黄昏どき

老いていく日々のくらし 心の移ろいをありのままに

戦争のない平和な世界を

戦中 戦後 昭和ひと桁うまれの思い出 (引揚船)

2020年08月16日 | 戦争

 

真夜中に白龍丸は出航した

稚内港がいつぱいなので 小樽まで行くという 

20時間かかるそうでがっかりした

 甲板に張ったテントに数家族が入った

トイレはなく甲板の端でする

海は時化て嵐のよう テントにも雨水が入る 

すぐに酔って動けなくなる 

 

夜が明け左側遠くに北海道の陸地が見えるが

20時間すぎても小樽に着かない

 

船倉の方へは行かないようにと言われていたが 

チラリ覗くと 地鳴りのようにわめき声が聞えてきた

大勢の朝鮮の人がお酒を飲んで騒いでいる

今まで虐げられていた鬱憤を晴らそうとしていたのだろう

 暴動がおこるのではないか恐ろしかった

 

再び夜が来た 

 

緊迫した声で目が覚める

船はすべて灯りを消しエンジンの音も聞こえない

 

暗闇の中で目を凝らすと 船長らしき人の指図する声

乗組員が慌ただしく動き回っている姿が異様に見えた

 

緊張が走る

 

誰かが「潜水艦がいるらしい」という

戦争が終わったのに・・・・まさかと思うが不安で恐ろしかった

 

船はエンジンを止めて漂ったまま

 

どのくらいの時間だったか覚えていないが

危険が去ったらしい

 

 夜が明け船は動きだした

 

小樽の港が見えた時は 疲労と船酔いで歩くのもやっとだった

嬉しいと言うよりホッとした

 

留萠沖で引揚げ船 小笠原丸など三船が 

国籍不明の潜水艦に沈められたのを知ったのは 

ずっと後の事である

 

我たち一家は幸運だった 

 

小樽からすしずめの汽車に乗り

 

 函館駅で野宿のような一夜を過ごした

 

函館市史からの抜粋記事 お借りしました

戦地からの復員、旧植民地からの引揚者の問題もあった。ソ連軍の侵攻に遭遇した樺太からは、老人と婦女子

を中心とした戦災者たちの緊急脱出が始まったが、8月20日の夕方、函館駅前に6000人の樺太被災者があふれ

るという事態が起きた。連絡船の欠航などで輸送のやり繰りができず、本州へ渡れなかった人たちであった。

彼らは、その夜は路上に新聞紙を敷き、便所もなく、赤ん坊のおしめさえ洗う用意もないところで、一夜を過

ごさざるを得なかったのである。このあまりに気の毒な光景に、函館市も渡島支庁も申し訳なかったとしかい

えず、翌日からはすぐに収容施設の手配などに奔走した(昭和20年8月22日付け「道新」)

 

 

木古内の伯父宅(父の兄)に着いたのは

8月24日だった

 

以前投稿したのを編集し直しました


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