聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/3/15 マタイ伝6章9~12節「お赦しください」

2020-03-14 17:10:54 | マタイの福音書講解
2020/3/15 マタイ伝6章9~12節「お赦しください」

 「主の祈り」の第五の祈り、
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します」
に聴いていきましょう。これは文語文では
「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」
です。見比べて、大きな変更が二つあります。主の祈りの中で最も大きな違いかもしれません。一つ目は「罪」「負い目」の言葉の違い。もう一つは文全体の違いで、順番が逆です。現代文なら
「私たちが私たちに負い目のある人たちを赦すように、私たちの負い目をお赦しください」
なのか、
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します」
なのか。原文では最初に
「お赦しください」
です。イエスが教えてくださった「主の祈り」の言い回しは「お赦しください」なのです。
 私たちはイエスから「お赦しください」と祈る「主の祈り」を与えられています。その後に「私たちも赦します」という言葉も教えられています。また、続く14節15節でも、私たちが赦すことと、天の父が私たちを赦してくださることとが切り離せないのだと、重ねて強調もされます。ですから、私たちが赦さなくていい、ということではありません。けれども、決して、私たちが人を赦すから私たちも神に赦してもらえる、私たちが人を赦さなければ神も赦してはくださらない、という事ではないのです。これは、文語文でずっと祈ってきていると、交互に変わったとしても無意識のまま、そのように思い込んでしまっている誤解かもしれません。この祈りが教えるのは、「赦せば赦される」のような道徳ではありません。その反対です。赦しとは天の父からの贈り物に他なりません。いきなり「お赦しください」と願うだなんて、調子の良い、図々しい、立つ瀬のないような願いです。でもそんな祈りが「主の祈り」なのです。他にあれこれ思いつく願いもあるのに、何よりも「お赦し下さい」と願わなければならない私たちが、「お赦しください」と祈る。そんな図々しい祈りをイエスは下さったのです。
 マタイは「罪」を
「負い目」
と言っています。負債、借金です[1]。「罪」を「負い目」と言われても私たちにはピンと来ないかもしれません。でも少し心の内を探れば、負い目とか借りとか後ろめたさとか、申し訳ない気持ちを隠していることがないでしょうか。あるいは、人からされたことに対する貸しとか恨みとか、解決できていない「負債」が今の生活で心を開けない壁になっているかもしれません。そう考えると、罪とは、神に対する私たちの「負債」だ、というのも少し分かるのではないでしょうか。単に、悪いこと、邪な行動という以上に、私たちと神との間にある柵(しがらみ)とも言えます。返さなければならないのに返せていない、返しようのない負債がある。それをイエスは
「お赦しください」
と祈れ、神が待っている祈りは「負債をお赦しください」との祈りだ、というのです。そして、私たちも、自分に負債のある人、「貸しのある」人、解決できていない問題がある人のことも、
「私たちも赦します」
というようにとイエスは導かれるのです。神との間にも私たちの間にも、返しきれない負い目がある中で、それを解消し、関係を修復する赦しの贈り物が差し出されるのです。
 赦しは神からの贈り物です。私たちは自分の愛情や決意だけでは到底赦せないような問題と紙一重に生きています。そういう意味でも、私たちが赦せば神も赦してくださる、という順番はナンセンスです。「赦してやった」という思いでは、その赦し自体が、相手に対する「貸し」になっていることでしかありません。それでは、負債の赦しとは違いますね。天の父は「赦し」という貸しを負わせて、私たちは「赦された」という負い目を抱えて生きていく、のではないのです。もう負い目はなくなった、一切の支払は済んだ、それが「赦し」です。何しろ、ここでも神は天の父です。14節15節でも
「あなたがたの天の父」
という家族関係は、私たちが赦そうと赦すまいと変わらない土台です。赦したから天の父になるのでもなく、赦さなかったら天の父を止めるとも脅さず、変わらない。神は、私たちに返しきれない負債があっても、その私たちを子どもとしたい、どんなわだかまりや柵があろうとも、それを必ず解決して、神の子として成長してほしいと願い、そうして下さるお方です。その、私たちの問題を周知の上で、私たちを愛し、尊ぶ神の愛。それは、私たちの罪によって冷めることは決してないのです。
 それは、神が罪に平気だ、ということではありません。「赦し」とは、罪を不問にすることではありません。私たちは
「負い目をお赦しください」
と祈れる不思議に驚きながら、この祈りを祈ります。そして、この祈りを授けてくださったイエスが、この赦しと神との親子関係を与えるために、この世界に来て下さり、私たちのためにどれほどの犠牲を払って下さったかに驚くのです。イエスはその最初から、
「ご自分の民をその罪からお救いになる」
ために生まれると預言されていました[2]。イエスの生涯は、私たちに赦しを与えるためでした。マタイの福音書ではこの「赦す」という言葉が50回、福音書では一番多く繰り返されています。その一番初めは3章15節、イエスの最初のひと言からして「赦し」でした。それは
「そうさせてほしい」
と訳されています。「赦す」とは「そうさせる、放っておく、置いておく、後にする」という意味合いなのです。負債をそこにおいて置く。過去の負い目をそこに残して、今日を生き、明日を迎えていく。そういう赦しです。ですから、赦しとは「なかったことにする」とか「大したことはないと思う」「水に流す」とは違います。腹が立ち、悲しく、確かに人生に何らかの影響をもたらした事、あったことは動かせない借金です。しかし、神はその負い目を肩代わりして、そこから関係を修復して、まっさらな関係を始めてくださるのです。罪の負い目を背負い続けよと仰るのではなく、それをそこに置いて、そこから何度でも新しく、一緒に歩み出して下さる。そこには、罪を肩代わりするイエスの測り知れない痛みがありました。
 ここから、私たちの赦しに光を当てましょう。
 まず、私たちが心から人を赦すことは、命じられて出来ることではありません。少なくとも、簡単には赦せない痛みが、世界にも家庭にも深い傷跡を残しています。それは確かに罪として責められるべきものです。その深い傷が、十分見つめられて、十分嘆かれて、赦しによらずには癒やせない、ひどい痛みであることが分かち合われる必要があります。イエスはそれなしに「赦せ」と仰ったのではありません。むしろ、人が黙認して諦めていた罪をイエスは遠慮なく責めたお方です。それは「お赦し下さい」としか祈れない「負い目」であって、「大した問題ではない」と片付けることではありません[3]。
 また、私たちが「赦される」ことと「赦す」ことは深く繋がっています。自分が赦されていることを知る時に、人をも赦すことが始まります。自分も人も同じような不完全な人間だ、赦しを必要とする人間だ、そう思うことが心からの赦しになります。ヘンリ・J・M・ナウエンは
「私たちは、お互いが神ではないことを許し合うことが出来るでしょう」
と言います[4]。
 また、天の父は人の罪よりも強い方です。
「御国が来ますように」
と祈った通り、神は王であり、深い恵みに満ちた御心を行われ、罪からの救いを下さる方です。罪がもたらした破綻や痛みを通しても、人の心の奥に触れながら、新しい恵みの業を創り出されます。人は、罪で壊したことは戻せず、後悔しか抱けなくても、造り主である神は、すべてを働かせて益となさる神です。その摂理を仰ぐことも、私たちが人を赦せる上で欠かせないことでしょう。[5]
 赦しと和解は最も素晴らしい恵み、最も心打たれる出来事です[6]。赦せない出来事や修復しがたい関係を取り扱う実話や映画や良書は、深い涙が溢れます[7]。そうして十分に感情を汲み取ってもらうことは大事なプロセスです。そして、神は本当の赦しと和解を創り出してくださいます。お赦しくださいという祈れる憐れみを噛みしめましょう[8]。そして私たちもお互いに、その赦しを見えなく阻んでしまうような言い方を一切捨てて、お互いに赦された者、赦す途上にある者として語り合い、「私たちの負い目をお赦し下さい」とともに祈っていきたいのです[9]。

「天にいます私たちの父。赦しを求める資格などない私たちを、あなたは赦す価値があると見て下さり、主イエスを遣わされました[10]。あなたの赦しは、復讐や罰よりも遥かに力強く、喜ばしい恵みの力です。どうぞ、あなたの赦しによって、冷たい罪が責められ、罪の生き方を悔い改めさせて癒やしてください。教会を、本当に必要な和解の場、慰めの場としてください」


[1] 罪を「負債」と表現するのは、新約聖書ではここ以外にない珍しい表現です。しかし、レビ記25章の「ヨベルの年」は、「負債の免除」の年であり、イスラエルの生活が、負債を重ねること、それを返せないことも十分想定できるとした上で、50年ごとにはその負債が免除されることにより、神が示された歴史が、安息(シャローム=負債の免除)へと向かう未来志向のものであることを示しています。負債の免除こそは、聖書の福音のイメージです。
[2] マタイ1章21節。
[3] 「赦すことへの憂鬱や絶望、恐れ、不安、嘆き、悲しみ、怒り、苦悩、狼狽、疑い、批判や拒絶を体験しながら、辛抱を繰り返して進んで行く以外に豊かな人生を生きる方法はない。こうした感情の揺れ動かない人生は自分にとって無益なだけでなく、他人にも無益である。我々は進んで苦痛を受けなくては、いやされない。」(マイケル・スコット・ペック) ヨハン・クリストファー・アーノルド『憎み続ける苦しみから人生を取り戻した人々の物語』(いのちのことば社、2002年)、100頁より。
[4] ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン 明日の糧』(女子パウロ会、2001年)、56頁。この日課の1月24日以降29日までは、「許し」を扱っています。すばらしい洞察に満ちた短い霊想です。お勧めします。
[5] この言葉もまた、驚きであり、不可解である。ただ、イエスの十字架により、私たちは神の大きな赦しを知り、その赦しが注がれて、私たちも赦され、赦すようになるに他ならない。この世界にある、途方もない、癒やしようがあるとは思えない破綻をも、神が癒やし、さばき、和解させて下さる。万事を益と変えてくださる。神に背を向けた結果の人の罪や後悔をも、神の憐れみを縋り、赦されて、神の国が完成する道としてくださる。人の考える「因果応報」ではなく、神の恵みによる「摂理」があると信じるのである。それゆえに、私たちは、嘆きを注ぎ出しながら、赦しの道を歩めるのである。
[6] 豊田信行『父となる旅路 聖書の失敗例に学ぶ子育て』(いのちのことば社、2016年)、197頁以下の「第五章 ヨセフの生涯 神の摂理と赦し」を特に参照。聖書全体が、赦し・回復の物語。それを信頼するときに、私たちも、神が下さる完全な和解を待ち望む。自分の中から、感情を抑えつけて赦す、のではない。感情を十分に受け取って下さる神に注ぎ出しつつ、心から赦させてくださる神に、自分の癒やしも悪へのさばきも、委ね、赦し以上の愛を求める。
[7] 加害者が心から悔い改めて、「悪かった。赦して欲しい」と言うようになること。それは到底期待できない事だが、神はそのような思いへと導かれる。
[8] 教会の中にも、身の回りや家族にも、赦されなければならない負い目があることを、それ自体とやかく言ったり、責めたりしてはならない。それは、赦されるのだと、回復を神が下さるのだと、語ってこそ。過去をほじくり返したり、批判したりは、主の祈りを妨げる。そのようにした時はどうすればいいか。赦して下さい、と祈るのだ。自分こそ、赦されなければならない負い目がある事を深く心に刻んで、主に憐れみを乞うのだ。
[9] 赦しは、祈りの中でなされること。祈りという神の関係なしには、自分の中からは出て来ないこと。創造主なる神が、壊れた関係を壊れたままにはなさらず、新しい思い、新しい関係を創造してくださる業である。弱々しい臆病や優柔不断からの裁きを放棄するのではなく、神の力強く真実で創造的な業に支配して戴くこと。悪の支配を終わらせ、神の支配を迎え入れること。
[10] 私たちに、赦される資格があるのではない。しかし、神は私たちを「赦す価値がある」と見て下さる。弟息子は「もうあなたの子と呼ばれる資格はありません」と言おうとした(しかし、それは食べ物を恵まれるための口実だったのかもしれない)。しかし、父は弟息子を「赦す価値があるわが息子」と見た。父の中に、そのように見たい愛、見ずにはおれない憐れみがあることが肝心だった。
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2020/3/1 Ⅰペテロ1:3-9「悲しまなければならないのですが」新型コロナ危機の中で

2020-03-01 16:19:58 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/3/1 Ⅰペテロ1:3-9「悲しまなければならないのですが」新型コロナ危機の中で

 今日、集まれる人は会堂に集まり、マスクを着用して離れて座りながら礼拝をし、終わったら解散の形を取りました。感染者の多い所では、集まる礼拝を取りやめた教会も多くあります。見える形で集まることは大きな恵みですが、絶対的な義務ではありません。「神様第一」と「会堂での礼拝」とはイコールではありません。集まれざるを得なくても、私たちは一つ礼拝の民です。抑も教会は世界中に散らされ、この世界の隅々で礼拝を捧げている「地の塩」です。
 韓国では「教会で感染拡大した」と報道されました。正式には「新天地」というカルト団体で「私たちの教会に来れば癒やされる」とか無謀な発言をする団体です。ホントの教会こそ「自分の教会に来れば安全」とは言いません。「私だけは特別」という特権意識からイエスは救ってくれます。「イエスを信じれば病気にもかからない」と保証はしません。私たちは人として謙虚に、自分が出来る対処をし、柔軟な姿勢で危機に対応していきます。今もその時です。
1:6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、…
 先週読んだ第一ペテロの言葉です。この言葉を思い巡らしています。私たちの生活にある多くの「当たり前」は、何かあれば失われるものです。しかし、それは「悲しみ」だとも言われます。「どうせ失うのだから、悲しむな。永遠の救いを喜んでいよ」とは言いません。悲しまなければならない事があるときには十分に悲しみつつ、しかし、それによって、決して失われることのない恵みをますます確かめて、喜びながら進んで行くのです。
 これから教会や世界がどう変わっていくのか分かりません。コロナウィルスも過ぎ去って、「あんなこともあったね」と笑い話に出来るぐらいになるのかもしれません。この出来事で、世界も経済も社会も大きく変わって、これまでの生活のほうが「あんな時代もあったね」と遠い過去になるのかもしれません。思い出してください、聖書の物語も、舞台は激変しました。
エデンの園の時代
族長時代
エジプトの奴隷時代

荒野の放浪
ダビデ王朝


ざっくり見るだけでも、これだけ大きく変わりました。

 旧約と新約でも、イスラエル王国の歴史から、ローマ帝国の属国となっての歴史は、大きな変化です。



 予想の出来ない変化を、神の民は経てきました。

 教会の時代もそうです。迫害の時代、
ローマの国教となり教会が生活の中心になった中世
そして、世界宣教に励む近代、現代。


私たちには想像を絶する変化です。

 宗教改革の前には、ヨーロッパをペストという病気が襲った時がありました。ペストのため、ヨーロッパの人口は、4分の1か、3分の1が亡くなったと言います。教会は沢山の人を埋葬し、大きく変化したでしょう。

 そういう試練をくぐり抜けて、教会は歩んできました。
 迫害されて建物が崩れたり、難民となって散ったり、時には、地下の墓地に集まることもありました。

 ウィルス対策で、私たちはお互いに近寄ることを止めて、会食やお茶やお菓子もお休みします。かつて、教会が迫害されて集まることを禁じられていた時も、お互いに顔や名前を知らせることはせず、ただ集まって、聖書の物語を聞き、ともに祈り、それだけで去って行っていました。しかし、その困難な時期こそ、キリスト者が最も増え、広がっていった時代です。G・K・チェスタトンは
「キリスト教は生き残ってきたのではない。死んでは復活してきたのだ」
と言います[i]。教会は、困難を生き延びたのではなく、何度もそれまでの形を壊されてきました。そして、その度に復活し、新しい形で集まり、パンを分け合い、主を証ししてきたのです。

 今回の出来事がどんな変化になるか分かりません。精一杯の予防や対策を取りながら、私たちにはどうにも出来ない大きな変化がありうる現実に、柔軟になりましょう。悲しまなければならない変化をともに悲しみながら、どんな「変化」も「終わり」ではなく、神はともにいて、全く新しい次の時代が始まって行くのかも知れません。その変化の時、私たちを支えるのは、他でもない、変化の中でも変わらずともにおられる神の言葉です。御言葉が私たちを慰め、養います。聖書の物語の一つ一つ、また、それぞれの書や、旧約全体、新約全体、そして聖書全体の物語を心に刻むことです。今日はその一つ、イエスの病人の癒やしを心に留めましょう。

 イエスは、多くの病気を癒やされました。時にイエスは、遠くにいた病人や亡くなった子どもを癒やしました。お言葉一つでたちまち人を癒やす権威を持っていました。それなのに、イエスの癒やしの圧倒的に多くは、病人に触れ、その手を取って一緒に歩いたりしての癒やしでした。「触ったら汚れる」と忌み嫌われていた人たちをも、イエスは近寄って、触ったり抱きしめたりしました。すると、イエスに汚れが感染するのではなく、イエスのいのちが病人たちに感染して、汚れを清めたのです。触れる必要がないのにイエスは触れました。触れることも忌み嫌われた人たちにとって、どれほど嬉しい温かさだったでしょう。私たちはイエスと違い、不完全です。人を癒やすような聖さや、ウィルスに負けない免疫力はありません。ですから、マスクをしたり防護服を着たり消毒をする必要があります。しかしその、面倒くさい手間をも厭わずに、出来る形で人に触れ、助けようとする。それが愛です。イエスもそうでした。ただ触れるために、神としての栄光を捨てて、人間の体を取られました。それは無限の謙りでした。その深い憐れみで、私たちは触れられたのです。そうして私たちも人に、精一杯手を差し延べるとき、病を直接癒やせなくても、人の心を繫ぎ、癒やす、良い感染が出来るのです。
 まだコロナウィルスについては不明な点ばかりだそうです。精一杯予防をしますが、もしかしたら感染するかもしれず、もう感染しているかも知れず、そして、誰かに感染させているかも知れない。「自分一人の事」と済ませられない、大きな影響力を与え合っている。私はこの事を、不思議だなぁ、凄いなぁと感動さえ覚えます。コロナウィルスに限らず、私たちはいつも、何か影響を与え、感染し合っています。実際、私たちが「病気が怖い、不安だ、感染されたくない」と思っていること自体が、お互いに、疑いや不安やよそよそしさを感染し合っています。それは、致死率2%と言われる肺炎ウィルスよりも遥かに強力で、致命的な影響です。


 時には実際に、マスクや食糧を奪い合い、血を流し、それを見るすべての人の心を殺伐とした気持ちにさせます。トイレットペーパーやティッシュが足りなくなるとデマを流した人がいて、お店のペーパーが空になりました。今度はそのデマを流した人が特定されて、ネットに情報が流れ、袋だたきにされる。悪い感染の広がりです。逆にこうした中でも、普段でも、私たちがお互いを喜び、大事にし、笑顔を向けたり、優しい言葉をかけたりしたら、それもまた、お互いによい感染をしていくのです。不安な思いを分かち合いながら、「恐れなくて良い。悲しんで良い。神がともにいてくださる」と寄りそう、良い感染も出来るのです。
 今、中国人だ、韓国人だ、アジア人だ、あの舟に乗っていた人だ、と何かと差別されることが起きています。誰かを「ばい菌扱い」するようなことは決してしない。そういう行動を取ることも、よい感染になります。それは、病気だけでなく、どんな時もです。世界が大きく変わるとしても、私たちが互いに愛し合うこと、支え合うこと、良い感染を与え合う大切さは変わりません。
Ⅰペテロ4:7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。9不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。10それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
 「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい」。どの人にも「自分だったら」という思いで接して、お互いをかけがえのない存在、繋がっている人と見ていきましょう。その時私たちの感染対策や人生は愛(おもいやり)によって強められます。自分の免疫力も高められますし、互いに良い感染をすることができます。そうしてこの事を通しても、主の業が現されますように。私たちが変えられ、愛し合うようになる主の業が、現されますように。主の憐れみを祈りましょう。

「すべての主よ。あなたは、私たちを愛し、癒やし、互いに影響を与え合う、かけがえのない存在とされました。どうか、今、新しい病気を前に、戸惑い不安を覚えている私たちを憐れみ、謙虚な心で、お互いへの思いやりと望みをもっていけるよう、整え、支えてください。」

  • 新型コロナウィルスの対応のため。これ以上の感染が広まらないように。
  • 罹患した方の回復、亡くなった方々のご遺族、医療従事者、子どもたちや家庭、困難と不安の中にいる方々のために。
  • 心ない差別や偏見、疑心暗鬼で行動せず、主の愛に根ざした発言・行動が取れるように
  • 政府・指導者たちがよい判断を出来るように
  • どんな時も主がともにいて、私たちを強め、新しくしてくださるように。
[i] G・K・チェスタトン『人間と永遠』(別宮貞則訳、春秋社)、398頁
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