金色堂追想
平泉駅から北の方向に小一時間ほどゆっくり歩いていくと、中尊寺にたどり着く。駅を降りて、自転車に乗らずに歩いた。出来るだけ当時の様子に近い状態を味わいたかった。
御所跡とおぼしき跡は今は水田になっていて、昔の面影はしのべないが、こんな処に奥州の極楽浄土があったのかと感慨深かった。
小高い丘にのぼると柳御所のあたリが一望できる。
同じ血を分ける兄弟であリながら、又平家追討では兄頼朝の為に多大の貢献をした義経が、最後はここ奥州で果てるとは何という運命の皮肉か。
人間は一歩まちガえば死に至る恐ろしい運命を持ってる。そんなことを考えながら、坂をゆっくり歩いた。
歴史の流れから見てみると、確かに頼朝のほうに先見性がある。後白河や取り巻きの貴族なんて信用はできないし、義経のやっていることは貴族政治に従属した考え方である。確かに頼朝第一の家来・梶原との確執もあるようだが、それは歴史の流れについての判断の理解の仕方による対立というよりは、感情的な対立のほうが大きいようだ。
義経の言い分もわからいではないが、彼の考え方は歴史の新しいページを開くものではなくて、従来の貴族政治の下での政治体制の維持、すなわち現体制の維持が根底にある。
ところが頼朝は違う。貴族政治から脱却して新しい武家政治を打ちたてようとしている。ここのところが両者の決定的な違いである。
人間には感情と理性があり、両者のバランスが必要である。
情の面においては義経に涙を寄せる人は多いことだろうが、歴史的にみるとやはり冷血漢に見える頼朝の決断の方が正しいように思える。
いずれにせよ決定的な対立となり、生死を分けた義経の悲劇は歴史上の出来事とはいえ、いつの時代においても、日本人の涙を絞ることであろう。
まるで小説で悲劇のヒロインを描いたかのような義経の生き様である。
ひょっとしたらこのストーリーは神が書いて、役割を演じたのが頼朝であり義経であり、その中の中心となったのが平家なのかもしれない。平家物語を読むとそんな感じもなくはない。
金色堂は(覆堂は)何百年かに、一度移動するみたいである。僕が見たのは杉木立の方へちょっと段になっていた処に在った。移動前の覆い堂はちゃんと保存されて残されている。
名所であるから、連休とも重なって全国から大勢の観光客が来ていた。
とくに有名な金色堂は我もわれもと押しかけるので、ラッシュアワーの満員電車のように、肩が触れやって堂内拝観をするのも一苦労である。
そこで私は満員の見物客に紛れ込んで、金色堂へ入るのではなく、いったんそばの、入り口にたたずんでいた。人の切れ目を待っていたのである。
しかし人は切れ目なく続いて、出たり入ったりしている。
人波は少なくなることはあっても、途切れるということがないので、私はあきらめ、堂内に入った。金色堂内には管理人とおぼしき人がいて、ブースの中に坐っていた。
私はぼんやり須彌壇の方を眺めていたが、突然人波が途絶えた。堂内には私を除いて誰もいなくなった。管理人もどこかに行ったらしくブースも無人である。
そのとき私は体がまるで雷にでも打たれたかのように、ジーンと音がして頭の髪の毛が逆立った。
存在するのは藤原3代のミイラと私しかいない。ぞぞっと身ぶるいがして、
髪の毛が逆立った。なぜそうなったのか判らない。恐怖にも似た不思議な体験である。
いったい何が起こったというのであろうか。強いてこじつけをするならば、千年余りの時を経て、この藤原の誰かの魂と私の魂が感応現象を起こしたということではあるまいか。そうとでも考えなければ私には、なぜこういう現象が起きたのか説明がつかない。
確かに肉体は7、80年もたてばこの世から姿を消すが、魂は果して体の消滅とともに消滅するものであるのだろうか。その答えは誰にも判らない。
気がついたときには、再び大勢の人が身の回りに、がやがや立ちさわいでいた。
夢のような不思議体験であった。そのあと何か変化が起こったかというとそれは何もない。金色堂で瞬間的に、私が体験した不思議現象である。
平泉が世界遺産に登録されるとか、登録の俎上に載ったとか、マスコミ報道がある。それを耳にした途端、頭の中に20年以上も昔に、訪ねた金色堂のあの様が突如として胸によみがえった。
平泉駅から北の方向に小一時間ほどゆっくり歩いていくと、中尊寺にたどり着く。駅を降りて、自転車に乗らずに歩いた。出来るだけ当時の様子に近い状態を味わいたかった。
御所跡とおぼしき跡は今は水田になっていて、昔の面影はしのべないが、こんな処に奥州の極楽浄土があったのかと感慨深かった。
小高い丘にのぼると柳御所のあたリが一望できる。
同じ血を分ける兄弟であリながら、又平家追討では兄頼朝の為に多大の貢献をした義経が、最後はここ奥州で果てるとは何という運命の皮肉か。
人間は一歩まちガえば死に至る恐ろしい運命を持ってる。そんなことを考えながら、坂をゆっくり歩いた。
歴史の流れから見てみると、確かに頼朝のほうに先見性がある。後白河や取り巻きの貴族なんて信用はできないし、義経のやっていることは貴族政治に従属した考え方である。確かに頼朝第一の家来・梶原との確執もあるようだが、それは歴史の流れについての判断の理解の仕方による対立というよりは、感情的な対立のほうが大きいようだ。
義経の言い分もわからいではないが、彼の考え方は歴史の新しいページを開くものではなくて、従来の貴族政治の下での政治体制の維持、すなわち現体制の維持が根底にある。
ところが頼朝は違う。貴族政治から脱却して新しい武家政治を打ちたてようとしている。ここのところが両者の決定的な違いである。
人間には感情と理性があり、両者のバランスが必要である。
情の面においては義経に涙を寄せる人は多いことだろうが、歴史的にみるとやはり冷血漢に見える頼朝の決断の方が正しいように思える。
いずれにせよ決定的な対立となり、生死を分けた義経の悲劇は歴史上の出来事とはいえ、いつの時代においても、日本人の涙を絞ることであろう。
まるで小説で悲劇のヒロインを描いたかのような義経の生き様である。
ひょっとしたらこのストーリーは神が書いて、役割を演じたのが頼朝であり義経であり、その中の中心となったのが平家なのかもしれない。平家物語を読むとそんな感じもなくはない。
金色堂は(覆堂は)何百年かに、一度移動するみたいである。僕が見たのは杉木立の方へちょっと段になっていた処に在った。移動前の覆い堂はちゃんと保存されて残されている。
名所であるから、連休とも重なって全国から大勢の観光客が来ていた。
とくに有名な金色堂は我もわれもと押しかけるので、ラッシュアワーの満員電車のように、肩が触れやって堂内拝観をするのも一苦労である。
そこで私は満員の見物客に紛れ込んで、金色堂へ入るのではなく、いったんそばの、入り口にたたずんでいた。人の切れ目を待っていたのである。
しかし人は切れ目なく続いて、出たり入ったりしている。
人波は少なくなることはあっても、途切れるということがないので、私はあきらめ、堂内に入った。金色堂内には管理人とおぼしき人がいて、ブースの中に坐っていた。
私はぼんやり須彌壇の方を眺めていたが、突然人波が途絶えた。堂内には私を除いて誰もいなくなった。管理人もどこかに行ったらしくブースも無人である。
そのとき私は体がまるで雷にでも打たれたかのように、ジーンと音がして頭の髪の毛が逆立った。
存在するのは藤原3代のミイラと私しかいない。ぞぞっと身ぶるいがして、
髪の毛が逆立った。なぜそうなったのか判らない。恐怖にも似た不思議な体験である。
いったい何が起こったというのであろうか。強いてこじつけをするならば、千年余りの時を経て、この藤原の誰かの魂と私の魂が感応現象を起こしたということではあるまいか。そうとでも考えなければ私には、なぜこういう現象が起きたのか説明がつかない。
確かに肉体は7、80年もたてばこの世から姿を消すが、魂は果して体の消滅とともに消滅するものであるのだろうか。その答えは誰にも判らない。
気がついたときには、再び大勢の人が身の回りに、がやがや立ちさわいでいた。
夢のような不思議体験であった。そのあと何か変化が起こったかというとそれは何もない。金色堂で瞬間的に、私が体験した不思議現象である。
平泉が世界遺産に登録されるとか、登録の俎上に載ったとか、マスコミ報道がある。それを耳にした途端、頭の中に20年以上も昔に、訪ねた金色堂のあの様が突如として胸によみがえった。