黄昏どき

老いていく日々のくらし 心の移ろいをありのままに

戦争のない平和な世界を

戦中 戦後 昭和ひと桁生まれの思い出(樺太 豊原Ⅱ)

2020年08月13日 | 戦争

昭和20年の元旦

お雑煮をいただきながら父が

「来年のお正月は皆でお雑煮を食べられないかもしれないよ」

と言った 母や私たちは 

「そんなはずがない 神風が吹いて日本は絶対勝つ」

父の言葉に猛反対した

 反対するだけでない 

父はスパイに思われるのではないかと不安に思った

 

あの頃の日本は今の北朝鮮のような国だったと思う

 

 

ネットから

4月 樺太庁豊原高等女学校に入学した

戦局がますます不利になっていたが

試験は3日間あり 樺太中から少女が沢山集まり

中には鉢巻き姿の軍国少女も見られた

 

期待して入った女学校だったが

制服もなく姉のお下がりを着て行ったが

勉強したのは4月だけだった

雪が融けると校庭にタコツボ堀りをした(一人用の防空壕)

 

学校から1里くらい(3.75km)離れた

北豊原の原野の開墾作業がはじまった

授業があるのは雨の日だけ

 

防空頭巾と炒った大豆の非常食袋を肩にがけモンペ姿で通った

各学年 

松 竹 梅 蘭 菊 の5クラスが

 1年生から4年生まで1団体(200人くらい) 

 5団体がそれぞれ1町歩位(約1ヘクタール)の

原野の木を伐り根を掘りおこす

2年生以上は泊りがけで ニシン場や援農へ行った後は

残った1年生だけで開墾をした

 

ニシン場へ行った2歳上の姉はお寺にひと月も泊まり

ニシンに埋もれながら一日中ニシンをさばいたので

帰宅してからもしばらく生臭い匂いが取れなかった

 

 

戦局が悪化しているのは何となくわかるが

 誰も口に出すことはない 話したらたらスパイとひっぱって行かれる

 

ソビエトが参戦したら 陸の孤島となる 

食料は自給自足しなければならない 

 

子供心に不安を持ちながら働いた 

早生まれで体も小さいし作業も遅かった

 

雑炊や代用食(ジャガイモ・燕麦・麦)で

いつもお腹が空いている 炒り大豆を食べると下痢をするが

仕方なく食べる

 

開墾した所に小さな穴を掘り 

肥料もなしで麦やジャガイモを植えた

(樺太はお米が取れない)

麦の芽が出た時は嬉しかった

やせ細った麦がやっと穂を出しはじめた頃に 敗戦になった

2012年7月再訪したユジノサハリンスク 

ホテルは 女学校の近くだった

ヒュッテのあった山だけは昔の儘の姿

女学校の跡地に建てられた サハリン州立大学は夏休み中で誰もいなかった

 

空き地に咲いていた マンテマ

 

以前ブログで発表したこともあるが編集し直しました


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