日々雑感

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祈りを捧げる

2011年05月04日 | Weblog
祈りを捧げる 遠藤未希、斎藤両氏の御霊前に捧ぐ

お二人とも、東日本大震災で他人を助けて、ご自身は犠牲になり、帰らぬ人となった。人間としてまさに英雄的行為である。いくら称賛されてもされすぎることはない。

1,遠藤さんはまだ新婚ほやほや、やっと人生の船出をしたばかりだった。
町役場の防災無線で大津波来襲に避難を何回も呼びかけて、人々を逃げるよう誘導して、ご自身は逃げるチャンスを失って犠牲になられた。
危機に臨んで、職員としてのプロ意識以上に、人間として懸命に避難を呼びかけた。このおかげで命が助かった人も多いことだろう。避難の呼びかけはまさしく「天使の声」だった。

それは被災者の生活が安定して落ち着きを取り戻すほどに、深く人の心に刻まれることだろう。ご両親がテレビで「私たち夫婦にはできすぎた子供だった」と言われたときに、言葉に隠された悲しみが僕の胸をうった。

2,斎藤さんは水産会社の役員で、中国から受け入れた実習生を全員高台に避難させてから、ご自身は犠牲になられた。国境を越えた人類愛の証明であると同時に斎藤さんの人間としての崇高なまでのお人柄を物語る。

3,他に殉職された警察官や、消防団員、妻を助けた夫、逆の場合。親子の場合。マスコミ報道がないからよく分からないが、他を助けるために自分が犠牲になった人も多かったに違いない。それは時の闇の中に隠されてしまっているが、現実として在った事だろう。
遠藤さんも斎藤さんも発見されて、死亡が確認されたが、いまだに行方の判らない人も大勢いる。

近頃事故や事件で犠牲者が出ると、道行く人が花などのお供えをして哀悼の意を表し、供養する場面がよくある。見かける。他人の不幸を悼む優しい心根は人としての温かい心を表すと思うので、僕は気持ちがほっとする。

今回の震災犠牲者に対し、僕は花を供える人と同様、悲しみと哀悼の気持ちを鎮魂曲にした。
応援歌も良い。応援のイベントも良い。しかし物言わない人達にいったい誰が救いの手をさしのべるのか。犠牲者の魂に呼びかけるのか。供養するのか。被災犠牲者の中でも最も救いの手がさしのべられていない人達は最悪の状態に置かれているのではなかろうか。そう思うから鎮魂曲を作曲して供養するのである。
御霊よ やすらかに ねむれ。あー あー あー。