聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/7/18 マタイ伝22章15~22節「神に返す 神に帰す」

2021-07-16 16:02:21 | マタイの福音書講解
2021/7/18 マタイ伝22章15~22節「神に返す 神に帰す」

 19節の「デナリ銀貨」は礼拝の最初にお見せしたとおり、小さな銀貨に皇帝(カエサル)ティベリウスの肖像があり、その回りに「ティベリウス・カエサル 神君アウグストゥスの息子にして皇帝」という銘が刻まれていました[1]。

 当時、ローマ帝国の属州だったユダヤでもこの銀貨が使われ、一人一デナリ(1日分の労賃)を毎年ローマに納める決まりになっていました。ローマの属国となって支配に屈して、税金を納めなければならない。この屈辱にユダヤ人には耐えかねていました。15節の「パリサイ人」は納税には批判的で、取税人を強く軽蔑していました。一方16節の「ヘロデ党」はローマ政権で権力を与えられているヘロデ家を応援する立場です。彼らはローマへの納税を受け入れています。そのヘロデ党と、パリサイ人、政治的には反対の立場の両者が結託して、イエスに質問しています。それは、この税金という微妙な難問をイエスにふっかけて、言質を取ろう。納税に賛成なら民衆の反感を煽り、反対と言えばヘロデ党が反乱罪で訴える。そういう
「言葉の罠にかけよう」
としたのです[2]。これに対して、イエスは、
18…彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。…
という問いで答えられます[3]。その後、税として納めるデナリ銀貨を持ってこさせ、有名な、
21…「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」
を仰います。イエスが皇帝やローマについて直接語ったのはここだけです[4]。ここでも税金をローマに納めるべきかどうか、自分を「神の子」だなどと思い上がるカエサルに税金を納めるべきかどうか、という二者択一の質問にイエスは答えていません。この銀貨を納めるべきかどうか以前に、その皇帝の肖像が刻まれた銀貨で自分たちが生活している。給料のやりとりも、買い物も、経済や社会が回って、その上に自分が生きている。あんな政府に税金なんか取られたくない、と言いつつ、自分の生活を成り立たせているお金にはシッカリ政府の名前が書かれている。その笑ってしまうような矛盾を、イエスは銀貨を出させて気づかせるのですね。[5]
 そこから更に踏み込んでイエスは言われます。
「神のものは神に返しなさい」
と。神のものとは何でしょう。これは、この世界のすべては神がお造りになったものですから、すべてが神のものでもあります[6]。しかし私たちがまず
「返す」
のは私たち自身です。デナリ銀貨にはカエサルの肖像と銘が刻まれていました。この「肖像(かたち)」という言葉は[7]、創世記1章26節で神が人間を「神のかたちに造ろう」と言われたのを思い出させます[8]。銀貨を持って「税金は神の律法に叶っているかどうか」と論じている、その銀貨がカエサルのものでしたが、それを持っている手も体も、口も、自分のものではなく神のものなのです。人間は、神の肖像が刻まれ、神の言葉という銘が刻まれたものです。私たちは神の尊い価値を刻まれて、神の栄光を現すために生かされています。ただ「税」を納めるように神に献金や奉仕で「お返し」をする以上のことです[9]。
 この「返す」は「本来相手のものであるものを戻す」という事です[10]。日本語の「返す」には「私が返す」という意味合いが強く、「帰す」は「本来の場所へ戻らせる」。こちらの方がいいかも知れません[11]。人は、神のものとして、神に自分を帰しながら生きる。その時、悪意で人を罠に掛けよう、事実をねじ曲げることは到底できないはずです[12]。
 この言葉に教会は従って、イエスこそ王という告白に立ちました。「反ローマ」よりも「イエスこそ王」という告白を鮮明にしたのです。それはローマが皇帝崇拝に強めていった時、教会を脅威と感じることに繋がりました。もし皇帝や国や支配者がその分を越えて礼拝や服従を求めたり、人の命や自由を脅かしたりするなら、それまで従う必要はありません[13]。イエスが、
「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」[14]
と仰った通りです。しかしその「滅ぼせる」神が、人間の王と違い、奉仕や服従を強いるどころか、私たちを救うため、ひとり子イエス・キリストを送り、魂も体も十字架に献げてくださった。そして甦って、私たちが喜びをもって、この方のものとして生きるようにしてくださる。この事実を、ねじ曲げることの出来ない事実として告白しながら生きるのです。今なお、です。

 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」。
 この大原則を具体的な個々の状況にどう適用すれば良いかは、いつも簡単に答えが出るわけではありません。誰に投票するか、環境と経済の両立、賛成できない法案にどう抵抗するか、オリンピックのナショナリズムや拝金主義と、ワクワクする事実…。判断に迷い、難しくして試してくるのがこの世界です。「~すべきか、すべきでないか」で悩んだり、対立したりする私たちに、王であるイエスは近づいてくださいます。憎まれながら税金を求めるカエサルと違って、このイエスは私たちに向き合い、私たちの生活のただ中に来られて、驚くべき言葉で私たちに語りかけてくださいます。
 「あなたこそ神です、私たちはあなたのものです」
と告白させてくださる。ここに立てることは本当に幸いです。信仰の自由や迫害で大変な思いをしたキリスト者たちはこの「キリストこそ私たちの唯一の主」という告白に立ち、爽やかな、吹っ切れたような姿が共通しています。私たちもそこに立てるのです。迷いの中、神のものを神に帰する。ポケットの中身から、心の思いも、口にする言葉も、この方に帰して生きる[15]。そして、わざわざ難しい問題を突きつけられた時には、堂々と悩みながら、悪意や嘘を捨てて、大胆に決断することが出来る。そうさせてくださるイエスこそ私たちの王です。

「世界の王なる神よ、あなたこそすべての主です。私たちも万物も、あなたのものです。すべての栄光をあなたに帰しつつ、真実を曲げることなく、あなたこそ主であると証しさせてください。あなたのものを奪おうとしたり、人の尊さや自由や命を奪おうとする者には、あなたを恐れて立ち向かわせてください。私たち自身もあなたにすべてを帰することを忘れる時、どうか恵みにより、その危うさに気づかせ、あなたのものである幸いに立ち戻らせてください」



脚注:

[2] 律法にかなっている(欄外:よろしい)エクセスティンは、マタイにおいて、イエスが問われるよりも、イエスの敵たちがイエスに問いかける時に用いられます。個々の行動を「どうすべきか」は、イエスではなく、イエスが立ち向かった相手の発想です。イエスは、その「べき」よりも大きな人の生き方、神の国のあり方を教えて、「べき」から人を解放してくださったのです。 12:2(するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」)、4(どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。)、10(すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。)、12(人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」)、14:4(ヨハネが彼に、「あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない」と言い続けたからであった。)、19:3(パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」)、20:15(自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか[エクセスティンの否定疑問]。それとも、私が気前がいいので、あなたは妬んでいるのですか。』)、22:17、27:6(祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」)

[3] イエスがまず問われたのは「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち」という問いであった事自体、イエスがこの難問の表面に捕らわれず、彼らの心の思いを問題とされたこと、イエスの視点が抽象論ではなく、人格にあったことを示しています。

[4] ローマ帝国との関係はとても現実的で、簡単には答の出ない問題でした。民衆はローマから解放をしてくれる救い主を期待していました。人々が待ち望んでいた「救い主」は、神の国に迎え入れてくれる存在であると同時に、憎いローマを滅ぼしてくれる軍事的な英雄でした。だからイエスに向けられた期待も、力尽くでローマ軍を蹴散らしてくれるという期待だったのです。しかし、そのような「敵」への攻撃以上に、イエスは「王はだれか」を語り、その王の「御国」がどのようなものかを描き出しました。イエスが、ローマへの糾弾に乗らなかったことは、民衆の失望を招きました。ある意味ではイエスは「カエサル」について(ここ以外)語らなかったからこそ、十字架につけられた、とも言えるのです。

[5] 国家との関係についての聖句は、一方的に批判でもなく、むしろ、その役割を認めています。エレミヤ書29:7(わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』)、Ⅰテモテ2:1(そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。)、ローマ書13:7(すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。)、など。ウェストミンスター信仰告白は「第23章 国家的為政者について」第一節で、「全世界の至上の主また王である神は、ご自身の栄光と公共の益のため、神の支配のもと、民の上にあるように、国家的為政者を任命された。そしてこの目的のために、剣の権能をもって彼らを武装させて、善を行なう者を擁護奨励し、また悪を行なう者に罰を与えさせておられる。」と述べています。リンクから、第二節以下もご参照ください。http://www.rcj-net.org/resources/WCF/text/wcf23.htm

[6] Ⅰ歴代誌29:11「主よ、偉大さ、力、輝き、栄光、威厳は、あなたのものです。天にあるものも地にあるものもすべて。主よ、王国もあなたのものです。あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあがめられるべき方です。…16 私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために宮を建てようと私たちが準備したこの多くのものすべては、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。」、詩篇24篇1節「地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの」、104:24「主よ あなたのみわざはなんと多いことでしょう。 あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。 地は あなたのもので満ちています。」、119:94「私はあなたのもの。どうか私をお救いください。 私はあなたの戒めを求めています」。コリント人への手紙第一10:26「地とそこに満ちているものは、主のものだからです。」など。

[7] 肖像エイコーンと銘エピグラフェー エイコーンは福音書ではこの並行記事。パウロ書簡ではキリストを現す。ローマ1:23、Ⅱコリント3:18。

[8] 創世記1:26「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」

[9] 神は私たちに「お返し」を求めてはおられませんし、神に「お返し」などは不可能です。日本語で「感謝」は「お礼をする」という「お返し」文化の中で捉えられがちですが、聖書の神との関係は、「お返し」など出来ないものですし、「感謝」も、「有り難いと思う思い」であって、「お返しをして礼儀を果たす」という意味ではありません。

[10] 「返すアポディドーミ」は、「本来、相手のものであるものを渡す」の意。マタイでは、5:26(まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから出ることはできません。)、33(また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。)、6:4(あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。)、6(あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。)、18(それは断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。)、12:36(わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをし[説明を与え]なければなりません。)、16:27(人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。)、18:25-26(彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。26それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。)、28(ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。30しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。)、34(こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。)、20:8(夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』)、21:41(彼らはイエスに言った。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。」)、22:21、27:58(この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。)

[11] 例えば、マタイ25:27(それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してコミゾーもらえたのに)、27:3(そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返してストレフォー言った。)は、それぞれ、戻す、方向転換する、などの意味が違います。ちなみに、漢字の成り立ちも意味深長です。「「帰る(帰す)」の「帰」という字は、「肉」と「ほうき」の象形から成っており、「人が無事にかえったとき、清潔な場所で神に感謝をささげる」ことを意味しています。」Web記事「「帰る(帰す)」「返る(返す)」「還る(還す)」の意味と違い」https://business-textbooks.com/kaeru-kaesu-difference/

[12] パリサイ人もヘロデ党も、どちらが正しい、とは言わず、イエスは彼らの悪意、人を試す偽善を問われます。そして彼らは、イエスを試すつもりが、逆に自分の生き方を問われ、自分が神のものを神に返しているか、自分を神に帰しながら生きているか、と問われて、驚嘆してしまうのです。彼らは、ここでイエスの元に留まらず、「イエスを残して立ち去った」と結ばれています。彼らは立ち去るべきではなく、留まるべきだった、とも言えますが、パリサイ人やヘロデ党から遣わされた「弟子」である彼らが、自分に命じられた「イエスをことばの罠にかける」という使命を投げ出して、「立ち去った」とすれば、イエスによって彼らの生き方は大きく影響された、とも言えましょう。

[13] 「…キリスト教信仰とは単に個人の救いや聖性に関するものではなく、必ず「公共性」をも含んでいる…。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」という、旧約聖書のミカ書6章8節の正義に関する記述は、その最もよい例証と言える。 「正義を行う」、これは間違いなく、キリスト教信仰の核心的信念である。私は正義に関する聖書の理解を整理し、「正義を行う」とは、寡婦・孤児・寄留者・貧しき者、またその他の社会的弱者が圧迫を受けないように保障し、彼らが人間らしい尊厳ある保護を受けられるようにすることである、と指摘した。 しかし、「正義を行う」とは言っても、それらの圧迫を受けている人々のために正義の手を差し伸べたり、公平な待遇を勝ち取ったりするために立ち上がるだけでは、不十分な場合がある。というのも、不正義は制度的な問題でもあり得るからだ。制度的な不正義に直面する場合、「正義を行う」ためには、時には行動によって現在の不正義な法律を変える必要があり、あるいは憲法・政治・法律を再設計・再構築しなければならない場合がある。 「正義」こそが、キリスト教信仰と法律を結びつける架け橋なのだ。」『香港の民主化と信教の自由』(キリスト新聞社、2020年)、119頁。

[14] マタイの福音書10:28。2021年にも禁固刑に処された黄之鋒氏が、2017年に収監された祭、母親が彼に送った公開メッセージにこの箇所が引用されています。「愛する息子よ、聖書の言葉をよく覚えておきなさい。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(新約聖書・マタイによる福音書10・28)。信念をしっかりと持ち続け、持っている価値観を大事にしなさい。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(新約聖書・マタイによる福音書5・6)、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(新約聖書・ローマの信徒への手紙12・12)という聖書の教えに従い続け、活きた命の証しを立てなさい。試練を通して、あなたの命がより強くなり、人間性の美しさと神様の愛と正義とをよりよく現すことができるようになることを願っているわ。(以下略)」、前掲書、190頁。

[15] 全体主義社会は、体制を掌握した後に、徐々に人々の心までも変えようとする。香港教会は、未だ社会の制度に対して大きな変革をもたらすことができていないかもしれないが、少なくとも、自分自身が同化させられたり、無理矢理に変えさせられたりしなければ、なおそこには希望がある。チェコの元大統領ヴァーツラフ・ハヴェルは、全体主義に抵抗する道は日常生活において「真実の生」を生きることであり、「嘘の生」を拒絶することである、と主張していた。これは一種の倫理的行為であり、毎日の生活をより自由に、より真実に、そしてより尊厳あるものにするために、戦うことである。これこそが、彼が主張する「力なき者の力」の意味なのだ。」前掲書、108頁。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/7/11 マタイ伝22章1~14節「準備は出来ています」

2021-07-10 15:36:26 | マタイの福音書講解
2021/7/11 マタイ伝22章1~14節「準備は出来ています」

 前回21章28~32節「ぶどう園に行くよう言われた兄と弟の譬え」を見ました。次の33~46節の「ぶどう園の悪い農夫」は飛ばして、22章「王子の婚宴に招く王の譬え」に急ぎます。しかし21章23節以降ずっと、語っている相手は、「祭司長や長老たち」、当時の宗教界の権威たちです。自分たちの地位を誇る特権階級です。この譬えで、最初に出てくる人々、以前から招待されていたのに、呼ばれても雑用のために、来ようとしなかった人々です[1]。そこで王は、
4…『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』5ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、6残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。[2]

 これが、ここで直接語りかけられている「彼ら」、祭司長や長老の姿です。7節の乱暴な対処も、21章41節で祭司長たちが「悪者どもを情け容赦なく滅ぼしたらいい」と言った事を、そのまま突き返した言葉です。ですから、話は先に進みます。8節以下で言います。
 8…『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。9だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』10しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。

 この「大通り」は町の真ん中のメインストリートというよりも、町の境目、他の町々に通じていく大通りです。住民と外国人、商人や難民がゴチャゴチャに旅する街道です。そこで出会った人を皆集めた。良い人も悪い人もで、披露宴客は一杯になったです。先の招待者たちが「ふさわしくなかった」のに、今度は「良い人も悪い人も」はふさわしいのでしょうか。
 しかしこれが鍵です。ふさわしい[3]とは、この王の招待を受け取って、お祝いすることです。王子の結婚披露宴を喜んで、王が自分の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも惜しみなく用意するほどのお祝いに招かれた、その招待を受け取る。良い人も悪い人も、この招待を受けて、披露宴に来ればふさわしいのです。祭司や指導者、地位や仕事や誇りがあって、王のすぐ近くに住んでいても、王の喜びを他人事(ひとごと)としか思わず、行かないならば
「ふさわしくない」
のです。
 気になるのは11節以下の
「婚礼の礼服を着ていない人が一人いた」
という所です。王はこの人を外に放り出させてしまうのです。ここにいる誰もが、大通りで招待を受けた人ですから、礼服なんて持っていなくて当然です。でもこの人以外は礼服を着たのです。それは当時の習慣が、婚礼の礼服をお客たちに用意するのも主人だったからだとも言われます。庶民の結婚式ではそんな用意は出来なくても、王が客や家来、奴隷のためにも、王の前に出るにふさわしい服装を用意した例は聖書に沢山あります[4]。「礼服ぐらい用意しなきゃ」でなく、礼服も用意され、着るだけなのです[5]。それを、この人は着ていませんでした。理由は分かりません。確かなのは、この人は自分が礼服を着ていないことを見咎められるなんて考えなかった事です。婚宴を祝う気持ちがないまま、婚宴の席に着いていた。それは王の招待を踏みにじる事です。
 だから王は言います。
「13この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる[6]」。
 「泣いて歯ぎしり」は悔しさ、自己憐憫や恨みがましさの強い表れです[7]。「王に悪かった。王子の婚礼なのに申し訳なかった」でなく、力一杯悔しがるだけ。それ自体、この人が婚礼の招待を別の意味で踏みにじっていた現れです。「外で泣いて歯ぎしりする。いい気味だ」ではなく、悔しがる反応自体が、この人が、礼服だけでなく王の招待の思いを受け取っていない証し、選ぶにふさわしくない自己証明だと言うことです。

 「天の御国」という将来は、自分たちの楽園、自分の愛する人との再会、とても狭く、独り善がりな心地よい世界で描かれがちです。祭司長たちの頭にも「特権階級」の延長の天国だったでしょうし、私たちもそうした「救い」や「御国」を思い描きやすい。イエスは言われます。
「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王に譬えることが出来ます」
と。王が自らの牛や肥えた家畜を屠り、来る人を皆、永遠にもてなしてくださる祝宴。その用意をすべてご自身が支払ってくださる。礼服も用意してくださる。ただその婚宴は私たちの婚宴ではない。「主役はあなた」でなく、神ご自身です。私たちは礼服を着るのが礼儀ですが、ゲストが白いウェディングドレスを着るのも御法度です。だからといって「人の婚礼なんか出るか」と歯ぎしりするよりも、その喜びに惜しみなく招いてくださる神がいてくださいます。自分たちの幸せな天国ではなく、神が神となられる、永遠の祝宴が将来にある。神がすべてを用意して、私たちを「ともに祝う婚礼の客」として迎えてくださるお祝いに一日一日近づいている。そこに向けて生かされているのです。
 そして、そこに向かう今、主は私たちをも整えてくださっています。自分が特別だと考える思いを脱ぎ捨てて、神の下さる礼服、新しい生き方を受け取らせてくださる。自分の喜びでなければそっぽを向いたり、悔しがったりする心を変えられる。私たちが主役の婚礼ではありませんが、欠かせない来賓として招かれ、心からこの喜びを一緒にお祝いしてほしい、それが唯一の「ふさわしさ」だ。その用意は全部惜しまずにしてあるから、来なさい、と招かれるのです。
 その恵みを私たちが受け取れるように、自分が神でも特別でもなく、皆がこの惜しみない招待に与っているのだと見られるようにも、私たちを整えてくださるのです。

「主よ。神であり王であるあなたの祝宴に、私たちを招いてくださり有り難うございます。私たちがふさわしいからではなく、あなたが全てを準備して、犠牲も厭わずに、相応しさを着せてくださるご招待です。今、地上で味わう喜びやお祝いはすべて将来の栄光の前味です。今ある痛みや悲しみの中で、私たちはあなたの備えを待ち焦がれています。差し出された恵みを着つつ、あなたの喜びを喜び、互いの喜びや思いをともにする者と変えられていけますように」



脚注

[1] 当時の結婚式の習慣では、最初に、結婚の予定を大雑把に告げて招待しておき、式が近づいたらもう一度招待客に案内を出す、というのが流れでした。

[2] この譬えと、21章33~46節の譬えは、構造的に多くのことが似ています。ぶどう園の主人と王、農夫たちと招待客、しもべを遣わし、「別のしもべたちを再び遣わし」たこと、彼らが捕らえられ、酷い目に遭い、殺されてしまうこと、など。その相似関係からも、この譬えが、単体ではなく流れから読まれるべきことが分かります。

[3] 「ふさわしい」アクシオス 原意は「重さがある。重りが釣り合う」の意。マタイでは、3:7~8([洗礼者ヨハネが、大勢のパリサイ人やサドカイ人が洗礼を受けに来るのを見て]まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。8それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。…)、10:10~11([イエスが自ら派遣する弟子たちに]袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。11どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。)、37~38(わたし[イエス]よりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。38自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。)

[4] ヨセフ(創世記41章14節)、ソロモンの家来(Ⅱ歴代誌10章5節)、エステル(エステル記2章3節)。礼服さえ用意されているのに、それでも、興味本位か、ご馳走を食べられたらいい、という思いか、招待を軽んじて、自分のための宴会であるかのように思う。

[5] 今回の箇所も、「日本の現代の結婚式」のしきたりと、当時の結婚の披露宴の違いを混同しないように、自分たちの先入観で、「礼服を着るのは当然」「招待されなくて来るなんてあり得ない」という判断が的外れであることを意識したいと思います。六日前の徳島新聞の記事にありましたが、日本に身近な台湾の結婚式でさえ、呼ばれていない人も当日かなり増えるのは当たり前、予想をつかないのが結婚式、普段着でもOKという文化がユニークに紹介されていました。

[6] 泣いてクラウスモス歯ぎしりブリュグモス・オドゥースする」は、マタイの福音書で六回も繰り返される、御国に入れない者たちの末路です。また、この言い方はそれ以外には出て来ませんから、御国に入れない「罰」というよりも、御国を拒む者たちの「特徴」と読めます。 8:12(しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」)、13:42([不法を行う者たちを]火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。)、50([悪い者どもを]火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。)、22:13、24:51(彼[悪いしもべ]を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与「えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。)、25:30(この役に立たないしもべ[1タラントを地に埋めたしもべ]は外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』

[7] ここでは「歯ぎしりする」を日本語らしく「強い悔しさ」と表現しました。「悔しさ」の感情について「ひとつは取り返しのつかないことで残念に思う「持っていた、または得られたかもしれない可能性を失ってしまった悔しさ」と、もうひとつは相手に辱められたり、無力を思い知らされた「自分の尊厳を傷つけられた悔しさ」です。」という解説がありました。また、英語には「悔しい」に相当する言葉はなく「受け入れたくない」「自分を責めている」が相当する、という解説もあります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/7/11 創世記39-41章「ヨセフ、エジプトへ行く」こども聖書㉒

2021-07-10 12:56:18 | こども聖書
2021/7/11 創世記39-41章「ヨセフ、エジプトへ行く」こども聖書㉒

 先週からヨセフのお話をしています。ヨセフの父はヨセフばかりを可愛がりました。それで十人の兄たちの妬みは燃え上がり、遂にヨセフを捉えて、通りかかった商人たちに売り飛ばしてしまいました。今から四千年近く前の話です。帰って来ることなどまず期待できません。もうヨセフとは、二度と会うことはない、死んだ存在となったのです。
 ところが、そのエジプトで、ヨセフは生きていました。エジプトの高官ポティファルに買われて、彼の家で奴隷として働くことになりました。ヨセフはよく働きました。
 2主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。3彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。4それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。
 神はヨセフとともにいてくださいました。そして、ヨセフの仕事を成功させてくださいました。その家の主人も、ヨセフが優秀だと言うよりも、主なる神がヨセフとともにいてくださるのだなぁと思いました。あの仕事もせずに、長袖の晴れ着を着ていた、お坊ちゃんのヨセフが、遠くのエジプトに行って奴隷として働かされたら、直ぐに倒れてしまうだろうと思ったら、違いました。主は、ヨセフをたくましく助けて、ともにいてくださったのです。ヨセフは、そこでエジプトの言葉を覚え、家を管理する仕事を覚え、エジプト人の主人に信頼され仕事を任されて、たくましく成長していったのです。
 ところが、そのご主人の奥さんが、ヨセフを陥れて、ヨセフは牢屋に入れられてしまいます。ヨセフは悪くないのに、濡れ衣を着せられて、捕らえられ、囚人になってしまいます。奴隷になったのも最悪と思ったのに、囚人になって牢屋に入れられたら、もっと最悪に思ったでしょう。暗く、汚く、恐ろしい場所ではなかったでしょうか。
21しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。22監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
 牢屋でも、主はヨセフとともにおられました。主はヨセフに恵みを施し、助けて、そこにいる他の囚人を助けるようになりました。不思議ですね。主は、ヨセフがどこにいてもともにいてくださって、ヨセフの働きを祝福してくださったのです。神様は、私たちがどこにいてもともにおられます。私たちが行きたくないような所、そんなところにいくなんて最悪、と思う所でも、ともにいてくださいます。そして、そこで、私たちがすることを通して、最悪な場所で暮らしている人たちを助けるようになさいます。そんなことを、ヨセフの人生は私たちに教えてくれています。
 勿論、ヨセフにとって楽しい時間ではなかったでしょう。ヨセフがお兄さんたちに売られたのは17歳のとき。それから、23年、奴隷と囚人としてヨセフは生きていました。いろいろな事があったでしょう、ヨセフが牢屋を出たのは、40歳の時でした。とても長い長い23年です。早く牢屋から出たかったでしょう。いや、もう牢屋を出ることは諦めていたかも知れません。そんな時に、エジプトの王様を助けるため、ヨセフは牢から出されたのです。王が見た不思議な夢の説き明かしをするためでした。
15ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」
 ヨセフは夢の中で、人の夢を解き明かしたことがあったので、それを伝え聞いたファラオが自分の夢を話したのです。他にエジプトにいた誰も、ファラオの夢の話を聞いてもさっぱり分からなかったのです。ただ一人、ヨセフだけがそれを解き明かしました。
29今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れようとしています。30その後、七年間の飢饉が起こり、エジプトの地で豊作のことはすべて忘れられます。31この地の豊作は、後に来る飢饉のため、跡も分からなくなります。その飢饉が非常に激しいからです。…33ですから、今、ファラオは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの地の上に置かれますように。…35…これからの豊作の年のあらゆる食糧をすべて集めさせ…36…その食糧は、エジプトの地に起こる七年の飢饉のために、国の蓄えとなります。…」
 この言葉を受けて、エジプトの王ファラオはヨセフに言うのです。
40おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」
 こうして、ヨセフはエジプトを治めて、多くの人の命を救うのです。甘えん坊で、奴隷で、無実の罪で囚人だったヨセフが、エジプトの大臣になりました。牢から出されて、名前も与えられ、結婚して子どもも与えられます。牢屋から、国を治める働きに大きく変わりました。そして、国中の収穫を集めて、倉庫に蓄え、来る大飢饉に備えたのです。

 エジプトの王はここでは全く無力です。エジプトは当時の世界の超大国です。その王ファラオは「神の子ども」だと自称していました。世界一の権力者だと、思っていました。しかし、ファラオもただの人間です。神ではありません。飢饉を止めることも、どう備えたら良いかも分かりません。自分の夢さえ、どうにも出来なかったのです。そのファラオを助けたのは、囚人だったヨセフでした。もとは奴隷で、その前は遠くの野蛮人。そんな名前も知られなかったヨセフが、最高の王ファラオを助け、エジプトの命を救いました。こうして神は、ファラオたちのプライドを打ち砕いたのです。
 神は、人の支配や上下関係をひっくり返されます。神の子だと思い上がる人を辱め、一番苦しい思いをしている人々とともにいてくださいます。私たちが「最悪だ、終わりだ」と思った場所から新しいことを始められます。私たちがどこにいようとも、神は私たちとともにおられます。そして、偉そうにする人の言葉など気にせず、神のなさる働きを担うように、本当に尊い生き方をするように、招いて、そうしてくださるお方です。

「主イエス様。あなたこそ真の王でありながら、貧しく生まれ、飼葉桶に寝かされ、田舎者と笑われ、最後は十字架に処刑されたお方です。そのあなたこそ、世界を治めておられ、最も低くされている人をも慰め、強めて、高ぶる者を卑しめるお方です。どうぞ、私たちの人生も、そのあなたの不思議な御支配を現し、命の王の証しとしてください」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/7/4 創世記37章「ヨセフ」こども聖書㉑

2021-07-03 09:25:00 | こども聖書
2021/7/4 創世記37章「ヨセフ」こども聖書㉑

 今日のお話は「ヨセフ」。先週まで見てきたヤコブの息子です。ヤコブには12人の息子がいて、その11番目がヨセフで、次はまだ小さい弟。上には十人の兄がいるのに、父ヤコブは、弟のヨセフばかりを特別扱いしていました。ヨセフだけに綺麗な上着を着せ、兄たちには仕事を与えていました。それでは兄たちはどう思うでしょう。
創世記三七章4節ヨセフの兄たちは、父が兄弟のだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。
と書かれています。お兄さんたちの嫉妬、寂しさは、激しくヨセフに向かっていました。そんな中、ヨセフが一つの夢を見たのです。それは不思議な夢でした。
 7見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が回りに来て、私の束を伏し拝んだのです。8兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
 そりゃそうですね。自分の麦束をお兄さんたちの束が拝んでいる。そんな夢を見たのだとしても、それを聞かされたら、お兄さんたちは今でもお父さんに贔屓されているヨセフが憎くて堪らないのですから、怒るのは当然です。この時、ヨセフは十七歳。もう、それぐらいの想像力は働かせられたはずですが、お兄さんたちの心を思いやることは出来ませんでした。同じようなもう一つの夢を見たとき、さすがのお父さんも怒ります。
10…いったい何なのだ。おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、血に伏しておまえを拝むというのか。」
 お父さんでさえ窘めるほどの、ヨセフの生意気さ、お坊ちゃんさ、世間知らずでした。けれども、この夢は確かに神がヨセフに見させてくださった夢でした。やがて、本当にヨセフの元に、兄たちがやってきて、ヨセフを拝むことになるのです。ヨセフは支配者と成って、多くの人を治め、救う役割を果たすことになります。神がヨセフの将来を、この夢に託して見せておられるのです。ヨセフは二十年もしてから、この夢を思い出すことになるのです。けれども、それまでの二十年の間に、ヨセフはたくさんの経験をします。奴隷になって、エジプトに行き、囚人になって、大臣になって。鍛えられて、指導者になるのです。今のままの、世間知らずなヨセフでは到底この夢は担えません。いいえ、その夢がかえってヨセフの生意気さを煽ってしまって、兄たちの憎しみの火に油を注いでしまうのです。兄たちを探して、ヨセフが遠出をしてきた時のことです。
18兄たちは遠くにヨセフを見て、彼が近くに来る前に、彼を殺そうと企んだ。
19彼らは互いに話し合った。「見ろ。あの夢見る者がやってきた。20さあ、今こそあいつを殺し、どこかの穴の一つにでも投げ込んでしまおう。そうして、凶暴な獣が食い殺したと言おう。あいつの夢がどうなるかを見ようではないか」
 兄たちはヤコブを捉えます。殺すことは止めますが、着物をはいで穴に投げ込みます。
23ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らは、ヨセフの長服、彼が着ていたあや織りの長服をはぎ取り、24彼を捕らえて、穴の中に投げ込んだ。その穴は空で、中には水がなかった。
 こうして兄たちは、長年ヨセフに抱いてきた憎しみや妬みをやっと晴らした思いでい増した。そこに、商人たちの隊商がやってきました。らくだに乗って、高価な香料を運んで、エジプトに下っていくところでした。そこで、兄たちはヨセフをこの商人たちに売ったのです。兄たちは、銀貨二十枚をもらいました。ヨセフは、売られた奴隷となって、エジプトに連れて行かれてしまいます。エジプトに行く、というのは、もう生きて帰って来ることなど考えられない、死んだも同じことでした。売り飛ばしてから兄たちは、どうしようかと考えます。そこでヨセフが死んだことにします。
31彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎを屠って、長服をその血に浸した。32そして、そのあや織りの長服を父のところに送り届けて、言った。「これを見つけました。あなたの子の長服かどうか、お調べください。」
 死んだことにしてしまえば良い、と思ったのです。あの忌々しい着物に血をつけて、父がヨセフの死を信じたらいい、と思ったのでしょう。ヨセフが死んでいなくなれば、父は今度こそ自分たちを大事に思ってくれるだろう、と考えたのでしょうか。もしそうだとしたら、彼らの考え通り、ヤコブはヨセフの死を信じます。
33父はそれを調べて言った。「わが子の長服だ。悪い獣が食い殺したのだ。ヨセフは確かに、かみ裂かれたのだ。」34ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、何日も、その子のために嘆き悲しんだ。
 しかし、彼らが願った以上に、ヤコブは打ちひしがれ、兄たちは困ってしまいます。
35彼の息子、娘がみな来て父を慰めたが、彼は慰められることを拒んで言った。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」こうして父はヨセフのために泣いた。
 兄たちは、この後何十年も、ヨセフを追いやった自分たちの過ちを後悔し続けることになるのです。勿論、ヨセフが生きているなどとは夢にも思いませんでした。しかし、ヨセフは死んでいませんでした。奴隷としてヨセフは生きていて、大都市エジプトに売られます。そして逞しく鍛えられていき、やがてあの夢は成就するのです。
 神が将来の大きな夢を見せてくださった時、ヨセフも兄や父たちもそれを理解できず、誤解してしまいます。特に兄たちは嫉妬して、その夢を潰そうとします。それが成功したように見えて、実は自分たちも後悔するような結果を招いて苦しみます。それでも、神は彼らを導いておられました。それが神のご計画です。人の悪意にも関わらず、悪巧みさえ用いて、着々と不思議にも進んで行きます。それが神の正義です。ヨセフ物語は、創世記の最後に語られている、私たちを悪や絶望、妬みから救い出す神の物語です。

「主よ、あなたは私たち一人一人に、良いご計画をおもちです。今の私たちは、それを聞いても誤解してしまうでしょう。また、それを阻むような出来事で、到底無理だと思うかもしれません。それでも、あなたは祝福のご計画を必ず成し遂げられます。どうぞ私たちを、あなたのいのちの業に相応しく整えて、あなたの器として用いてください」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/7/4 マタイ伝24章1~14節「苦しみは産みの苦しみ」海外宣教週間

2021-07-03 09:24:44 | マタイの福音書講解
2021/7/4 マタイ伝24章1~14節「苦しみは産みの苦しみ」海外宣教週間[1]

 福音が全世界に宣べられて、すべての民族に証しされる。それが神のご計画である。教会が福音を世界に宣べ伝えていく使命が、ここにも明言されています。この言葉から二千年近くの間に海外宣教が進められて、今ここで私たちが福音を聞いています。私たちそのものが、この御言葉の成就してきた証しです。そして、この尊い働きを覚えて、加わりたいと願います。
 今見ましたように、この24章は弟子たちがエルサレム神殿を指し示した事から始まります。エルサレム神殿は高さ22m。純金が貼られ、それ以外の所も大理石が白く輝く姿は、遠くから窺えて、地中海世界で指折りの、美しい建造物でした[2]。しかしイエスはあっさり、どの石も積まれたまま残ることはない最後が来ることを仰います。これに弟子たちは慌てて、問う。
 3…「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」
 これに応えたイエスの言葉が4節からずっと続き、24章の最後でも終わらず、25章までの長い説教です。応えは弟子たちの質問への答ではありません。人々から問われた質問にイエスが直球で答を返されることは殆どなく、大抵かみ合わず、問いそのものを問い直されます。ここでも「終わりはいつですか。神殿も石一つ残さず崩れ、あなたが王として来られるしるしは何ですか」の質問に対して、イエスは「いつですか」という問い自体を終わらせています。
 4…「人に惑わされないように気をつけなさい。5わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。6また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。…8これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。

 偽キリストが現れて、戦争・紛争、飢饉・地震が起きても、終わりのしるしではない。大きな災害や、神殿や町が崩れるような出来事、パンデミックがあると、人は「これは終末のしるしではないか」と不安になりがちですが、そんな人の声に惑わされないように、むしろ、その苦しみも、「産みの苦しみ」、いのちを生み出す痛みと見る、全く新しい見方を仰いました[3]。

 それはただ楽観して問題を小さく考えることでは決してありません。産む苦しみは大変な痛みです。9節からは厳粛です。酷い苦しみや殺され憎まれる。10~12節は弟子たちのことで、大勢のキリスト者が躓き、裏切り合い、憎み合い、偽預言者に惑わされ、不法が蔓延り[4]、多くの人の愛が冷える。そういう事もイエスは見通しています。でも、だから終わり、ではない。
13しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
14御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。[5]
 
 人間の作った物はいつか必ず残らず崩れ落ちる。私たち信徒同士でも躓いて疑って、自分の愛が冷え切る。それが神ならぬ人間の現実です。でも絶望しなくて良い。人や自分の愛が冷えても、主に立ち戻って、耐え忍べばいいのです[i]。その先に待つのは、絶望的な終わりではなくゴール・完成なのです。
 「いつだろうか。この先どうなるのか」と何かにすがりつけるものを探して、不安を煽る人の言葉に惑わされそうな私たちに、主は語りかけて「いつでも主の帰りをお迎えする生き方に立ち戻りなさい」と仰います。
 将来を案じるより「今」を生きるよう呼びかけられます。
 「確かさ」を求めてかえって不安に駆られるより[ii]、不確かな世界だからこそ、小さい私たち同士、憐れみをもって互いに励まし合い、助け合うこと。主が私たちによくしてくださったように、私たちも互いに支え合うこと。
 そうして、主が私たちの王でいてくださる幸いに生きる。
 それこそが「いつ主が来られても良い」生き方です。主の御国を迎える生き方なのです。そういう事が、この24章の後、25章まで書かれていくのです。

 弟子たちの「いつですか、どんなしるしがありますか」という質問は、確かさを求め、不安に裏付けられたものです。イエスの言葉は、「いつかは分からない。しるしに惑わされないようにしなさい」と不確かさ、限界を受け入れさせ、その中でイエスを信頼し、互いに支え合うよう招きます。いつか、より、いつ主が来られても良いように、今ここに生きるよう、目を向けさせてくださいます。人が盤石だと思っているものはすべて崩れ、確かに思えたモノが崩れて慌てたり諦めたりしそうになる。私たち自身も弱さや愛のなさを露呈する。イエスはそう語った上で、それは終わりではなく「すべて産みの苦しみの始まり」だと仰います。世界は不確かなもので、だからこそ主の良い御支配に立ち戻れる。イエスが王となってくださり、病気や行き止まりの中でも、最後まで耐え忍ばせてくださり、福音が宣べ伝えられ、冷えた愛をもう一度温めていただく。そして主が私たちにしてくださったように、私たちも助け、励まし合う。苦しみは「産みの苦しみ」となって、私たちの中に謙虚と希望と交わりを育てます。そういう、「御国のこの福音」なのです。その言葉が、このユダヤから広まり、私たちは今この日本でこの福音を聞いていて、世界でこの「御国の福音」を伝える海外宣教があるのです。

 海外宣教報をどうぞ読んで、海外宣教のために祈りましょう。また、世界で最もキリスト者の少ない日本にいるキリスト者のために世界の教会が祈ってくださっています。この交わりも、主ご自身が私たちを愛し、神の国の民としてくださっている証しです。この御国の福音が全世界に宣べ伝えられることと、私たちもこの「御国の福音」を受け取り続けることを祈ります。
 私たちがこの福音の素晴らしさを味わってこそ、「世界に届きますように」と心から祈れるのですから。

「世界の王なる主よ。御国の福音が全世界に宣べ伝えられ、すべての民族に証されますように。私たちもあなたの御国より、自分が王でいようとして、狭い壁を築き、不安や絶望に流れやすい者です。先が見えない今こそ、主よ、あなたの良き御支配に既に与り、あなたのあわれみを証しさせてください。神話や不安よりも遙かに強いこの幸いを、世界の人が知っていけますように。そのために遣わされ労している方々を祝福し、支えて、主にあって一つとしてください」

脚注:

[1] 海外宣教週間にあたり、マタイ福音書の講解説教の流れを崩して、24章14節の「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」の海外宣教の箇所を、その前後の文脈も含めて聞きます。

[2] ヘロデ大王は悪王として知られていますが、建築家としては高い評価を得ています。復元模型の図はこちらをご覧ください。https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/e5/f4f604b446d17021b829fa9d4ad775de.jpg


[3] 4~8節を「偽メシアや戦争の事を聞いたら、その後民族紛争が起きてから、患難期が始まる」と読んでいる人もいるでしょう。しかし、ここでの「まだ」は、「まだだけど、もうすぐ」ではなく、「まだです」との断言です。そして、それを「産みの苦しみ」と見るのです。「産みの苦しみオーディン」は、マタイではここのみ。マルコ13:8の並行記事、使徒2:24(しかし神は、イエスを死の苦しみ[欄外注:直訳「陣痛」]から解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。)、テサロニケ人への手紙第一5:3(人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。)9節の「苦しみスリプシス」 13:21、24:9、21、29

[4] 神の「法」は、冷たい秩序ではなく、神と隣人を愛する法です。その愛の法ならぬ法(=不法)が蔓延るので、人々の愛は冷えるのです。「世紀末」や終末的な状態は、単なる無法状態、無政府主義よりも、全体主義・絶対統制が蔓延ることも想定できます。それは、愛を冷やすでしょう。この言葉を逆手にとって、秩序を強制することは、この言葉の成就になります。それに対して、神の法は、愛を喜ぶもの。22章34-40節。

[5] 6節、13節、14節の「最後」と「終わり」は同じテロス(目標・ゴール)です。所謂「終末エスカトス」という悲壮な思想より、ゴール・完成という喜びと希望の思想が聖書の終末論です。

[6] 「愛が冷える」ならだめで「最後まで耐え忍びなさい」という読み方では、愛よりも不安を駆り立てます。自分の愛は冷えるけれども、主の愛に立ち戻り、耐え忍ぶことが出来るのです。そもそも、「不法が蔓延るので○○」で「愛が冷える」に着目し愛のなさを嘆かれる事自体、イエスがどれほど「愛」のお方であるか、に他なりません。その愛の主は、私たちの愛の冷えやすさをご承知で、なお愛してくださり、愛の炎を燃え立たせてくださるお方です。

[7] マタイの福音書10章22節でも「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」と同じフレーズで言われていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする