとするよりも、真実でありましょう。主は人の心をご存じです。この魔術師のような悪意もご存じです。そして他の人や私たちの心にあるあらゆる思いもご存じの上で、簡単にダメだ、悪い思いだ、と叱り飛ばしはなさらない方です。事実、このパウロ自身、かつては主の道に反対していた人です。かつての彼は、恐れ多い神を、十字架に架かって死んだナザレのイエスと等しく考えるなんてけしからん、滅ぼしてやると迫害に燃えていました。しかし、神は人を罰して冷たく滅ぼすような方ではありませんでした。十字架のイエスこそ、神が遣わされた救い主でした。真っ直ぐな救いでした。その間違いから回心するため、目を打たれた経験がある人です。でもそれは彼の心の目が開かれて、主を信じるためでした。

 聖霊は人の心もご存じで、厳しく荒っぽい事もなし得るお方です。しかし、その方があえて非常手段よりも、私たちとともにおられて、見えない形で導いて、宣教のご計画を果たされていくのです。成果が現れなくても、それは主が無力だとか自分が召されていないとか何かがダメだからではありません。この驚嘆すべき出来事も踏まえつつ、あえて主がパウロたちを長い旅路に送り出され、回りくどい歩みを通して、救いをピシディアのアンティオキア、更に遠くマケドニアまで届けられていくのです。そして、そこに私たち自身の歩みを重ねて、励ましや慰めを戴き、私たちが神によって召された働きを果たさせていただきたいと願います。

「主よ、あなたが召された働きは人の思いとは異なるものですが、あなたは真っ直ぐな命のご計画を持っておられます。人の嘘や悪意よりもあなたは強く、私たちを召してそのご計画を果たされます。上辺の力を求めがちな私たちですが、主よ、どうぞこの心をあなたが照らして、恵みで満たしてください。怒りや対決も恐れず、それを通してもあなたが崇められますように」

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