鎌倉新仏教、叡尊について9,726
仏教に限らず宗教全般にふるわないご時世である。人心が物質文明に奪われて、心を問題にする宗教にまで目が届かない。
日本仏教に限れば、百済から、五三八年または五五二年にもたらされた。
これを受け入れるかどうかで、崇仏、排仏の両派に分かれて戦争が起こり、聖徳太子の崇仏派が勝利を収め定着することになった。
以後奈良時代になると鎮護国家仏教となり、時の権力者即ち貴族階級と結びついた。
聖武天皇は全国に国分寺制を敷き、その総本山が東大寺である。いわゆる南都六宗である。これら仏教と政治が結びついて、仏教が世俗的権力や富をもち僧兵まで養うようになり、堕落の方向に向かった。
仏教勢力の政治への関与を嫌った桓武天皇は新天地京都に都を移して、奈良仏教とは違った二宗、即ち天台、真言宗を擁立させた。藤原時代になると浄土教が広まったが、鎌倉時代になると比叡山で修行学問した人達が宗派を独立させた。
いわゆる鎌倉新仏教である。浄土宗、日蓮宗、禅宗などがそれである。
そうなると当然旧来の奈良仏教と対立摩擦が生じる。
いわゆる鎌倉新仏教は旧仏教や真言天台宗が求めた厳しい戒律や学問や寄進などを重視せず、ただ一つの道、念仏や題目を唱えることによってまた座禅をすることによって、救いに預かるととなえ、広く武士や庶民に門戸を開いて信者を増やしていった。
これに対して勿論旧仏教のほうでも、改革が起こる。法相宗の解脱、華厳宗の明恵、律宗の叡尊などが南都仏教復興に力を入れた。
鎌倉時代の代表的な最も活躍した僧 といえば、日蓮、法然、親鸞、道元が常識的には頭に浮かぶが、平雅行大阪大学教授によると叡尊らしい。
叡尊といえば彼の七〇〇年遠忌には西大寺で讃歌を奉納演奏したことがある。彼は大和郡山の出身で貧しい人や病人の救済、治療など社会事業に尽くした。
北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと)は鎌倉時代に奈良につくられたハンセン病などの重病者を保護・救済した福祉施設。大正10年3月3日、国の史跡に指定された。
彼が活躍した時代に蒙古襲来があり、彼は敵味方の一兵卒の命を損なうことなくこの戦争が終わるように祈ったという記述があるのを思いだして、敵味方に関係なく命の大切さを尊重していた彼の教えに敬服した事を今も覚えている。
命についてそのような感覚を持ち合わせていないと、眞の意味の社会事業なんて出来たものじゃない。だから平教授の説(鎌倉時代に一番活躍した僧は?叡尊である)にはことのほか興味をもって拝聴した。
普通鎌倉仏教で活躍した僧はというと、法然、日蓮 親鸞、道元 栄西などを思い出すが、叡尊の活躍ぶりは直ぐには頭に思い浮かばない。
その後江戸時代になって、叡尊の教団は旧仏教の律宗と真言宗に吸収されて、真言律宗となり、その本山は大茶盛で有名な西大寺で、今日に至っている。
仏教に限らず宗教全般にふるわないご時世である。人心が物質文明に奪われて、心を問題にする宗教にまで目が届かない。
日本仏教に限れば、百済から、五三八年または五五二年にもたらされた。
これを受け入れるかどうかで、崇仏、排仏の両派に分かれて戦争が起こり、聖徳太子の崇仏派が勝利を収め定着することになった。
以後奈良時代になると鎮護国家仏教となり、時の権力者即ち貴族階級と結びついた。
聖武天皇は全国に国分寺制を敷き、その総本山が東大寺である。いわゆる南都六宗である。これら仏教と政治が結びついて、仏教が世俗的権力や富をもち僧兵まで養うようになり、堕落の方向に向かった。
仏教勢力の政治への関与を嫌った桓武天皇は新天地京都に都を移して、奈良仏教とは違った二宗、即ち天台、真言宗を擁立させた。藤原時代になると浄土教が広まったが、鎌倉時代になると比叡山で修行学問した人達が宗派を独立させた。
いわゆる鎌倉新仏教である。浄土宗、日蓮宗、禅宗などがそれである。
そうなると当然旧来の奈良仏教と対立摩擦が生じる。
いわゆる鎌倉新仏教は旧仏教や真言天台宗が求めた厳しい戒律や学問や寄進などを重視せず、ただ一つの道、念仏や題目を唱えることによってまた座禅をすることによって、救いに預かるととなえ、広く武士や庶民に門戸を開いて信者を増やしていった。
これに対して勿論旧仏教のほうでも、改革が起こる。法相宗の解脱、華厳宗の明恵、律宗の叡尊などが南都仏教復興に力を入れた。
鎌倉時代の代表的な最も活躍した僧 といえば、日蓮、法然、親鸞、道元が常識的には頭に浮かぶが、平雅行大阪大学教授によると叡尊らしい。
叡尊といえば彼の七〇〇年遠忌には西大寺で讃歌を奉納演奏したことがある。彼は大和郡山の出身で貧しい人や病人の救済、治療など社会事業に尽くした。
北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと)は鎌倉時代に奈良につくられたハンセン病などの重病者を保護・救済した福祉施設。大正10年3月3日、国の史跡に指定された。
彼が活躍した時代に蒙古襲来があり、彼は敵味方の一兵卒の命を損なうことなくこの戦争が終わるように祈ったという記述があるのを思いだして、敵味方に関係なく命の大切さを尊重していた彼の教えに敬服した事を今も覚えている。
命についてそのような感覚を持ち合わせていないと、眞の意味の社会事業なんて出来たものじゃない。だから平教授の説(鎌倉時代に一番活躍した僧は?叡尊である)にはことのほか興味をもって拝聴した。
普通鎌倉仏教で活躍した僧はというと、法然、日蓮 親鸞、道元 栄西などを思い出すが、叡尊の活躍ぶりは直ぐには頭に思い浮かばない。
その後江戸時代になって、叡尊の教団は旧仏教の律宗と真言宗に吸収されて、真言律宗となり、その本山は大茶盛で有名な西大寺で、今日に至っている。