祇王寺にて
閑話休題 やっと本来の自分に戻れるようになった。
五月の好天というのに、祇王寺は薄暗い感じがする。どうしてだろう。
平家物語に出てくる筋書きにあまりにも多く、とらわれすぎたのだろうか。
時勢の権力者のおごりと、それにまつわる白拍子の哀歓物語。その中に清盛の気まぐれな寵愛を受けた女性の嘆き
「仏もむかしは凡夫なり。我らもついには仏なり。いづれも仏性具せる身を。へだつるのみこそかなしけれ。」という詩に詠み込まれた女心。
平均寿命が違い、時代も違うとは思うものの、20才そこいらで、こういう詩を詠む心境が悲しい。
芝垣の門をくぐり境内に入ると、緑が目にしみる。今は青葉若葉の季節で木々の葉っぱからは緑がしたたり落ちる。まるでその緑を受けるかのように、地面は一面苔が緑の絨毯を敷く。
秋になって紅く染まった紅葉の枯葉が舞う頃も、感傷的な気分を味わえ、その風情は祇王寺そのものであるが、物語の暗さに比べて緑が映えたつ新緑の季節もさわやかでよいものだ。
清盛という権力者の盛衰と、芸人白拍子の人気の盛衰は、いずれも共通して人生の盛衰という普遍的な哲理であり、この作者はそれを言いたかったのかも知れない。そこで思いついたのだが、人生というものはできるだけ波長の長い、しかも高低差の少ないサインカーブやコサインカーブをたどるのが、幸せの条件ではなかろうか。
吉野窓から光はこぼれているが、仏間に安置された母とじ 妹、祇王、仏御前の木造が4体並んで薄暗い。仏間から縁側を降りて左手に進むと小さな石塔がある。その中には清盛のもある。黄泉の国でこの四人で暮らしているのだろうかと思うと、ある種のおかしさがこみ上げてきた。さぞかし清盛は生前の行いについて、閻魔さんからさんざん絞られていることだろうと、清盛の苦渋に満ちたしかめっ面が思い浮かんだ。
京都は風景と同時に歴史が色々あって、興味深い。歴史を知れば知るほどそれは自分の人生と関わりを持って生きてくる。1200年も都があったところだから、そこに住んで人間模様を繰り広げて、時を過ごした人達の数は多い。 人生模様、悲喜劇、怨憎。数え切れない人生が在った事だろう。そしてぼくもまた、その生命の大河の流れに一滴の命をたらす。
閑話休題 やっと本来の自分に戻れるようになった。
五月の好天というのに、祇王寺は薄暗い感じがする。どうしてだろう。
平家物語に出てくる筋書きにあまりにも多く、とらわれすぎたのだろうか。
時勢の権力者のおごりと、それにまつわる白拍子の哀歓物語。その中に清盛の気まぐれな寵愛を受けた女性の嘆き
「仏もむかしは凡夫なり。我らもついには仏なり。いづれも仏性具せる身を。へだつるのみこそかなしけれ。」という詩に詠み込まれた女心。
平均寿命が違い、時代も違うとは思うものの、20才そこいらで、こういう詩を詠む心境が悲しい。
芝垣の門をくぐり境内に入ると、緑が目にしみる。今は青葉若葉の季節で木々の葉っぱからは緑がしたたり落ちる。まるでその緑を受けるかのように、地面は一面苔が緑の絨毯を敷く。
秋になって紅く染まった紅葉の枯葉が舞う頃も、感傷的な気分を味わえ、その風情は祇王寺そのものであるが、物語の暗さに比べて緑が映えたつ新緑の季節もさわやかでよいものだ。
清盛という権力者の盛衰と、芸人白拍子の人気の盛衰は、いずれも共通して人生の盛衰という普遍的な哲理であり、この作者はそれを言いたかったのかも知れない。そこで思いついたのだが、人生というものはできるだけ波長の長い、しかも高低差の少ないサインカーブやコサインカーブをたどるのが、幸せの条件ではなかろうか。
吉野窓から光はこぼれているが、仏間に安置された母とじ 妹、祇王、仏御前の木造が4体並んで薄暗い。仏間から縁側を降りて左手に進むと小さな石塔がある。その中には清盛のもある。黄泉の国でこの四人で暮らしているのだろうかと思うと、ある種のおかしさがこみ上げてきた。さぞかし清盛は生前の行いについて、閻魔さんからさんざん絞られていることだろうと、清盛の苦渋に満ちたしかめっ面が思い浮かんだ。
京都は風景と同時に歴史が色々あって、興味深い。歴史を知れば知るほどそれは自分の人生と関わりを持って生きてくる。1200年も都があったところだから、そこに住んで人間模様を繰り広げて、時を過ごした人達の数は多い。 人生模様、悲喜劇、怨憎。数え切れない人生が在った事だろう。そしてぼくもまた、その生命の大河の流れに一滴の命をたらす。