聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/1/16 マタイ伝27章1~14節「いのちの値段は」

2022-01-15 12:57:58 | マタイの福音書講解
2022/1/16 マタイ伝27章1~14節「いのちの値段は」

 夜が明けました。キリストが十字架につけられる日の朝となりました。最後の数時間、祭司長と民の長老たちは、自分たちを属国として支配しているローマ帝国の総督ピラトに掛け合い、処刑の許可を得るために動き続けます。ユダヤの議会だけで処刑を強行することは、出来ないことではありませんでしたが、それをすれば却って民衆の反感を招いたりイエスを英雄視させたりしかねなかったからでしょうか。そんな駆け引きの裏で、一つの出来事がありました。

3そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。4「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」…

 ユダがイエスの処刑判決を聞いて後悔するのです。イエスを売った時点で、分かっていたことでしょうに、後悔する。その上、金を返すために、祭司長、長老たちの所に来ます。臆病なら出来ない行動です。自分なら出来るだろうか、考えてみてください。また、この時のユダに、自分なら何と声をかけるでしょうか。残念ながら、ここで議員たちの答はこうでした。

4…しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」[1]

 こんな突き放しです。ユダの裏切りに喜んで、彼を唆したのに、こうなると掌(てのひら)を返して、ユダを責めます。「悪魔は、人間を担ぎ上げて罪に誘い込み、その結果が見えて後悔した途端、足元の梯子(はしご)を外す」と言いますが、まさに彼らはそんな冷たい仕打ちで、ユダを絶望させます。

5そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。

 この絶望にも、祭司長たちの対応は身勝手極まりないだけの打算でした。

6祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」7そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした。

 「血の代価」だから献金収入には相応しくない、なんて綺麗事です。だってその銀貨は、自分たちが払った30枚なのですから。これは奴隷一人分の値段です[2]。また、当時の労賃の一ヶ月分です。それで畑を買ったとしてそんなに広くはなかったでしょう。「異国人のための墓地」、エルサレムに旅や仕事で寄留した外国人が亡くなって、引き取り手がない場合の外人墓地です。それなりに必要はあったでしょう。しかし議会の考えは差別的です。「神殿の金庫には相応しくないが、異国人の墓地なら丁度良い」。大して広くもないその土地を、自分たちが蔑む外国人が死んだ場合の墓地としてしまえばいい。ここにも彼らがどれほど人の命を、安値で考えていたかが窺えます。しかし、マタイはここに聖書の預言の成就を告白するのです。

9そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。10主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った。」

 この言葉は預言者エレミヤよりも、預言者ゼカリヤの言葉が主になっています[3]。詳しい説明は端折りますが、ゼカリヤ書11章で、怠惰な牧者たちがイスラエルの羊を養う尊い仕事を、わずか銀貨30枚としか値積もりしなかった、とあるのです[4]。エレミヤ書には、陶器師が何度も出てきます。陶器師は焼く前の土は形を作り直すし[5]、焼いてから壊れたら破片を捨てる[6]。それが神と人との関係を表していると語っていました[7]。しかし、「畑を買う」と言われるのはエレミヤ書32章の話です。イスラエルの罪がいよいよ裁かれて、都が包囲されていた時、主はエレミヤに故郷のアナトテの畑を買い戻すよう命じます。どうしてこんな絶望の時に畑を買うのか問うと、エルサレムが罪の報いを受けて崩壊した先に、再び畑を所有したり取引や商売したりする日が来る、あなたの手の購入証書はその回復のしるしなのだ、と言われるのです[8]。

 祭司長たちは汚れた金で異国人の墓地を作りました。しかしイエスは神殿の権威とか神聖さより、罪人や小さい人、異邦人を重んじました。そのために自分の血を流されました[9]。イエスの命の値段で、異国人の墓地が買われた。異国人が少しでも安心して葬られるようになった。それは預言者たちの語る、罪の社会がひっくり返された先にある回復の成就-イエスの血の値が異国人のためにも払われたと伝える福音の、小さな、しかし確かなしるしでした[10]。

わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。 ヨハネの福音書14章2~3節

 11節から総督ピラトの前での審問が始まります。イエスはピラトの質問に「あなたがそう言っています」と答えただけで、祭司長や長老たちの訴えには何も答えません。ピラトは、

13…「あんなにもあなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」14それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。

 この「非常な驚き」が強調されています[11]。不利な証言や訴えに黙っておれない人間です。しかしこの時、イエスが何を言われても、驚くほどに静かであったのは私たちにも支えです[12]。人の命を売り買いして、値踏みするような人の訴えなどに、神は動かされません。イエスは私たちの罪も後悔も絶望も知ってくださり、その私たちのために十字架に死んでくださいました。私たちのために安売りされましたが、それは私たちの命を買い戻すために払われた代価です。命に神の御子キリストという値段がつけられた。だから人の誹謗中傷など、何でしょう[13]。

 振り返りましょう。一つ、大祭司たちはイエスもユダも異国人も、その命を踏みつけました。私たちならこのユダに何と声を掛けるでしょうか。自己責任という言い方で絶望させるなら、大祭司たちと同じです。私たちに与えられているのはもっと違う言葉です。二つ、異国人のための墓地は、キリストの血によって私たち異国人にも場所が備えられたこと、将来の生活が回復されること、預言者たちの言葉の成就です。神は、人のずる賢い企みさえ用いて、本当に尊く、私たちを値高く扱われます。三つ、人の値を低める彼らの言葉に、イエスは静かでおられたことはピラトが非常に驚いたほどでした。イエスはご自身への攻撃の中、静かに十字架に向かわれます。この方こそ本当に私たちの王です。この方が私たちに命の値を下さいました。私たちを中傷から守り、後悔や絶望のどん底でも、突き放すどころかともにおられるのです。[14]

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 テモテへの手紙第一1:15

「主よ。あなたが私たちの造り主であり、王です。そしてあなたは私たちのために安売りされ、血を流され、訴えられました。私たちに新しい命を与えてくださるためでした。どうか、私たちが後悔や絶望を通るとしても、そこにもあなたがともにおられ、いのちのみことばを聞かせてください。人の言葉が何を言おうと、あなたが私たちを愛し、赦し、慰めてくださる言葉に耳を傾けさせてください。そのあなたの驚くべき言葉を生き、届ける事もできますように」

脚注:

[1] 聖書協会共同訳、新共同訳「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」

[2] 出エジプト記21章32節「もしその牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。」

[3] ゼカリヤ書とマタイとの違いは多いが、中心的な構図は同じ。主の牧者が、イスラエルの民によって退けられ、奴隷の値積もりをされた。その金は神殿に投げ入れられ、最終的には汚れているとされたものを買い戻した。

[4] ゼカリヤ11章7~13節「私は羊の商人たちのために、屠られる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、もう一本を「結合」と名づけた。こうして私は群れを飼った。8私は一月のうちに三人の牧者を退けた。私の心は彼らに我慢できなくなり、彼らの心も私を嫌った。9私は言った。「私はもう、おまえたちを飼わない。死ぬ者は死ね。滅びゆく者は滅びよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい。」10私は、自分の杖、「慈愛」の杖を取って折った。私が諸国の民すべてと結んだ、私の契約を破棄するためであった。11その日、それは破棄された。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが主のことばであったことを知った。12私は彼らに言った。「あなたがたの目にかなうなら、私に賃金を払え。もしそうでないなら、やめよ。」すると彼らは、私の賃金として銀三十シェケルを量った。13主は私に言われた。「それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。」そこで私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。14そして私は、「結合」というもう一本の杖を折った。ユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破棄するためであった。15主は私に言われた。「もう一度、愚かな牧者の道具を取れ。」16 見よ。それは、わたしが一人の牧者をこの地に起こすからだ。彼は迷い出たものを尋ねず、散らされたものを捜さず、傷ついたものを癒やさず、衰え果てたものに食べ物を与えない。かえって肥えた獣の肉を食らい、そのひづめを裂く。17 わざわいだ。羊の群れを見捨てる、能なしの牧者。剣がその腕と右の目を打ち、その腕はすっかり萎えて、右の目の視力は衰える。」

[5] エレミヤ書18章2~6節「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」3私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。4陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。5それから、私に次のような主のことばがあった。6「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──主のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」

[6] エレミヤ書19章1~15節「主はこう言われる。「行って、土の焼き物の瓶を買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人とともに、2 陶片の門の入り口にあるベン・ヒノムの谷に出かけ、そこで、わたしがあなたに語ることばを叫べ。3『ユダの王たちとエルサレムの住民よ、主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの場所にわざわいをもたらす。だれでもそのことを聞く者は、両耳が鳴る。4彼らがわたしを捨てて、この場所を見知らぬ所としたからである。彼らはこの場所で、彼らも彼らの先祖も、ユダの王たちも知らなかったほかの神々に犠牲を供え、この場所を咎なき者の血で満たし、5バアルのために自分の子どもたちを全焼のささげ物として火で焼くため、バアルの高き所を築いた。このようなことは、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかった。6それゆえ、見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、もはやこの場所はトフェトとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。7また、わたしはこの場所で、ユダとエルサレムのはかりごとを打ち砕く。わたしは敵の前で彼らを剣で倒し、また、いのちを狙う者の手によって倒し、その屍を空の鳥や地の獣に餌食として与える。8また、わたしはこの都を恐怖のもと、また嘲りの的とする。そこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見てあざ笑う。9またわたしは、包囲と、彼らの敵、いのちを狙う者がもたらす窮乏のために、彼らに自分の息子の肉、娘の肉を食べさせる。彼らは互いに、その友の肉を食べ合う。』10 そこであなたは、同行の人たちの目の前でその瓶を砕いて、11彼らに言え。『万軍の主はこう言われる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このように、わたしはこの民と、この都を砕く。人々はトフェトに空き地がないまでに葬る。』12 わたしはこの場所と──主のことば──その住民にこのようにする。わたしはこの都をトフェトのようにする。13 エルサレムの家々とユダの王の家々、すなわち、屋上で天の万象に犠牲を供え、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いだすべての家々は、トフェトの地のように汚される。』」14 そこでエレミヤは、主が預言のために遣わしたトフェトから帰って、主の宮の庭に立ち、民全体に言った

[7] 興味のある方は、ネル・L・ケネティ『陶器師の手の中で』(菅野卓子訳、いのちのことば社、1993年)をお読みください。

[8] エレミヤ書32章6~44節「エレミヤは言った。「私に、このような主のことばがあった。7『見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、「アナトテにある畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから」と言う。』8すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、これが主のことばであると知った。9そこで私は、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った。10私は証書に署名して封印し、証人を立てて、秤で銀を量った。11そして、命令と規則にしたがって、封印された購入証書と封印のない証書を取り、12おじの子ハナムエルと、購入証書に署名した証人たちと、監視の庭に座しているすべてのユダの人々の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し、13彼らの前でバルクに命じた。14『イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。15なぜなら──イスラエルの神、万軍の主はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』16私は、購入証書をネリヤの子バルクに渡した後、主に祈った。17『ああ、神、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。18あなたは、恵みを千代にまで施し、父たちの咎をその後の子らの懐に報いる方、大いなる力強い神、その名は万軍の主。20あなたはエジプトの地で、また今日までイスラエルと人々の間で、しるしと不思議を行い、ご自分の名を今日のようにされました。21あなたはまた、しるしと不思議と、力強い御手と伸ばされた御腕と、大いなる恐れをもって、御民イスラエルをエジプトの地から導き出し、22あなたが彼らの父祖たちに与えると誓ったこの地、乳と蜜の流れる地を彼らに与えられました。23彼らはそこに行って、それを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法に歩まず、あなたが彼らにせよと命じたことを何一つ行わなかったので、あなたは彼らを、このすべてのわざわいにあわせられました。24ご覧ください。この都を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この都は、剣と飢饉と疫病のために、攻めているカルデア人の手に渡されようとしています。あなたのお告げになったことは成就しました。ご覧のとおりです。25神、主よ。この都がカルデア人の手に渡されようとしているのに、あなたは私に、金を払ってあの畑を買い、証人を立てよ、と言われます。』」26すると次のような主のことばがエレミヤにあった。27「見よ。わたしはすべての肉なる者の神、主である。わたしにとって不可能なことが一つでもあろうか。28 それゆえ──主はこう言われる──見よ。わたしはこの都を、カルデア人の手と、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡す。彼はこれを攻め取る。29また、この都を攻めているカルデア人が来て、この都に火をつけて焼く。また、人々が屋上でバアルに犠牲を供え、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを引き起こしたその家々にも火をつけて焼く。30なぜなら、イスラエルの子らとユダの子らは、若いころから、わたしの目に悪であることを行うのみであったからだ。実に、イスラエルの子らは、その手のわざをもってわたしの怒りを引き起こすばかりであった──主のことば──。31この都は、建てられた日から今日まで、わたしの怒りと憤りを引き起こしてきたので、わたしはこれをわたしの顔の前から取り除く。32それは、イスラエルの子らとユダの子らが、すなわち、彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者、またユダの人、エルサレムの住民が、わたしの怒りを引き起こすために行った、すべての悪のゆえである。33彼らはわたしに背を向けて、顔を向けず、わたしがしきりに教えても聞かず、懲らしめを受け入れなかった。34彼らは、わたしの名がつけられている宮に忌まわしいものを置いて、これを汚し、35ベン・ヒノムの谷にバアルの高き所を築き、自分の息子、娘たちに火の中を通らせてモレクに渡した。しかしわたしは、この忌み嫌うべきことを行わせてユダを罪に陥らせようなどと、命じたことも、心に思い浮かべたこともない。」36それゆえ今、イスラエルの神、主は、あなたがたが、「剣と飢饉と疫病により、バビロンの王の手に渡される」と言っているこの都について、こう言われる。37「見よ。わたしは、かつてわたしが怒りと憤りと激怒をもって彼らを散らしたすべての国々から、彼らを集めてこの場所に帰らせ、安らかに住まわせる。38彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。39わたしは、彼らと彼らの後の子孫の幸せのために、わたしをいつも恐れるよう、彼らに一つの心と一つの道を与え、40わたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするために、彼らと永遠の契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないように、わたしへの恐れを彼らの心に与える。41わたしは彼らをわたしの喜びとし、彼らを幸せにする。わたしは、真実をもって、心と思いを込めて、彼らをこの地に植える。」42まことに、主はこう言われる。「わたしがこの大きなわざわいのすべてを、この民にもたらしたように、わたしは、今彼らに語っている幸せのすべてを彼らにもたらす。43あなたがたが、『この地は荒れ果てて、人も家畜もいなくなり、カルデア人の手に渡される』と言っているこの地で、再び畑が買われる。44ベニヤミンの地でも、エルサレムの近郊でも、ユダの町々でも、山地の町々でも、シェフェラの町々でも、ネゲブの町々でも、人々は金で畑を買い、証書に署名して封印し、証人を立てるようになる。わたしが彼らを元どおりにするからである──主のことば。」

[9] 「血の地所」 前後関係からして、ルカ(使徒の働き1章17~19節)では「血」はユダの血だが、マタイではイエスの血。

[10] 参考、「値の畑」川栄智章牧師日本キリスト改革派教会せんげん台教会2019年7月14日礼拝説教https://www.rcj.gr.jp/sengendai/message/detail.php?id=10 金原義信「血の代価」日本キリスト改革派豊明教会2010年7月4日礼拝説教 http://toyoake-church.la.coocan.jp/sermon/100704.html

[11] 驚くサウマゾー マタイで七回。8:10(イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。)、27(人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」)、9:33(悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。)、15:31(群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。)、21:20(弟子たちはこれを見て驚き、「どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか」と言った。)、22:22(彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。)、ここ。他にも「驚く」と訳される原語は数種類。ゲツセマネ以降、奇蹟はもうされていない。何も驚くようなことはなさっていないのに、何も言わないことによって、総督も驚かされるのだ。

[12] ただし、「キリスト者は、どんな誤解や中傷にも黙っているべき」ではありません。使徒パウロは自分の裁判で不利な証言を黙殺せず、正確に答えて公平な裁判を期しました(使徒の働き17章37節、21章37~22章21節、23章1~10節、24章10~21節)。冤罪を避けるよう努めるのもキリスト者の使命です。

[13] 私たちも、このイエスが私たちの王・救い主であることを信じる。この方が、その血の値をもって私たちを贖った(ご自分のものとしてくださった)ことを信じる。人が、どんなに誹謗・中傷しようとも、それに答えずにはおられない生き方から、救われた。後悔の言葉を吐き出しても「知ったことか、自業自得だ」としか言わない人間の断罪ではなく、それさえ尚赦し、私たちの命も死もその先も備えてくださった主がいてくださる。何も言い返さなくてよい、何を言われても傷つかなくて良い、どんな中傷・不利な証言にも、動じる必要の無い確かな立場が与えられているのだ。

[14] 私たちもこの方の声を聞こう。私たちを安売りせず、ご自分のいのちの値をもって買い取ってくださった方、私たちの死の先にも場所を備えてくださっている方、死にたいほどの失敗でも決して突き放すことなくともにいると約束してくださるお方の声を聞こう。この声を、私たちも届けていこう。

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2022/1/9 マタイ伝26章69~75節「ぜんぶ知られている幸い」

2022-01-09 12:09:17 | マタイの福音書講解
2022/1/9 マタイ伝26章69~75節「ぜんぶ知られている幸い」

 マタイの26章は実に目まぐるしい章でした。最後の晩餐とゲッセマネの祈り、そしてイエス逮捕から裁判に至り、主イエスの真っ直ぐなメシアとしての証言に、最高法院は死刑を決めました。本当に目まぐるしく動いた章です。その最後に、一番弟子のペテロが、イエスを「知らない」と否定した事が記されます。それも三度、呪いを掛ける誓いで否定した。これがマタイの福音書でペテロが名指しで登場する最後で、忘れがたい主の御心が心に刻まれます。
  1. 砕かれたペテロ

 この時、イエスの弟子たちにまで逮捕や処刑の危険が及んでいたわけではありません。だからこそしつこく問い詰められることもなく、ペテロもその場から逃げることが出来たのです。

69…女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」

もからかっただけのイジりです。「信仰告白したら死ぬ」命がけの状況でもないのに、ペテロは必要以上に恐れて、イエスを知らないふりをしたのです。つい数時間前(ほんの2頁前)、

「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」[1]

と断言していたのです。あの勢いはどこに行ったのでしょう。ここでは女性の言葉にしらばっくれて、二人目の女性にも誓って否定します[2]。三度目は、「嘘なら呪われても良い」と強い賭けを加えて「そんな人は知らない」と段々エスカレートしてしまいます。[3]

 十二弟子の代表格のペテロがイエスを否定した。これは致命的な背任です。牧師がイエスとの関係を否定したら、その説教は聞かれるでしょうか。夫が「あんな女は知りませんよ。絶対赤の他人です」と言うなら、どんな問題よりも酷い裏切りでしょう。イエスは仰いました。

しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。[4]

 これは当然です。けれどもそれさえ人は破りかねない。その大きな裏切りを、一番弟子のペテロがした。今まで目立って活躍してきたペテロ[5]、それでも自分だけは裏切らないと言い張ったペテロが、イエスを裏切ってしまう。弟子としての自信とか忠実さが音を立てて崩れるような出来事が、イエスの十字架に伴ってあったのです。その事を正直に聖書は伝えるのです。だから教会に、どんな人も来られます。私も、たくさんの失敗をしてきました。皆さんも人に言えない過去や、恥ずかしい思いがあっても、ここに来られます。そして、ここで聞くのが、そういう私たちを知ってくださっている主の御言葉である事に、慰めと力を戴いていけるのです。
  1. イエスの言葉を思い出した

74…すると、すぐに鶏が鳴いた。75ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。…

 そうです、イエスは先にペテロの否認を予告していました[6]。ペテロはあのイエスのことばを思い出したのです。自分の裏切りを後悔し、呪いを恐れたのではありません[7]。御言葉を思い出したのです。そんな自分だとイエスは最初から知っておられた。イエスはご自分を否む、大きな罪を犯さない事を求めるよりも、ご自分がペテロの弱さ、危うさ、失敗も全部ご存じで、なお愛し、ともにいてくださることに気づかせようとなさいました[8]。イエスを裏切る事は確かに大きな罪です。しかし、私たちが罪を犯さないかどうかに先立って、まずイエスご自分が私たちを知り、愛し、ともにいてくださる。その事が第一にあるのです。[9]
 
「人が恐れることが3つある。死・他人・自分の心だ」[10]。

 私たちは自分の心を見るのを恐れます。心を覆うために間違いに走ることもあれば、心を隠すために立派な行いをすることもあるでしょう。しかしイエスは私たちが隠したつもりになって忘れている、あるがままの私たちをご存じで、その私たちを愛し、ともにおられるのです。

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神が光であり、神には闇が全くないということです。 Ⅰヨハネ一章5節

 神は光であって、全てを-私たちの心の奥の奥まですべてをご存じである。キリストが伝えてくださったのは、この言葉をペテロは自分の卑怯な赦しがたい過ちを通して悟ったのです。
  1. 外に出て、激しく泣いた

75…イエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。[11]

 今までまとっていたプライドやエゴが崩れ落ちて、「外に出て行って激しく泣いた」。これがマタイで最後のペテロの名指しになります。この後ペテロの名前は出て来ません。最後の28章の結びで、十一人の弟子たちの一人として登場します[12]。ご自分を裏切った弟子たちに主は近づかれて、派遣されます[13]。その前の最後が、この激しく泣くペテロの姿なのですね。自分を自分以上にご存じの主の言葉を思い出して、溜まらなくなる[14]。涙が必ずしも本当の悔い改めのしるしとは限りませんが、この激しい涙は、ペテロの心に張り巡らしていたプライドの壁も主の言葉によって崩れ落ちた涙ではないでしょうか。一番偉い弟子でありたいと背伸びして来たペテロが、子どものように泣きじゃくっています[15]。これが新しいペテロの始まりでした。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。 Ⅱコリント7章10節

 このイエスを知れば知るほど、この主を告白する事は命を懸けるに値する事だと心から思います[16]。自分の誇りがひっくり返される事です。心を見られるのは恐ろしく思えます。でも、それこそ本当の神の愛です[17]。キリストから伝えられた使信です。主に全部知られているとは本当に幸せなことです。だからこそ、いざという時には命も惜しまずに、主を告白させて戴きたい。後のペテロも最後は殉教を遂げます。でもそれも自分の力で出来た事ではなく、強めてくださる主の恵みです[18]。主に強められて、
「私はイエスを知っています、キリストが私の主です。この方が私のために命を捨ててくださったのです」
と告白させていただきたいし、今ここでの交わりにおいても、強がったり裁いたりせず、私たち一人一人のすべてをご存じの主にあって、互いを受け入れ合い、慰め合い、励まし合うような思いをいただきたいのです。

「私たちのすべてを知っておられる主よ。あなたには隠れたことは何一つありません。どうぞ、私たちの目を開き、あなたの真実な眼差しの中にあることを知らせてください。思い上がった誇りを砕いて、上辺を比べ、自慢し、裁き合う寒々とした思いから救ってください。あなたが私たちに近づき、ともにいてくださいます。ペテロを愛し、深く取り扱われ、用いられた主が、私たちをも新しくし、主の憐れみでともに歩み、心から主を証しする群れとならせてください」

脚注:

[1] マタイの福音書26章35節。

[2] 「山上の説教」では無闇に誓うことを禁じていました。14:7、9とイエスのあり方とは逆のこと。その事もペテロは破ってしまっているのです。ペテロは、二重三重にイエスの弟子としてのあり方を破りました。

[3] 「誓い始めた」、つまり否定し続けたのですから、三度以上、イエスを否定したのです。

[4] マタイの福音書10章33節。

[5] ペテロは、水の上を歩きたがったり(マタイの福音書14章28~29節「するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。29イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。」)、最初のキリスト告白をしたかと思えば(16章16節「シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」」)直ぐに主を諫めては「下がれ、サタン」と窘められたり、(16章22~23節「すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」23しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」」)、変貌の山の上でも余計なことを口走ったり(17章4節「そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」」)と、大きく目立って活躍してきたマタイの福音書の脇役です。

[6] イエスは既にペテロがご自分を三度否定することをご存じでした。ですからここで、「どうしてペテロはこんな罪を犯したのか」と分析し、反面教師を捜そうとするよりも大切な事があります。イエスは、ペテロが(また私たちが)何かの時にはご自分を否定してしまう者であることをご存じです。自分ではそんな自分だとは思いたくもなくても、イエスは私たちの弱さ、限界、恐れや過ちを十分ご存じです。それでも尚、私たちを愛しておられるのです。私たちが「私なら否定しない」とか「私だって否定する」も、ここでの読み方としては不十分です。どちらよりも深く、私たちはイエスに知られ、支えられ、恐れなくイエスを証しするものへと変えられる、という招きを聞くのです。

[7] ペテロは呪われたか。呪われてもしかたない。ペテロ自身、「ああ、俺はもう呪われて永遠に過ごすとしても自業自得だ。それしかないのだ」と思ったろう。しかし、イエスは呪わない。その呪いも、ご自身が代わりに背負ってくださったのだ。

[8] この短い箇所には「いっしょに・ともにメタ」が4回も使われます。イエスと一緒にいた、はインマヌエル「神は私たちとともにおられる」(メス・ヘーモーン)と重なる。それをペテロは否定する。偽りの誓いとともにあってしまう。

[9] 主を裏切って罪を犯さず立派に生きるとしても、それを自分の力で出来ていると思うなら、神の前には失われている。主を裏切ることは大罪だが、神の愛よりも自分の行動が神との関係を支えていると思うなら神を小さく考え、引き下げている、根本的な勘違いではないか。「涙ながら」という安っぽい感動体験が必要なのではないが、自分の隠している心をさえ主は知っている、という恐れ多い事実に、人前で涙を見せることなどなかったろうペテロが激しく泣かずにおれなかったような出来事が、私たちと神との関係の根本を現してもいるのだ。幼児のように泣くペテロが、マタイにおいてペテロの名の登場の最後。

[11] 伝説では、これ以降、ペテロは鶏が鳴くのを聞く度に、涙を流さずにはおられなかった、とも言われます。

[12] マタイの福音書18章1節「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」、20章20~28節参照。

[13] 「近づいて」プロセルコマイ マタイで51回繰り返される語。(マルコ5回、ルカ10回、ヨハネ1回に対して)。今日の箇所では、「召使いの女が近づいて来て言った。」とあったのも同じ語です。近づく女に恐れてイエスを否定したペテロに、イエスは離れることなくなお近づいてくださり、派遣してくださいました。

[14] これを知って泣き崩れたペテロの涙は、まだ後悔とか自己嫌悪とか、自己憐憫や陶酔も混じっていたかもしれません。この体験以降、ペテロが完璧になったわけではないことも事実です。後のガラテヤ書でも優柔不断に動いてしまうのです。しかし最後は、ローマで殉教し、逆さ十字架についたと言われるペテロです。

[15] イエスが語られた「神の国」を表す第一の言葉は、「心[霊]の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。(マタイ五3)」私たちの霊は貧しい。頑張って御言葉に従うキリスト者たちの集まりより、頑張りでは忠実を貫くことなど一歩も出来ない私たちを、主は知っておられる。自分が決してあり得ないと思っていた事態になって、自分も絶対にするはずがないと思っていた裏切りの言葉を口にしてしまって、でも主は最初からそんな事も見通して、語ってくださっていた。自分の弱さなど見せまいと思っていたら、もう主は全部ご存じだった。それは、自分が考えていた世界がひっくり返る、主との出会いです。

[16] 私たちが人に接し、正しい行動を求め、変化を期待し、神も私たちにそうなさるだろうと思い込んでいるのとは全く違う見方で、私たちを深く知り、私たちに関わり、深い所から私たちを変えてくださる。そういうイエスの言葉に、私たちの心は崩れ落ちるのです。

[17] ティム・ケラー『結婚の意味』に「知られずに愛されているのは不安がある。知られて愛されないのは、恐怖だ。しかし、知られて、愛されること。それこそ、神の愛の体験だ」というような一文があります。出典詳細は不明。

[18] 「ペテロが恐れずに立派に信仰を貫いたから-弟子たちが忠実だったから-イエスが近づいてくださった」であれば、その後の教会は全く違った集まりになったでしょう。それはイエスが願う教会でさえありませんでした。

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2022/1/9 Ⅰ列王記3-9章「賢い王ソロモン」こども聖書㊷

2022-01-08 12:48:47 | こども聖書
2022/1/9 Ⅰ列王記3-9章「賢い王ソロモン」こども聖書㊷

 ソロモン王の事を、イエスは
「栄華を極めたソロモン」
と言いました。ソロモンの時代、父王のダビデの時代よりも更に北に領土を伸ばしました。ソロモンは主のために立派な神殿も建てました。その経済力で、豪勢な生活をしたことも分かります。実に「栄華を極めたソロモン」でした。



 しかし、ソロモンの働きの中で最も注目したいのは、彼が神から知恵を授かったことです。王となったばかりの彼に、主は夢に現れて、

…主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」 Ⅰ列王記3章5節

 こう問われて、何をソロモンは願ったでしょうか。それが、知恵でした。

善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」 3章9節

 これは主の御心にかなう願いでした。

11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、

 富や敵の命では無く、判断力を願った。そこで、

12見よ、わたしはあなたが言った通りにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。13そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きている限り、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。14また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」

 こう言われて、ソロモンは大変賢い知恵をもって、民の問題を裁きます。遠くの国から質問に来た王たちの相談にも、賢く答えたソロモン王でした。私たちも、神様に何を願うかと考えたら、愚かな願いをしないように、賢い判断力、知恵を願いましょう。愚かな願いから救って、知恵を下さい、と願う。ソロモンから学びたいと思います。

 そしてソロモンは七年かけて神殿を建てました。それは、金で飾られた立派な神殿でした。しかし神が大きな神殿を建てなさいと命じたものではありませんでした。ですからソロモンも、この神殿を自慢するような祈りはしません。8章の奉献の祈りで27~28

…神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。28あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、今日、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。

 どんな立派な神殿だって、神様を入れることは出来ません。だから、ただ神が憐れんでくださり、民がこの神殿に捧げる祈りに、どうぞ耳を傾けてくださいと祈ったのです。この日の夜、主はもう一度ソロモンの夢に現れました。その時の言葉で、

九6もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしに背を向けて離れ、あなたがたの前に置いたわたしの命令とわたしの掟を守らずに、行ってほかの神々に仕え、それを拝むなら、7わたしは彼らに与えた地の面からイスラエルを断ち切り、わたしがわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げ捨てる。…

と言われたのです。ソロモンや後の子孫が、主の言葉に背いて、他の神を慕い求めるなら、いくらこの神殿が立派でもこの神殿を投げ捨てる、と言われたのです。そして、残念なことに、実際そうなってしまいました。ソロモンは後年、主の言葉に聞き従わず、偶像崇拝に走ってしまいます。
 いいえ最初から、ソロモンは多くの妻を娶り、贅沢な暮らしに走って、危うさをちらつかせていました。その心配が、晩年になって本当に当たってしまい、ソロモンは主から離れ、神の言葉よりも、多くの妻たちの言葉に聞き従ってしまうのです。



 後々まで、ソロモンは反面教師として引用されます。ネヘミヤは、

イスラエルの王ソロモンも、このことで罪を犯したではないか。多くの国の中で彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、その彼にさえ異国人の女たちが罪を犯させてしまった。(ネヘミヤ13:26)

 また、ソロモンの建てた立派な神殿やもっと立派な王宮、そして彼の贅沢な暮らしは、民の税金や重労働の上に成り立っていました。ソロモンは民に犠牲を強いていたのです。ソロモンの死後、彼の息子に民衆が訴えたのは、ソロモンの時代の苦しさでした。

12:4 「あなたの父上は、私たちのくびきを重くしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えます。」

 ソロモンは主に知恵を願い、主はそれを喜んで与えてくださいました。でもソロモンがその知恵をえり好みして、富や繁栄を愛したのであれば、どうしようもありません。ソロモンの賢さや神殿建設の業績は、手放しで誉められるものではないのです。
 最初に言ったように、イエスはソロモンについて何度か触れています。その一つが、

ルカの福音書12:27 草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。

 栄華を極めたソロモンより、野の花の一つの装いは勝っている。どんなにお金や技巧を尽くすより、神が造られた目の前の花、この世界の美しさは遙かに勝っている。そう思う生き方へとイエスは私たちを招かれました。また、ソロモン神殿以上に大きく輝く当時の神殿を見ても、イエスは心を動かされる事がありませんでした。神は、立派な神殿にではなく、私たちとともにいてくださり、私たちの集まりを宮としてここに住んで下さるのです。こういうイエスの言葉も、ソロモンを理想化していませんし、逆にソロモンに問題があったかどうか以上に大事なことに私たちの目を向けさせてくれます。

南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。 (マタイの福音書12:42

 旧約聖書の知恵の書「箴言」は

「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言」

と始まります。その箴言にあるのは、

「主を恐れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは悟ることである」

という知恵の理解です。主を恐れること、聖なる主を知ること。その事は、ソロモンの問題がどうあれ、変わる事がありません。主を知り、主を正しく恐れましょう。お金持ちや王になるためではなく、この世界を創り、野の花の一つ一つも人の栄華が及ばないほどに装い、私たちの救いのため、低く人間になることも厭わなかった主を知り、主を恐れましょう。この主が、私たちに本当に賢い生き方を下さるのです。

「聖なる主よ、栄華を極めたソロモンより、知恵と富に満ちたあなたが、多くを得ようとするより、すべてを捨てて、私たちのために貧しくなってくださいました。あなたの愚かさは、人間の賢さに勝り、あなたの愛は世界の輝きに勝ります。どうぞ私たちに本当に賢い生き方をお与えください。愚かな願いから救い、人からは愚かと見えようとも、あなたの恵みに心を燃やされて、本当に尊い生き方をさせてください」
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2022/1/2 Ⅱサムエル記1~7章「王となったダビデ」こども聖書㊶

2022-01-01 12:50:27 | こども聖書
2022/1/2 Ⅱサムエル記1~7章「王となったダビデ」こども聖書㊶
 少年ダビデは、巨人ゴリヤテを倒し、やがて王になりました。王になるまで、そして、王になってから死ぬまでのことも、聖書にはたっぷり書かれています。この『こども聖書』では、とても簡単に、ダビデの生涯をまとめています。詳しく話せば切りが無いほどの事が、聖書には書かれています。そして、多くの人に愛されている聖書の人物です。

 1つ、ダビデはとても感情の豊かな人です。
 先ほど、ダビデが神の箱を持ち帰ったとき、通りで喜んで踊ったと書かれていました。神が私たちとともにいることを、現す箱でした。神がモーセに命じて造らせた箱です。今のように聖書もない、イエスが来て下さるよりもずっと前、この箱が、神がともにおられることをよく現していたのでしょう。その箱が、長い間、大切にされなかったのを、ダビデは思いきって運び上げて、エルサレムの都に移動させたのです。その時、ダビデは躍り上がって喜び、居合わせた人たちにも大盤振る舞いをして、一緒にお祝いしました。踊るだけで無く「力の限り跳ね回った」とあります。それは、妻のミカルが見ていて、恥ずかしくなり、蔑むほどでした。それほど、ダビデは嬉しい時には、子どものように喜び、はしゃいで、楽しむ人でした。



 そのダビデは、沢山の詩を書きました。聖書の詩篇は、旧約聖書の真ん中で、長いページ数を占める大きな書です。その中の150篇のうち、73篇がダビデによるとされています。
 その中には、神への賛美、信仰告白、偽りのない信頼を寄せる詩も沢山あります。羊飼いと羊に譬えて、私たちを養ってくださる主をほめたたえます。
 また、自分が苦しい時に、主に助けを求めて祈る、嘆きの詩篇もいっぱいあります。

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」

と叫んだりします。
 そして、不当な目にあわされたつらさを吐き出す、呪いの詩篇もあります。敵を滅ぼして下さい、と、心にある憎しみや毒をぶちまけていて、私たちは戸惑うほどです。聖書に、こんな激しい悪口があっていいんだろうかと思いそうになります。でも、それほどに、ダビデは感情の豊かな人でした。
 詩篇は「感情の解剖図」だと言われます。詩篇には、言い表されていない感情はないからです。つまり、私やあなたの心にある、喜び、憎しみ、妬み、悲しみ、寂しさ、孤独、恐れ、憧れ、辛さ、麻痺、幸せ…そうしたすべてを、ダビデは包み隠さずに歌ってくれています。だから、私たちはダビデに親近感を覚え、ダビデを通して、慰められるのです。私たちも、こんなふうに赤裸々に祈っていいんだ。神を賛美するとき、踊ったり跳ね回ったりしてもいいんだ、それぐらい嬉しい事なのだ、と知るのです。



 その詩篇の中で、大切なものの1つが、51篇です。その表題には

「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに」

とあります。バテ・シェバはダビデの部下ウリヤの妻でした。ダビデの妻はもう既に何人もいたのです。それでも問題なのに、ダビデは更に飽き足らず、部下の妻を自分の所に呼び寄せて、犯してしまいます。その上、それを隠そうとして、家来のウリヤを殺すことにして、更に他の兵士たちも巻き添えにして、殺してしまうのです。それは酷い行為です。こんな酷い罪をダビデは犯した人でもあります

詩篇五一篇
1神よ、私を憐れんでください。あなたの恵みにしたがって。
私の背きを拭い去ってください。あなたの豊かな憐れみによって。
2私の咎を私からすっかり洗い去り、
私の罪から私をきよめてください。…
4私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。
私はあなたの目に悪であることを行いました。
5ご覧ください。
私は咎ある者として生まれ
罪ある者として母は私を身籠もりました。

 ダビデのしたことは、決して正当化できることではありません。しかし、その言い訳できない罪を犯して、大きな後悔と、消せない過去を持つダビデが、聖書に大きく登場していることが、慰めでもあるのです。今も、大きな過ちを犯した人、後悔してもしきれない間違いで立ち上がれない人、心に悲しみと傷を抱えた人が自分を重ねるのです。

16まことに私が供えても
あなたはいけにえを喜ばれず
全焼のささげ物を望まれません。
17神へのいけにえは砕かれた霊。
打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれをさげすまれません。

 こう祈るダビデの言葉が、今も私を慰めてくれます。多くの人を慰めています。

 最後に、ダビデ王は、主のために家を建てよう、神殿を建てようとしましたが、それを神は許可しません。代わりに、主は、わたしがダビデの家を末代まで祝福して、ダビデの子孫から、永遠の王を立てる、という契約(ダビデ契約)を立ててくださいました。

Ⅱサムエル七12あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。…16あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

 こうして、ダビデ王は、やがて世界を正しく治めて下さる王の家系に加えられたのです。新約聖書の一頁には、長い系図がありますが、その始まりは

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」

とあり、ダビデがとても大事な役割を果たした事が強調されています。そして、イエス・キリストは「ダビデの子」と何度も呼ばれています。ダビデは、やがておいでになるイエス様とも重なるのです。

 ダビデはとても人間らしい、私やあなたと同じ、感情の豊かな人でした。王となってから沢山の間違いもし、最悪な姦淫と殺人という罪さえ犯した人です。でも、そのダビデを神は愛し、王にし、祝福なさいました。罪には厳しく迫りながら、回復も惜しまれませんでした。だから、ダビデも自分の気持ちを開いて、神を心から信頼し、苦しい時には絶望や刺々しい言葉さえ、飾らずに祈れたのです。私たちもそうです。神は私たちの心をすべてご存じです。どんな大きな間違いをしてもそれでも愛し、私たちの躍りを喜んで受け入れてくださいます。その事を現したのは、ダビデの子イエスです。ダビデを通してイエスを知り、ダビデのように、いいえ私らしく主を信頼して歩みましょう。



「主よ、新しい年の最初に、ダビデ王の生涯を思い巡らさせてくださり、感謝します。私たちの心の喜びも、棘も、闇も憧れも、すべて知っておられる主よ。私たちにも、あなたが祈りを与えてください。心からの歌を歌わせてください。涙を流させてください。躍り上がるほどの喜びも与えてください。そうして、主イエスが、私たちのとこしえの王でいてくださる事を味わい知り、あなたの善き御支配を見る年としてください」

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2022/1/2 マタイ伝26章57~68節「もう証人はいらない」

2022-01-01 12:01:30 | マタイの福音書講解
2022/1/2 マタイ伝26章57~68節「もう証人はいらない」

 「ナルニア国ものがたり」の作者C・S・ルイスが書いた、「被告席に立つ神」という説教があります[1]。神を被告席に立たせて、神のやり方を責め、神に疑問をぶつけているのが現代の私たちの態度だ。しかし問題は、そもそも神を被告席に立たせていることだ、というのです。



 今日の箇所はまさに、神の子イエスを被告席に立たせている裁判の図です。ルイスに言わせれば、私たちがしているのはこれです。良いことが起きる限りでは神を誉め、感謝するけれど、受け入れがたい事が起きれば、神を非難して背を向ける。神は被告で私たちが裁判官。そのボタンの掛け違えを戻して、神に被告席から降りて、正しくも裁判官の場に立って戴く。そして自分が裁判官の場から降りて、正しくも被告席に立ち、神の裁きの前に立つ。神の真摯な問いかけに答える。そこから人として生きる事が始まることを、一年の初めに確認したいのです。

 59節に「最高法院」(欄外「サンヘドリン」)とあります。大祭司、律法学者、長老たち、七〇人によって構成される、当時の最高議会でした。彼らはイエスが自分たちの権威を脅かす存在と思い、殺そうと企んで、イエスを捕らえて、夜中にこの裁判をしたのです。そのために「多くの偽証人[2]」まで捏(でっ)ち上げてイエスに不利な判決に持ち込もうとしました。この他の理由からも、この裁判自体が当時の制度からしても不法だったのかもしれません[3]。けれど、議会が不正だったからイエスが処刑になってしまった、もし手続きが正当だったら無罪放免になったはずだ、というものではありません。裁判の横暴さを非難するよりも、どんな不正な裁判でもここでイエスが堂々としておられることにこそ、目を引きます。偽証がされても、憤慨したり反論したりなさいません。過去の発言を引き合いに出されて、大祭司が立ち上がり、

62「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか」

と詰問しても

「イエスは黙っておられた」[4]。

 しかし万策尽きた大祭司がやけっぱち気味に[5]

「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」

と言われた時には、イエスはハッキリと答えます。

64…あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。

 こう言われるのです。これは旧約聖書のダニエル書7章13節や詩篇110篇1節を元にした言い方です[6]。神の右の座に着き、やがておいでになるメシアを語っています。大祭司が「おまえはキリストか」と問うた時、念頭にあったのは、キリストを自称して、民を巻き込んで反乱を扇動しようとする政治犯の罪状です。イエスはそうした政治的な運動以上の自称をなさったのです。
 同時にこの言葉は、この大議会の被告席に立たされているようなイエスこそ、実は神の右の座に着く主権者、この裁判の議長・裁判官であることを示しています。

 イエスは私たちの罪の赦しのため十字架に命を捧げられました。裁判が不当だったせいで処刑されてしまったわけではないし、偽証や強引さや嫉妬を非難もしませんし、逆に、他者の罪を庇いもせず、「自分は身代わりに死ぬのだから私を信じなさい」なんて発言もしていません。ただご自身が、あなたがたが思う以上のキリスト、神の御子であることを証しされました。

 この時のイエスはどんな格好だったか、想像してください。粗末な衣はひれ伏して祈った後で泥だらけ、激しい祈りの徹夜明けで憔悴し、乱暴に連れて来られて、殴られていたでしょう。とても「力ある方の右の座に着き、天の雲とともに来る」とは思えません。この後、

67それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。また、ある者たちはイエスを平手で打って、68「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と言った。

 こんな惨めな扱いです。威厳も何もない格好と似ても似つかぬ告白は、お笑い種(ぐさ)でしょう。

65すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「この男は神を冒涜した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒涜することばを聞いたのだ。[7]

 しかしこの言葉は奇しくも真実です。イエスの言葉はそれ以上証人を必要としない、十分な言葉でした。たとえどんな出で立ちで、「この男が神の子だなどと荒唐無稽だ」としか思えなくても、イエスは神の子であり、私たちの救い主です。その死は罪人であった私たちを救うとは、荒唐無稽としか思えません。でも、この方の言葉以上に、証人や証明は要りません。

 神は、人が被告席に立たせたつもりでも被告ではなく神であり、すべてを差配されます。その神の御子イエスが、私たちの全ての罪を背負って、命を捨てられました。イエスは、私たちが被告席に立たされる時、裁判にかけられるような思いをする時、私たちの十分な証人となってくださるのです。私たちの実際の罪や言動については、正直に告白し、責任を果たすよう促されます。でもイエスは、私たちが罪の故に貶められる者ではなく、既に罪の値を支払われ、神と和解し、神の子どもとされた事を証言してくださる。私たちの見かけや過去が今どんなに似つかわしくなくても、イエスが仰った言葉だけで十分。それ以上の証人は要らないのです。どんなに意地悪な証言が並べ立てられようと、傍聴人たちが何と言おうと、すべての裁き主なる神と、私たちの証人であるイエスが、被告席に立つ私たちの側に立ってくださるのです。

 新しい一年、起こり来る出来事は、私たちを一喜一憂させ、振り回そうとするでしょう。だから今日のこの箇所を、確かな原点として覚えましょう。
 人は神に替わって裁判官だと勘違いしがちですが、神は被告ではなく神です。
 イエスは、この裁判でも主導権を握り、ご自身を証しされました。
 そのイエスが、私たちの証人でもあります。人や敵、また自分自身の内なる声が何を言おうとも、いちいち抗弁しなくて良い[8]。イエスが私たちの証人となり、罪の赦し、神の家族の交わり、将来への希望、様々な恵みを下さった恵みに立って生きましょう。

 主のみことばを十分として歩ませていただく。これが、キリストに倣う、私たちの証しなのです。

「主よ。2022年最初の主日をともにし、ここから派遣され、毎週のリズムを繰り返します。この日、主が復活された確かな事実に立ち戻り続けます。人の言葉、時代の流れ、自分自身の内なる声、悪しき力の訴えに押し流されそうな私たちを、あなたの言葉に引き戻し、主の恵みに生かしてください。御言葉の十分な証言を素直に受け入れ、備えられた豊かな恵みを遠慮なく戴かせてください。やがて主が来られるまで、私たちをあなたの証しとしてください。」

脚注:

[1] C・S・ルイス『被告席に立つ神 C・S・ルイス宗教著作集別巻2』、本多峰子訳、新教出版社、1998年。また、被告席に立つ神 | 過去の礼拝説教 - 日本キリスト教団 茅ヶ崎恵泉教会 も参照。

[2] 60節。

[3] 特に、榊原、『マタイによる福音書 下』、261頁以下を参照。「…事実、欧米の聖書学者たちは、多くの点で、この審理の不正をあばいてきました。第一に、この裁判は、客観的な証拠によらず、被告の自白だけで判決されました。第二に、裁判長・議長たる大祭司が先に「彼は神を汚した」と結論してから「あなたがたの意見はどうか」と誘導しました。第三に、サンヘドリン議会は、神殿内の一定の部屋で開かれることが決まっていたのに、この時は大祭司邸宅で開かれました。第四に、こういう問題に関するユダヤ教議会は、午後から、ましてや真夜中には、開廷されてはならないのに、非合法な夜中に行われました。第五に、とくに死刑決議は、ユダヤでは慎重に行われ、二人の書記の一人が賛成票を、もう一人が反対票を数えるほどでしたし、証人は、特別に正義と真実とを求められ、また死刑決議の表決は、少なくとも翌日まで延期されねばならなかったのに、ここでは、その場で即決されてしまいました。 なるほど、今日の議事法からみれば、これらの点は不当な議事運営法かもしれません。けれども、このうちの第一点(自白にもとづく判決)と第二点(議長の誘導)とは、欧米の議会通念から下された勝手な批判であって、東洋人のセンスでは、それほど異例ではありません。…以下略」

[4] ここにはイザヤの預言した「苦難のしもべ」の姿があり、キリスト者にとっての模範もあるといえます。イザヤ書53章5~6節「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」、同7節「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」、Ⅰペテロ書2章20~25節「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。21このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。25あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」 しかし、イエスは沈黙し通してはおらず、64節で発言をされています。ですから、単純な「預言の成就」とは言い切れない複雑さも加味しなければなりません。

[5] この質問を最初からすれば良かったのであれば、わざわざ偽証人を大勢立てる必要はありません。偽証人の存在は、大祭司たちの策が(不完全で穴だらけではあれ)あったからです。その準備がうまくいかなかったために、大祭司はこの質問を問うたのでしょう。

[6] ダニエル書7章13~14節「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。14この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」また、同26~27節「しかし、さばきが始まり、彼の主権は奪われて、彼は完全に絶やされ、滅ぼされる。27国と、主権と、天下の国々の権威は、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』」、詩篇110篇1節「主は私の主に言われた。「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」」

[7] イエスの罪状を決定づけたのは、ご自分が「預言された「人の子」、やがて、栄光のうちに来る」と仰ったことです。第一に、イエスが人の罪を背負った、とはいえ、濡れ衣を着せられたり、身代わりとなることを申し出たり、誰かを庇って罪を背負うことで有罪判決を下されたのではありません。ですから、私たちがイエスに倣うとは、私たちが人を庇ったり、身に覚えのない罪をも認めたりするような事ではありません(けれど、そのような、「自分が罪を背負う」ことがキリスト者の証しだと誤解されていることも少なくないのです)。第二に、イエスがキリストであることは、証明できることではありません。大祭司も証明を求めませんでした。しかし、イエスがそう仰っただけで十分でした。私たちが、神の子どもとされた、という告白もそうではないでしょうか。また、私たちが他者からの言いがかり(偽証)や挑発にどう応えようかと悩む必要はありません。誤解を解こう、言葉尻を取られたことに抗弁しようとする必要もありません。相手を説得することがキリストの証しでもないし、無理矢理、誰かの罪を背負おうとして「証ししよう」とするのでもないのです。ただ、キリストのことばのゆえに、自分が神の子どもとされた事実。これを証すれば良いのです。

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