田園都市の風景から

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老後の初心

2018年01月10日 | 読書・映画日記

 「能-650年続いた仕掛けとは」  安田登著(新潮新書) 著者は下掛宝生流の能楽師。

 本書の冒頭に、能が長年にわたって続いてきた理由として「初心」と「伝統」が挙げられている。人口に膾炙する「初心忘るべからず」という言葉は、観阿弥・世阿弥親子が残したもっとも有名な言葉だそうである。私達はそれを、物事を始める時の初々しい気持ちを忘れてはならないという意味で理解している。

 しかし著者は「初」の衣偏と刀の字解から、「折あるごとに古い自己を裁ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならない、そのことを忘れるな」という意味だという。それは環境変化への対応力であり、自己再生への飛躍である。昆虫の変態に例えることもできるだろう。

 内実は変化しているにもかかわらず、過去からの自己イメージにとらわれていると成長が止まってしまう。それを裁ち切り、新しい身の丈に合った自分に立ち返る。その時に必要なのが「初心」である。世阿弥はこれを「時々(じじ)の初心」ともよんでいる。

 芸事の世界ではこれを段位や免状、そしてお披露目などの制度に組み込んでいる。そういうときの師匠と弟子との呼吸の間合いは、卵が孵化する時の「啐硺の機」に似ているらしい。習い事をしていない私にはその機微は想像するしかない。

 また著者は世阿弥の「老後の初心」という言葉を紹介する。どんな年齢になっても自分自身を裁ち切り、新たなステージに上がる勇気が必要だと。「命には終わりあり、能には果てあるべからず」とも世阿弥はいっている。 

 年老いてきて、これまで身に付いたものや過去の栄光がある。一方で残された自分の生も見えてくる。そういうなかで果たして自分が脱皮し、変わり得るかということである。それが「危機」であるか「チャンス」であるか。その選択を迫るのが「初心」であると著者は述べている。

 さてさて、能は知らず伝統芸能や武道には「道」と名がつくものが多い。道を究めるには初心忘るべからずである。人生にも人の道があるならば「老後の初心」も大事ではないか。時代の潮流変化を遠目に見、感性がガラパゴス化している私にとって刺激的な言葉である。

  フリーフォトより

 

 

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