不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

ねずさんのひとりごと「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ・・・」

2020年06月08日 | 政治や歴史など
歴史の面白さが最近わかってきたら、
時々読ませていただいている「ねずさんのひとりごと」が最近面白くなりだした。
習ってきた歴史とは全く異なる視点から興味のある記事の一つを下にコピペしておく。
小さい頃から疑問に思っていた謎が一つ解けたのだ。

---------------------------------------

ねずさんのひとりごと「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ・・・」
https://nezu3344.com/blog-entry-4176.html



我が国では1〜10までの数字を数えるとき、
昔ながらの「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな、や、ここ、とぉ」
という言い方と、
「いち、にぃ、さん、しぃ、ご、ろく、なな、はち、くぅ、じゅう」という言い方があります。
これを数詞(すうし)といいます。

江戸時代でもそろばんなどでも明らかなように、算術に使うときは「いち、にぃ、さん、し・・・」の方を用います。
昔も今も「1+2」を、「ひぃたすみぃ」とは言いません。
「いちたすに」です。

にもかかわらず、ほんの少し前までの日本では、小学校にあがる前の子どもたちに数を教えるときは「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ・・」という数え方を教えました。
算術では「いちたすに」なのに、どうして「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ・・」という言い方を教えたのかというと、そこに実に深い意味があります。

このことは、以前にも一度当ブログに書いているのですが、あらためて考察してみようと思います。

日本は3万年前には磨製石器を用いていた、世界最古の国です。
なぜここで磨製石器なのかというと、なんの加工もしていないただの自然石を道具として用いたのが旧石器時代、石を人が使いやすいように加工して用いるようになったのが新石器時代で、新石器時代に使われた「人が加工した石器」のことを磨製石器と呼びます。

世界で磨製石器が用いられるようになったのは、いまからおよそ8千年前だと言われています。
ところが日本では3万年前にはすでに磨製石器が使われていたことが、明らかになっています。
最初に発見されたのは昭和21年で、群馬県の岩宿遺跡からおよそ3万年前の磨製石器を発掘しています。
ところがその後の調査で、さらに下層から、およそ3万5千年前の磨製石器が発掘され、他にも日本国内では、秋田から奄美群島まで135箇所から400点余の磨製石器が出土しています。
いずれも3〜4万年前のものです。

このことについて、英国のJ・ラボックという考古学者は、
「日本列島の住民は世界に
 先駆けること二万数千~三万年前に
 新石器時代を迎えていた。」 
と述べています。

世界の磨製石器の出現は、紀元前9千年~7千年頃に出現しますが、突出して早い時期に出現したものとして、
 シベリアの2万年前のもの
 ロシア南西部の紀元前1万6000年前のもの。
 オーストリア中部の2万9000年〜2万1500年前のもの
など数例があります。
ところがこれらは異常に早過ぎる磨製石器であり、作成経緯等が研究されているのですけれど、すべて不明とされています。

ところが日本では、3万5千年前の石器から、1万6500年前の土器、その後の縄文式土器の変遷へと、歴史がちゃんと連続しているわけです。
これは実にすごいことです。

ちなみに長野県の貫ノ木(かんのき)遺跡から出土の55点、および沼津で発掘された3万年前の磨製石器は、いずれも伊豆諸島の神津島から運ばれてきた石材を用いていることが確認されています。
万年の単位で歴史を考えるときには、海面の高さがいまよりも140メートルも低く、いま大陸棚を形成しているところが、かつては陸地だったりもしたのですが、伊豆半島から神津島までは、水深が深いため、神津島が本州と陸続きになったことはありません。

つまり3万年前に日本列島に住んでいた私達の祖先は、そんな途方もない大昔に伊豆半島と神津島を往復して、しかも石を運んでくるということができるだけの航海術をすでに持っていたということです。
これまた、実にすごいことです。

ちなみに縄文時代の船としては、全国で約160艘がこれまでに発見されていますが、それらはいずれも丸木舟であるといわれています。
いずれも木を焦がして中を削ってくり抜いて船にしたものとされていますが、内海で航海するには、それで良いとしても、外洋航海をするときには、船の安定を増すために、おそらくアウトリガー付きの船を用いていたであろうといわれています。
ちなみにアウトリガー付きの船は、いまでもポリネシア地方などで使われていますが、十分に外交航海に耐えるものです。

3万年という歳月は、途方もない歳月です。
ここでなぜ磨製石器にこだわるかというと、一般に世界中の民族がもつ神話は、磨製石器登場の時代に作られたとされているからです。
なぜかというと、神話という体系を持つためには、一族が統一された目的を持って社会を維持する社会体制が必要だからです。
社会体制保持のために神話的思想が必要になるのです。
そして体制が生まれるためには、磨製石器の登場が要素となるというのが世界の考古学会の常識です。

すこし余計な話をしますと、猿の集団がそうなのですが、だいたい50頭くらいの集団なら、「アーウー」とか「キッキキー」といった擬態語だけでおよその意思疎通はできてしまうのだそうです。
ところが集団が150名を超えるようになると、集団内で社会的分業が始まり、互いの意思疎通のために言語が発達するようになるのだそうです。
とりわけ男性は狩りのために村を長期間留守にしたりしますが、そうなると村に残った女性たちにとっては、夫の浮気が一番の気がかりで、そのため特に情報交換のための言語中枢が発達したのだとか。
いまでも口喧嘩で、女房に旦那が勝てないのは、人類誕生以来の歴史が土台になっているわけです(笑)。

さて、集団組成のための神話が発達するようになると、集団の規模は食料をもたらすことができる範囲で、次第に大きなものとなっていきます。
そうして生成されたのが人々が生活する「ムラ」で、ムラの向こうにはお腹を満たすための「ハラ」があり、その向こうには「ウミ」と「ヤマ」があります。
そして「ムラ」の中には、「イエ」があります。

こうして日本語が形成されていくわけですが、神話に基づく神々と交信するために、人々は鹿の骨や亀の甲羅(こうら)を焼いて占いをし、神々の神託を得ようとしました。
骨を焼くと、そこにひび割れができます。
そのひび割れのパターンで、神様のご意向を知ろうとしたわけです。

ひび割れは、縦の一本割れから、二本割れ、ギザギザ割れ、穴が開くもの等々、様々な形を生みますが、私達の祖先は、それらを47種類にパターン分けし、それぞれに47音の音を当てることで名前を付けました。
その名前が、「あいうえお」の母音と、「かきくけこ、さしすせそ」といった母音+子音による音となり、その一音ごとにひび割れのパターンが当てられ、それが次第に記号化して、これが文字になりました。
いわゆる神代文字のはじまりです。

ただし、「/」や「\」といった記号だけでは、その意味がわかりません。
そのために、一音ごとの意味を解説するための記号も開発されました。
それがホツマ文字やカタカムナなどの記号文字です。
神代文字には、ひび割れのパターンそのものを示す文字と、これを解説するための記号文字の二種があるのはこのためです。

なかでも大切な音は、そのままものを数えるときに使う数詞にすることで、誰もが共通する文化にまで育てています。
それが「ひぃ、ふぅ、みぃ・・・」の数詞です。
ですから昔は「ひふみ」といえば、そのまま神様のお言葉とさえも言われたものです。

では、その「ひふみよ・・」はどのような意味を持っているのかと言うと、これは歴史が古いだけに諸説あります。
たとえば「ひふみ」は、それぞれ火・風・水を意味するという説もありますし、「ひ」は太陽だという説もありますし、あるいは根源のことという説、開くことを意味するという説、どれもそれぞれに歴史があり、説得力があります。
そうしたなかで私なりに納得できた意味が次のものです。

「ひ」 霊(ひ)のことです。
「ふ」 生(ふ)のことです。霊(ひ)から生命が誕生します。
「み」 身(み)誕生するのが「身」です。
「よ」 世(よ)身が織りなす世です。
「い」 齋(い)「いつき」とも言いますが、不浄を清めた神聖なという意味です。

「む」 無(む)は神聖を意味し無であることによって億兆に心が通います。
「な」 菜(な)食のことです。
「や」 家(や)住まいです。
「こ」 子(こ)子供たちです。
「と」 戸(と)戸がひらきます。


昔は子供が2歳か3歳くらいになると、たとえばお風呂から出るときに、お父さんに「十数えたら上がって良いよ」などと言われて、子どもたちは熱心に指を折りながら「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな、やぁ・・・」と数えたわけです。

そして氏神様に参拝に行くと、そこで二礼二拍手一礼をして、神様にご挨拶をします。
そのとき、二拍するとき、はじめに両手を合わせ、右手をちょっとだけ(左手の第一関節くらいまで)引きます。
なぜそうするのかというと、何事も「ひ(霊)」が上、「み(身)」が下だからです。
そして神様と対話するのは、肉体である「み(身)」ではなく、自分の「ひ(霊)」です。
だから両手を合わすときも、「み(身)」をちょっと引きます。
二泊手したあとには、元通りに両手の指先を合わせます。
ご祈念が終わったら「ひ」と「み」を元通りに合わせておかないと、体と魂が別々になってしまったままになるからです。

「ひ」と「み」の関係がわかると、なぜ左大臣と右大臣なら左大臣が上なのかもわかります。
やはり「ひ」と「み」の関係だからです。
明治のはじめに、太政官を右院、左院、正院が置かれましたが、これなども「ひ」と「み」の関係がわかると、その趣旨が普通に理解できます。
つまり、「ひ」と「み」の関係は、我が国古来の文化なのです。

このように、日本語の47音(50音とも言いますが、わ行が3文字欠けますので実際には47音になります)には、それぞれに意味があります。
せっかくですので、「と」のあとを記すと次のようになります。
「ひふみ よいむなや こともちろらね
 しきる ゆゐつわぬ そをたはめくか
 うおえ にさりへて のますあせゑほれけ」
これが大祓詞(おほはらいことば)の「ひふみ祝詞(のりと)」で、限りない神の弥栄を言い表したものといわれています。

ちなみに「も」以下は次のようになります。
「も」 百(も)
「ち」 千(ち)
「ろ」 萬(ろ)よろずとも言います。
「ら」 億(ら)
「ね」 兆(ね)
「し」以下はご興味あったらご自身でお調べいただければと思います。

要するに、「ひぃ、ふぅ、みぃ・・・」という数詞は、それがそのまま祓詞(はらいことば)になっていることに加え、すくなくとも1〜10までを知ることで、そのまま日本文化の奥底を知ることになるわけです。
これを物覚えの良い幼いうちに魂に叩き込む。
そのために幼な子に、計算用の「いち、にぃ、さん」とは別に、というより先に、「ひぃ、ふぅ、みぃ・・・」と教えたのです。

最近、よく思うのですが、たいせつなことは、ほんの身近なところにあります。
それが古い歴史を持つ日本人の知恵だったのです。

お読みいただき、ありがとうございました。

-----------------------------



Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長?倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表?日本史検定講座講師&教務。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国、香港に国家安全法制導入の決定採択(2020年5月28日)

2020年05月28日 | 政治や歴史など


本日28日、共同通信の速報で「中国、香港に国家安全法制導入の決定採択」と出た。

これで香港の「一国二制度」は崩壊してしまうだろう。

香港の「一国二制度」は、 1997年7月に英国から返還された香港に対し、
中国は外交・防衛を除く分野で高度の自治を50年間維持すると約束したものである。
つまり、2047年まで中国の一部である香港に、中国本土とは異なる制度を適用することを指すもので、
香港は特別行政区として独自の行政、立法、司法権を有し、言論・集会の自由や、通貨やパスポートの発行権を持つものである。
今回の国家安全法制導入は、この約束を反故にするののであり断じて容認すべきものでは無い。

しかし中国という国はひどい国である。世界の癌と言っても良い。
モンゴルと満州を滅ぼし、独立国家であった東トリキスタンとチベットに侵略し略奪した。
そして今、香港に対し露骨に支配を強めようとしている。
いずれ中国の魔の手は、台湾に及び、尖閣諸島を皮切りに沖縄や日本本土も狙ってくるだろう。

日本人の好む遠慮や気配りや寛容さは中国には一切通じない。
何よりも「寛容の国」である優しいチベットがどうなっているか考えたほうが良い。
自立しているチベット(他国)に対し「チベットを帝国主義者の手から解放する」と言って軍隊を送り込んだのだ。
東トルキスタンでも多くのウイグル人の命が奪われ、言語、文化、宗教が破壊されつつあるのだ。
南モンゴル(内モンゴル自治区)でも数十万人の若者が虐殺された。
満州なんか、いつの間にやら飲み込まれてしまったのだ。

思うに、中国政府に対し、

内モンゴル自治区を南モンゴルに返還させ、新疆ウイグル自治区を東トルキスタンに返還させ、
青海省をチベットに返還させ、甘粛省と東北三省を満洲国(作ろう!)に返還させ、
埋め立てた南沙諸島を元に戻しさせ、台湾を独立国として認めさせ、ついでに香港を独立させ、
その勢いで上海とマカオも独立させてしまいたいものだ。

それなのに日本の政府は抗議の一つもしない。
自民党は腰砕けだし、野党は野党でだんまりを決め込んでいる。
いったい侍の国である日本はどうしたというのか?

日本国憲法の前文に、

平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。
われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。


とあるならば、現在進行中のチベットやウイグルに対して何の行動も起こさないのはおかしい。

われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、

無視しているではないか? 昔も今も・・・

中国の脅しには決して屈してはならない。
はったりや脅し、嫌がらせ、軍事的な挑発にも乗ってはいけない。
(尖閣諸島は日本が先に手を出すのを待っていて、自国の漁民を守るためと軍事行動を起こしたいのだ)
力を背景に、どんな無理難題でも押し通そうとするのが中国共産党のやり口である。

いま中国に抗議をしている対抗勢力で頼みになるのは米国だけである。
トランプ氏がベストとは言えないが、この際目をつぶって手を組もう。安倍よ、なんとかしろ!
いまこそ中国帝国主義に対抗し、中国共産党を潰さなければ、近い未来に禍根を残すのは目に見えているのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギャンブルについて

2020年05月23日 | 政治や歴史など

(画像は新潟日報のサイトよりお借りしました・新潟日報モア

東京高検の黒川弘務検事長が、新聞記者らとの賭けマージャンで、
訓告処分を受けたものの、賭博行為を追及されることなく約7千万円の退職金が支払われるという。

22年前に、漫画家の蛭子能収(えびすよしかず)氏は賭け麻雀で現行犯逮捕された。
33年前に、元西武ライオンズ監督で現在野球解説者の東尾修氏も賭け麻雀で逮捕された。

つまり賭け麻雀は立派な犯罪なのだ。
賭博罪なら「50万円以下の罰金または科料」である。
朝日新聞によると1回の勝負は数千円~2万円程度と発表した。
ある捜査幹部は「仲間内の遊びの範囲内であれば事件化は難しい」と言ったとか。

それはおかしいやろ!

と思うのは私だけではあるまい!

今回のように常習性が認められるような賭け麻雀なら常習賭博で重罪だろう。
少なくとも過去に黒川弘務氏と賭け麻雀した新聞記者全員が逮捕されるべきである。

今回は新聞記者による黒川弘務検事長への接待麻雀である。悪質である。
全員逮捕して立件しなければ、今後、賭け麻雀は合法にしなければならないはずだ。
合法にしないでうやむやにして、弱者のみを犯罪者にするような事を許してはならない。

パチンコだって、明らかなギャンブルにも関わらず、
景品買取所がパチンコ店に隣接して常設しているのを無視し、
「お祭り会場の射的の景品と同じことです」などと良く言えたもんだ。

何だかこの国はおかしい。
いまのままでは法治国家とは言えない。
追及も無く7千万円もの血税が支払われる異常さを問題視しよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武漢ウイルス(新型コロナウイルス)に思う事あれこれ雑記。

2020年04月06日 | 政治や歴史など
世界の感染者数と死亡者を比べたら、日本だけ極端に数値が小さい。
この事実を報じないマスコミが多い。
同時になぜ少ないのかわからない。
隠ぺいしているのでは無いことは確かなようだ。





--------------------------------

ウイルスはある一定以上の数が体内に入らなければ発症しないというが、
発症しない程度のウイルスを常日頃から体内に入れていれば、
それはワクチンと同じように抗体を作り免疫力を生んでいるのでは無いか?

とすると、ここ何年も中国からの観光客がとても多かったので、
知らない間に適度な新型コロナウイルスを吸い込んでいて、
知らない間に日本人に免疫力が出来ていたのでは無いか?

--------------------------------

似非コンサルタントは、横文字を駆使して話を煙に巻くことが多いが、
小池都知事が「ロックダウン」や「オーバーシュート」などという、
初めて聞くような言葉を使うと似非コンサルタントと同じではないかと勘繰りたくなる。

小池都知事がロックダウン(都市封鎖)というならば、
どのように都市封鎖をするのか具体的に説明しなければならない立場だろう。
横文字を使って定義を曖昧にし、不安を煽るだけなのはいかがなものか。

--------------------------------

安倍首相が全家庭にマスク2枚を配布すると発表した。
この件を朝日新聞が無茶苦茶に叩いていたが、
その朝日新聞が通販でマスク2枚を3,300円で販売している事実を知って笑ってしまった。


(通販朝日 洗える立体ガーゼマスク2枚セット3,300円)

3,300円の高額マスクを売るのに政府が無料配布するのは確かに困るというわけだ。

朝日新聞は沖縄の珊瑚礁の自作自演のように、いかにも正義者ぶっているが、
読者を間違った方向に誘導するので報道機関としては失格だと以前から思っている。
良識のある人は読んではならない新聞の一つである。

--------------------------------

しかしながらマスク2枚を配布すると堂々と発表した安倍首相もいかがなものか。
マスク2枚が悪いとは言わないが。急激に悪化している経済崩壊の救済が先だろう。
マスク2枚など大臣程度にまかせ、現金支給を先に決定し実行すべきである。

しかしながら、岸田も駄目だわ。30万円支給は全世帯では無いらしい。
手続きもややこしくなりそうだし限定ではその効果も薄い。
送るマスクと一緒に30万円の政府発行小切手を同封すればいいのに。
小切手は課税収入扱いにすれば相対的に弱者に有利になると思うのだ。

いずれにせよ実施は5月以降だということで、緊急事態に間に合わない。
岸田。もう少し頭の良い人物だと思ったがやはり財務省の飼い犬だったわ。
麻生もダメだし、岸田も駄目となったら自民党の将来も先が見えている。
今こそ頑張るべき野党も無能で的外れでばかりだしねえ。何やってんだか。

--------------------------------

日本は古代から「祓いたまえ清めたまえ」の国である。
きれいな水が蛇口から出る水道がどこにでもあり、
手を洗い、口を漱いで身を清める神道の儀式は日常生活でも現れる。
外出から帰ったら靴を脱ぎ、手を洗い、ウガイをし、部屋着に着替える。
着ていたものは頻繁に洗濯し、毎日のようにお風呂にも入る。
朝晩の歯ブラシ、トイレに行けば必ず手を洗うのが普通である。

古代から、夏は高温多湿、冬もそこそこ寒くなる風土で、
健康な生活を送る知恵は延々と伝えられてきたのかも知れない。
欧米に比べ、武漢ウイルス(新型コロナウイルス)の影響が少ないのも、
日本の生活風習に一因があるような気がしている。

--------------------------------

本当かどうかわからないが。。。
ネットで検索して「さもありなん」と目についたもの列記。

1) 中国共産党は、新型コロナウイルスが武漢発祥である事を隠蔽しようとしている。
2) そのため、中国共産党の指示で、世界中の中国人がドアや手すりに唾をかけている。
3) 同様に国家ぐるみで世界中でマスクの買い占めをしている。
4) 中国のマスク工場で、仕入れ実績のある日本企業にマスクを出荷しない。
5) そのマスクは共産党が買い占めている。政治的な戦略物資として使っている。
6) 普通に考えてパチンコも規制すべきなのに規制しないし報道もされない。
7) 計画停電の時もパチンコだけ規制を逃れた。マスコミ、政治家、警察との癒着である。
8) 基本的にコロナウイルスは普通の風邪(各種のウイルスが原因)と同じであるという事実。
9) 感染数や発症数ではなく、死者数だけで判断する方が見誤らない。
10) 普通のインフルエンザの方が新型コロナウイルスよりはるかに死者が多いのが事実。
11) 今の状態は、風邪を引いた者全員が病院に行って風邪を広めて大騒ぎになっている・・のと同じ。
12) 現在の日本は(欧米に比べて)小康状態であることは間違いない。
13) インフルエンザの患者が例年より少ないので、そう簡単に医療崩壊は起こらない。
14) 欧米のコロナウイルスはすでに致死率が高い「スーパー新型コロナウイルス」に変異しているのかも知れない。
15) その「スーパー新型コロナウイルス」が日本に入ってきたらバタバタ死ぬようなことになるかも知れない。
16) 自分が感染していなければマスクは気休め程度でしか無い。マスクを過信してはならない。
17) 感染者はどのように生活していたのか?マスクや手洗いはどのようにしていたのか?・・を知りたい。

ガセやフェイクかも知れないのでご自分で調べて確認してください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韓国元徴用工の肉声(週刊ポスト2019年12月20・27日号)

2019年12月17日 | 政治や歴史など
韓国元徴用工の肉声 本当に金による解決を望んでいるのか
(2019年12月13日 7時0分:NEWSポストセブン)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191213-00000007-pseven-kr

 12月下旬、1年3か月ぶりの日韓首脳会談が実現しようとしている。そこで焦点となるのが徴用工問題だ。昨年末の韓国最高裁の判決によってくすぶり続けている問題は、実際に「元徴用工」たちの肉声を聞くことによって、違う核心が見えてくる。ジャーナリストの赤石晋一郎氏が現地取材で得た証言とは──。



 * * *

 ソウル市の郊外、城南市で待ち合わせした老人は、独りで暮らす自宅で取材に応じてくれた。

「日本人のほうが韓国人より、いい人が多かったと私は考えています。私が炭鉱で働いていた時代、日本人にはとても親切にされた思い出があります」

 こう語る崔漢永氏(91)は、徴用工として日本で働いた経験を振り返り、「私は日本人が好きでした」と語った──。

 11月22日に韓国政府が下したGSOMIA継続の決断以降、日韓関係の焦点として再浮上しているのが「徴用工問題」だ。

 昨年末に元徴用工が日本企業を訴えた裁判で、韓国大法院(最高裁)は日本製鉄(元・新日鉄住金)、三菱重工に対して、相次いで賠償を命じる判決を下した。同判決を契機に韓国内では徴用工問題は“奴隷労働”の歴史だったという議論が沸騰し、ソウル龍山駅前などの各地に徴用工像が相次いで建設される事態となった。

 そうした状況の解決を目指し、11月末に文喜相・国会議長が「記憶・和解・未来財団」の設立を提唱した。

「この文議長案は日韓企業と個人による自発的寄付金をベースとして財団を設立するというものでしたが、元徴用工に高額な慰謝料を支払うという方針をめぐっては、異論の声も出ている」(ソウル特派員)

 韓国大法院判決では日本企業が元徴用工に対して1億ウォン(約910万円)の慰謝料を支払う判決が出た。さらに文議長案では元徴用工を対象に1億~2億ウォン(約910万~1820万円)を支払う予定といわれ、慰謝料は高騰の一途を辿っている。

 しかし、果たして当事者である元徴用工たちは、本当に金による解決を望んでいるのだろうか。

◆「日本人も同じ賃金だった」

 冒頭の崔漢永氏が日本に渡ったのは15歳の時だったという。

「私は自分の意志で日本に行きました。当時、父親が傷害事件を起こして逮捕され、罰として日本での強制労働を命じられた。しかし父を失うと9人の大家族なので困る。そこで私が代理として『日本に行く』と手を上げました。年齢も18歳と偽りました。

 日本での働き先は、福岡県飯塚市にある三菱炭鉱でした。炭鉱には私以外にも何百人もの動員された朝鮮人がいました」(崔氏)

 徴用工として日本で働いた崔氏。しかし、日本人からの差別を感じることはなかったと振り返る。

「私は坑道を作る仕事を主にしていました。現場では日本人と朝鮮人が一緒に働いていた。休みは月に1日か2日でしたが、日本人も朝鮮人も同じ労働条件で、同じ賃金をもらっていました。朝鮮人だからと差別や暴行を受けるということもなかった。

 特に私は15歳と若かったこともあり、上司のサキヤマさん(日本人)に大変可愛がられた。『私の娘と結婚しないか?』と言われたこともありました」(同前)

◆「賠償裁判では何も得られない」

 崔氏は日本人に悪感情はないという。私が「徴用工に慰謝料は必要だと思うか?」と問うと、崔氏はこう語った。

「(元徴用工が)裁判を起こしても何も得られるものはないよ。この高齢でお金を手にしてもしょうがないだろう。私はお金もいらないし、補償をして欲しいとも思わない」

 そのハッキリとした物言いは、慰謝料ありきで徴用工問題を語る文在寅政権に、静かに異を唱えているようにも思えた。

 同じように差別はなかったと語るのは金炳鐵氏(96)だ。金氏は20歳のときに地元・麗水郡庁からの徴用命令を受けた(※注)。行き先は佐賀県だった。

【※注/戦中の労働力不足を解消するために1939年に制定された国民徴用令によって、日韓から多くの人間が動員された】

「私が派遣されたのは佐賀県西松浦郡のウラサキ造船所でした。私は資材課に属し、工場内で出る屑鉄を集める仕事をしていました。集めた屑鉄は、鉄工場に輸送され再び製鉄されるのです。造船所で働く2000人のうち、700人が朝鮮人でした。朝9時から4~5時頃まで働き、日曜日ごとに休みはありました」

 ウラサキ造船所とは、当時、佐賀県に存在した川南工業の浦崎造船所だと思われる。軍需工場だった浦崎造船所では二等輸送艦や人間魚雷「海龍」などが大量建造されていた。

 戦争末期ということもあり、食料事情は日本全体で厳しかったと語る。

「そこはおかずが良くて、よく美味しいブリとかトビウオが1~2匹出た。でも原則はお米と麦を混ぜたご飯を一杯しか食べられない。だからお腹が減る。あるとき、ご飯を盗み出して山中で食べた。そのことがバレて、日本人管理者に殴られたこともありました。でも、(ルールを破ったので)たいしたことではないと思っています。基本的に日本人が朝鮮人に暴力を振るうとか、虐めるようなことはありませんでした」

 金氏の証言もまた、韓国内で語られている“被害者像”とは異なるものだった。

「私は労働が強制的だったとか、奴隷的だったとは思っていません。そのときは(植民地時代なので)日本人の命令が全てですから、言う通りにするしかなかった。徴用工時代がいい思い出とはいえませんが、学校で日本語を勉強していたので日本語で職員と話を出来たのは良かったですね。ただ鹿児島や宮崎県の人だけは方言がきつくて、何言っているかわからなかったですけど(笑)」

 派遣された場所によって労働環境や実情が違うと感じさせられるのが、姜彩九氏(92)と孫義奉氏(91)のケースだ。同郷だった二人は10代の頃に徴用命令を受けて、ともに大阪のクボタ鉄工所に送られた。

「500人ほどの朝鮮人がクボタ鉄工所に送られていました。日本人から差別とか、奴隷のように働かされたという記憶はないですね。クボタでの仕事は鉄材を運ぶ仕事ばかりでした。それよりも恐ろしかったのは米軍の空襲です。夜に米機が姿を見せると、空襲警報が鳴りみな逃げ惑った。とても仕事を覚えるというような状況ではありませんでした」(孫氏)

 1945年に米軍による本土爆撃が本格化、ますます仕事どころではなくなったという。姜氏が苦笑いしながら回想する。

「空襲が酷くなってからは、工員は散り散りとなり、私は兵庫県の山中に逃げ込んで野宿生活を送っていた。だから大法院判決で元徴用工に対して慰謝料1億ウォンの支払い命令が出たと聞くと、私はその金額をもらえるほどの仕事を日本ではしていないと思ってしまうよ。補償はして欲しいけど、(高額な慰謝料の話を聞くと)私たちがお金を吸い取る掃除機みたいだと思われてしまうね(笑)」

 元徴用工の口からは、全ての人が“奴隷労働”に苦しんでいた訳ではないという事実が語られた。歪んだ歴史論争のなかで当事者たちの声はかき消されている。

※週刊ポスト2019年12月20・27日号

--------------------

事実を無視し妄想だけで他国を非難する隣国には本当に辟易しています。
実際にその時代を生きてきた証人が少なくなってきました。
ここに自分用のアーカイブ(保存記録)として収納しておきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪夢のような民主党政権(2019年7月20日)

2019年07月20日 | 政治や歴史など
「悪夢のような民主党政権」という言葉を見聞きするが、
自分なりに民主党政権の3年3ヶ月を振り返ってみた。
明日は参議院議員選挙の投票日だし今の時期だからこそ、である。

私は民主党政権が出来る前から「民主党では国が滅びる」と言っていた。
なぜか世間の空気もマスコミも民主党に傾いていて友人とも大ゲンカしたほどだ。

一番に、民主党の言う「金はいくらでもあるんです」というのが引っ掛かった。
埋蔵金が60兆円? そんな打ち出の小槌のようなうまい話など信用できない。

そして中国に甘い民主党が政権を取ることで、
中国との関係は悪化することが目に見えていた。

仲良くしようとすればするほど舐められて関係が悪化することは、
中国や韓国にすりより迎合する政治家やマスコミがいればいるほど、
中国や韓国との関係は悪化するというパラドックスがあるからである。

そういう意味で、朝日や毎日の左派マスコミは、関係悪化の源と言ってもよい。
毅然とした態度と対応こそが中国や韓国と仲良く出来る道だということを忘れてはならない。

2010年9月7日におきた尖閣諸島中国漁船衝突事件などはその典型で、
実害があったのに関わらず、中国人船長を処分保留で釈放した。
その結果、現在も、連日のごとく中国公船が領海内に侵入してきている。

民主党政権が行った、震災復興増税の導入はまさに「悪夢」だった。
東北で100年に一度とも言える大災害が起きた。
復興費用は国債でまかない、100年一度の災害は100年かけて支払うのが鉄則なのに、
災害をこうむった被害地の方々にまで震災復興増税を課して日本国全体を低迷させた。

再生可能エネルギーなるものもまったくの出鱈目で、
太陽光発電の設備を買える大企業や金持ちだけが得をして、
一般国民は現在も継続して上乗せされた高い電気料金を払い続けている始末である。
庶民から吸い上げて金持ちに還元しているのである。

外交全般、東日本大震災の対応、 松本龍復興相の暴言、事業仕分け、
最低でも県外とした沖縄問題、国債発行でバラ撒き政策、高速千円のツケ、
口蹄疫の対応、八ッ場ダムなど、数えていったら民主党政権の悪夢は数多くある。

民主党政権があまりにグダグダだったために、政党や政治家の質が劣化し、
とうとう、まともな野党が無くなってしまったというのが現状である。
今回の選挙は、まさに「入れたい政党が無い」という事態だ。

ネットで巡回したら面白い画像があった。
酔っていたので元記事がどこなのかメモするのを忘れた。
備忘録として下に載せておく。



いよいよ明日は選挙だ。
たかが1票、されど1票。無駄には出来ぬ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第25回参議院議員選挙(奈良県)

2019年07月17日 | 政治や歴史など
第25回参議院議員選挙も21日に迫ってきた。
息子たちは早々と不在者投票に行ってきたらしい。

「選挙に行かないくせに政治に文句を言うべきでは無い」
と昔から言い聞かせてきたので彼らは彼らたちなりに考えて投票している。
まあ、息子たちも保守だからどこに入れたのかはわかっている。

さあて、困った。

私は断固として増税は反対である。
デフレから抜け出ていないのに増税などムチャ過ぎる。
よって自民党には入れたくない。

女性天皇はイヤだが緊急避難的には仕方が無い。しかし女系天皇には絶対に反対だ。
だいたい女系と言った瞬間に天皇制では無くなってしまうことになる。

憲法改正には大賛成。特に九条。
自衛隊を違憲とせざるを得ないような憲法は即刻変えるべきである。

という大前提を元に奈良県の候補3人を見てみる。
投票所に言ってから一覧を見て何となくイメージで投票するような事はしない。


(田中たかこ 63歳 幸福実現党)

経済成長・・主に減税
社会保障・・医療制度や年金制度を改めて家族や地域で支えあう
国防防災・・憲法九条改正し国防強化、防災強化
教育再生・・道徳教育や宗教的情操を育み徳育を重視し人材を輩出


(堀井いわお 53歳 自由民主党)

奈良に活力・・歴史文化を継承、社会資本整備、地域経済の活性化、雇用の創出
若い世代に希望・・最良の教育環境、子育て支援
暮らしに安心安全・・全世代型社会保障制度、年金・医療・介護制度強化、自然災害対策整備
未来を見据えた骨太の政策・・日本の未来を見据えた骨太の政策


(西田一美 58歳 無所属)

ひとりひとりが輝ける社会・・全てのひとが輝ける社会を創る
未来に夢・希望・平和を繋ぐ・・子どもたちが未来に夢と希望の持てる平和な社会
生きるために働く・・尊厳ある働き方を全力で守り命をまもる

何やら下の二人は漠然としていて選挙のためのキレイごと並べただけのような気がした。
一番上の田中たかこは、視点が国家レベルで具体的なことも述べている。

選挙公報だけ見ていると、田中たかこに傾くが、いかんせん、幸福実現党は、
宗教団体の幸福の科学が母体であり、どうしても大川隆法の顔が背後に浮かぶ。

西田一美は無所属と書いてあるが、国民民主党だか立憲民主党だか、
いずれにしても、あのグダグダの民主党の流れかと思ったら対象外である。

公明党が推薦というのも気に食わないが、やっぱり安定の自民党しか無いのかな。
悔しいけどね。

--------------------------

比例代表は選べるぞ。
ふむふむ・・15もの政党が出てる。



れいわ新撰組などは、まともな事を言ってるように思えるが、
代表が山本太郎なのが気に食わない。理由は述べないが生理的にも駄目。

うーんどうしようかなあ・・・と思っていたらネットで面白い表を見つけた。



単純すぎる図式だが、一応の判断材料としては優れている。

このチャートで選んだら、
日本維新の会、幸福実現党、労働の解放をめざす労働者党、
NHKから国民を守る党の4つに絞られた。

NHK(未だに契約したことが無い)が大嫌いな私としたら、
NHKから国民を守る党の主旨には大賛成である。

まあ週末まで、じっくりこの3、いや4党を比べてみるつもり。
たかが1票、されど1票なのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ねずさんのひとりごと「チベットはなぜ侵略されたか」

2019年07月09日 | 政治や歴史など
ねずさんのひとりごとは本当にためになる。
今回は中国によるチベット侵略の話のコピペ。

香港は現実問題としての脅威を感じているが、
台湾や沖縄だって、近い将来、現実も問題となる恐れがある。
アメリカがいつまでも日本を守ってくれるとは限らない。
お花畑では国は守れないことを肝に命じるべきである。

-----------------------------

ねずさんのひとりごと「チベットはなぜ侵略されたか」
http://nezu3344.com/blog-entry-2709.html



以前にも書いたことがありますが、世界の国家(南太平洋の島国を除く)は、210カ国ありました。
そしてこの200年間の間に、そのうちの60あまりの国家が消滅しています。
10数カ国は自発的に他国と合併しました。
残る51カ国は近隣諸国からの軍事侵略によって消滅しました。

それらすべてが平和裏のうちに新たな国家となり、また民衆のための平和国家が建設されたというばかりであれば、それは歓迎すべきことです。
けれど現実に起きたことは、そこに戦闘があり、また武器を持たないばかりに、武力で蹂躙され、強姦され殺害されてきたという事実です。

たとえばチベットは、かつてChinaの西奥の広大な地域を国土に持つ人口600万人の仏教国でした。
Chinaに清王朝があった時代、清國皇帝はチベットを仏教国として敬いました。
チベットは清朝の柵封国ではあったけれど、清國の領土ではなく、かつ、清國皇帝から尊敬を得た独立国家だったのです。

そのチベットは、国民の1割が僧侶という、平和で争いのない国でした。
そこに、大東亜戦争が終結した4年後の昭和24(1949)年、建国したてのChina共産党の人民解放軍が押し寄せました。
このときの中共政府の言い分は、「我が国領土を確定する」という、実に身勝手なものでした。

けれど、もうひとつ大切なファクターがあります。
それが「富」です。


建国早々にチベットを襲ったChina共産党は、蒋介石率いるChina国民党を武力によって倒してChinaでの政権を樹立した政権です。
なぜ国民党を倒すことができたかといえば、ソ連から武力装備の援助を受けたからです。
ソ連が援助した中身は、旧日本軍から取り上げた装備です。
他人のものだから、無償で提供してもソ連は、自分の国のフトコロが痛むわけではなかったのです。

おかげで崩壊寸前にあったChina共産党は、勢力を盛り返し、China国民党を打ち破ることができました。
ところがこれには、大きな「お釣り」がありました。
というのは、China共産党が、「ソ連の援助を受けて建国」すれば、建国後にはソ連の属国にならなければならないのです。
つまりChina共産党は、「Chinaを領土として確定」した瞬間に、その領土をソ連に捧げなければならなくなります。

なぜなら、ソ連はただ善意でChina共産党を助けたわけではないからです。
ソ連から武器の供給を受けて戦ったChina共産党は、ソ連から提供された武器その他の代金を払わなければ、そのままソ連に飲み込まれ、独立国ではなくなるのです。
そのためには、ソ連に支払いをしなければなりません。

ここでChinaという国の国情を、もう一度振り返ってみます。
Chinaは、清王朝にせよ、China国民党にせよ、China共産党にせよ、単一の政権が国土を牛耳っている国民国家ではありません。
Chinaには大きく分けて7つの軍閥があり、それらの軍閥の下には、さらに無数の軍閥が複雑な階層を担っている、Chinaは古来、そういう国です。

これはたとえていえば、日本という国の中に、山口組や稲川会、住吉会、会津小鉄会、共政会など、いま21の全国指定広域暴力団がありますが、その暴力団には、さらにその下部に無数の中小規模の暴力団があり、そして日本国政府なるものが「暴力団の上に乗っかっている」そんな状況にたとえることができます。

China国民党の総裁である蒋介石は、そのChinaの軍閥のひとつです。
ですから蒋介石軍閥が、他の軍閥に協力を要請する(あるいは支配する)ためには、常にそれぞれの軍閥へのそれなりの見返りが必要になります。
これは、China共産党にしても同じことです。

蒋介石本人は、ただの貧乏書生だった人ですが、宋美齢と結婚した人です。
妻の宋美齢の実家の宗家は、Chinaを代表する大金持ちです。
ですから蒋介石は、資金面の不自由なく、またソ連からカネをもらう必要もなく、独自の軍閥を組織できました。

ただ、自分のいるエリアだけを支配するのではなく、Chinaを統一して日本と戦う(日華事変)には、他の軍閥の協力が不可欠です。
そしてそのためには、巨額の富が必要となります。
そこで蒋介石は、「Chinaの伝統的な方法」で、この富を手に入れました。
それが、清王朝の居城である紫禁城への攻撃です。

紫禁城には、清王朝が世界から集めた値段の付けられないほどの高価な財宝の数々がありました。
蒋介石はこれを奪いました。
紫禁城での収奪は徹底していました。
清國最後の皇帝である愛新覚羅溥儀には、英国人家庭教師から送られた自転車1台と、いま着ている一枚の服と、カビ臭い古びた玉座以外、何も残さなかったのです。
紫禁城内にあるあらゆるモノ・・・緞帳に使われていた布から、台所の調理器具に至るまで、それらは全部奪い取られたのです。

そして蒋介石は、その奪いとった財宝や家具や調度品や衣類の数々を、まるごと他の軍閥への報酬(買収資金)として遣いました。
それだけではなく、対日戦線のための欧米での宣伝工作資金にもしました。

所詮は、奪いとっただけの他人の財産です。
自分のフトコロが減るわけではない。
財宝は、(蒋介石にとって)効果的に活用されたわけです。

他人のフンドシでスモウをとるとは、よく言ったものです。
「酷いことをする」と思われるかもしれません。
けれどこれは、Chinaの歴代の王朝が王朝の交代劇の都度繰り返してきた、Chinaでは伝統的なやり方です。
それどころか、ひとつの軍閥が、皇帝の財産を奪ったとなれば、むしろ積極的に他の軍閥はその分け前に与ろうとしてきた。そのために殺戮さえも厭わないという、欲望と殺戮の歴史が、Chinaの歴史です。

これは、庶民生活でも同じです。
むかし、西洋の船がChinaの港につくと、その船の周囲にChinaの船上生活者たちが集まってきました。
彼らが何をしに集まったかというと、理由は2つあります。

ひとつは、竹竿を使って外国船の窓に竿の先をひっかけ、子供にその竿を伝わらせて船内のものを盗むためです。
もうひとつは、船の排水口から流れてくる残飯を、網ですくって食べるためです。
ひとつの船が、うまく残飯をすくうと、子供達がその残飯に群がります。
それだけでなく、近くのChineseの船が近づいてきて、盛大な食べ物の奪い合いと殺し合いが起こります。
ですから、当時の外国船は、放水してそれらChina船を追い払いました。
貧しいがゆえ、と思われるかもしれませんが、それらChinaの船上生活者というのは、船を所有することができているだけ、Chinaでは裕福な層だったのです。

そこに富があれば、食い物があれば、とにかく奪って、自分のものにする。
そして富や食い物をわけることができる人は、大人(だいじん)とされてきたのです。

さて、大東亜戦争の終結後、蒋介石は毛沢東率いるChina共産党に追われました。
追われた蒋介石は、この時点で、すでに紫禁城から奪い取った財宝の多くを費消してしまっていました。

つまり、共産党は、ソ連から借りたカネを払うにも、国内の他の軍閥を調略するためにも、必要なカネや財物を、すでに蒋介石から奪うことができない(蒋介石に富がない)状況になっていたのです。

そこでChina共産党が目を付けたのが、Chinaと陸続きにある古い国であるチベットでした。
チベットは、もともとは「吐蕃(とばん)」と呼ばれていましたが、成立したのは7世紀にさかのぼります。
そしてダライ・ラマが国を統括するようなってからも、この時点ですでに300年が経過しています。
そのチベットには数々の寺院があり、値段の付けられないほど高価な仏像があり、古い経典があります。

すでに国内の清王朝の居城である紫禁城は財宝が奪われて空(から)、それ以外の各地の城塞都市も、すでに国民党に荒らされて、場内の財宝は空(から)です。
そしてこの時点で、もっとも豊かな財宝を所持していたのが、チベットでした。

つまり、冒頭に申し上げた、China共産党が「我が国領土を確定するため」というのは、文字通りそのままの意味なのです。
少し言葉を足すならば、「China共産党が、自分たちがしたソ連からの借金を返して、ソ連の国土への侵略と政治介入の脅威から自分たちを護り、またChina全土の軍閥を味方につけるのに必要な支払いの原資となる財宝を、チベットから奪うこと」。
これが、China共産党の「我が国領土として確定する」という言葉の意味です。

China共産党は、その後、昭和54(1979)年にも中越戦争を起して一方的にベトナムに攻め込んでいますが、これまた1977年まで続いたChina国内の文化大革命によって、停滞した国内経済を立て直し、軍閥の共産党離れを防ぐために、ベトナムの財を奪いに行ったという側面を否定できません。

わかりやすく言うと、Chinaという国は、軍閥という名前の全国指定広域「暴力団」が地域を牛耳り、その暴力団の上に「政府」が乗っていて、その政府は、常に軍閥たちにカネや財をバラまいて彼らを豊かにしなければならない国なのです。
これは、秦の始皇帝の昔から、唐、宋、明、清、国民党、中共と名前が変わっても、その実情はかわりません。
そして、政治の支配力が弱まるというのは、政府が国内にある軍閥にカネを渡せなくなること。
つまり、政府が存続するためには、周辺にある豊かな国に軍事攻撃を仕掛けて、その国の財を奪わなければならなくなるし、そうしなければ政府が生き残れない、というのが、Chinaという国です。

中共の「人民解放軍」がやってきたとき、仏教国であるチベットは、国防兵力を持っていませんでした。
仏教の聖地であるチベットに、軍は何百年もの間、必要がなかったのです。
そこに押し込みを働いた中共の人民解放軍は、チベットで11万人の僧侶を拷問して殺害し、150万人の国民を虐殺しました。
なんと、信じられないことに、全人口の4分の1を虐殺してしまったのです。

人口の4分の1というのは、日本で言ったらちょうど就労者の人口がこれにあたります。
日本では、総人口1億2千万人のうち、ちょうど4分の1にあたる4千万人が就労者です。
ということはつまり、毎朝通勤電車に揺られたり、早朝の通勤渋滞を招いている車に乗った人達全員が殺されたようなものです。

中共政府に抵抗するものは、こうして全部が殺害され、古い歴史を持つ仏教寺院は破壊され、焼尽され、若い女は集団で強姦され、そしてChina共産党はチベットの財宝を手に入れ、China国内の軍閥を抑えることに成功しました。
そして人口450万に減ったチベットに、中共政府はなんと700万人ものChineseを移住させ、昭和40年には、「民主的な方法」を持って、チベットを西蔵自治区という中共の版図に加えてしまったのです。

パンダといえば、おそらく多くの日本人が、「中国生まれの可愛い動物」と思っていようかと思う。
けれど、パンダは、もともとはチベット固有の生き物です。
国を奪い取られたチベットにいたパンダを、中共政府は「元々中国のもので~す」とばかり、China外交の切り札として使っています。

それだけではありません。
中共政府は、チベット人たちに、チベット語を話すことを禁じ、公文書や公用語、テレビやラジオの放送まで、全部、北京語にすることを強制しています。
チベット語しかわからないもともとのチベット人達にとって、これではいきなり外国での生活を余儀なくされたも同様です。

こうしたチベットへの圧政は、いまも続います。
だから、チベットの伝統や文化を護ろうとする若い人達が、フリーチベット運動を行い、自らの命を犠牲にしてまでも中共政府に抗議し、その抗議の声を世界に向けて発信しようとして、自殺を禁じられた仏教徒であるチベット人の若い女性が焼身自殺までしているのです。

そしてその後の中共は、路線を経済政策に転換しました。
宣伝工作によって外国から民間投資を招き入れ、その投資資金で経済を活性化してきました。
年間二桁の経済成長は、軍閥のフトコロを肥やし、彼らの軍備を強固にしました。

ところがそのChinaの経済成長が止まったのです。
そうなると、軍閥にとって、中共政権は、もはや邪魔者でしかなくなります。
中共政権は、生き残るためにどうしたらよいのでしょうか。

この数年間は、粉飾決算でなんとか誤魔化してきました。
東シナ海、南シナ海の海洋資源を手に入れようともしてきました。
アフリカでは世界的に禁止されている象牙の収穫を大々的に行い、ジェット旅客機に高価な象牙を満載して軍閥に配りました。
他国の領海である小笠原にある紅珊瑚を乱獲して、高価な珊瑚の装飾品に仕立てて軍閥に配ってごきげんをとりました。

けれど、そんな中共の国内工作も、もはや先が見えるようになってきました。
そして、こうした状況に至った時、Chinaの歴史で毎度起きたのは「富を持ったところを襲って富を奪う」ことです。
Chinaでは、その歴史が繰り返されてきたのです。

いま、Chinaの近くにあって、もっとも富んだ国や民族は、どこでしょうか。
そして米国とともに、日本が安全保障を強化しようとしたときに、もっとも反対したのは、どこの国だったでしょうか。

安倍内閣の施政について、とかく批判の声も多いようです。
保守系の方でも、安倍批判をされている方もおいでになります。
いろいろな方の、いろいろな考え方があること、それ自体はとても良いことだと思います。

ただ、いま安倍内閣は、いまの日本でできる最大の政治運営を行っていると思います。
できることとできないことがある。
ただ理想を振りかざすのではなく、左派、右派、いろいろある中で、いまできる最良の選択を安倍内閣はしていると思います。

私は争いを好みません。
保守という自覚もあまりありません。
保守と言った瞬間に、保守でない人と敵対する、というのでは、日本の心から外れると思うからです。
日本はいま、左派右派、保守、非保守の枠組みを越えて、みんなが力を合わせるときにきていると思っています。
なぜなら、現実のChinaの脅威が、私達の日本に迫っているからです。
そのために、真実という情報の共有化が必要です。
それが「シラス(知らす、Shirasu)」国の、本来あるべき姿です。

-----------------------------

ねずさんのひとりごと
http://nezu3344.com/



Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長 倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表 日本史検定講座講師&教務。
(著書)
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』?
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱?序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
最新刊
『ねずさんと語る古事記・弐?天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第198回国会「安倍総理問責決議案への反対討論」(三原じゅん子参議院議員)

2019年06月26日 | 政治や歴史など
2019年6月24日の国会を見て強く思った。
私は三原じゅん子ならば、女性総理として推薦することを惜しまない。


livedoorニュース
https://blogos.com/article/386731/

---------------------------------



自由民主党の三原じゅん子です。
私は、自民・公明を代表して、野党から提出された安倍内閣総理大臣問責決議案に対して、断固反対。
断固反対の立場から、討論を行います。

(年金)
もう何度、この光景を目にしたでしょうか。
野党の皆さん、はっきり言って、もううんざりです。

野党の皆さん、国民にとって大切な、大切な年金を、政争の具にしないで頂きたい。
お一人おひとりの高齢者の皆様の、生活への切実な不安をあおらないで頂きたい!
猛省を促します。

では、問います。
野党の皆さんは、年金を増やす具体的な政策を持っているのでしょうか?
具体的な対案もないままに、いたずらに国民の不安をあおる。

具体的に申し上げましょう。
かつて民主党のマニフェストで、華々しく打ち上げた、出来もしない「最低保障年金」。
あれは、いったい何だったのでしょうか?
更に、民主党政権の、あの3年間、年金の支給額は、増えるどころか、なんと、引き下げられていたのです。
はっきり言って、無為無策だったのであります。

安倍内閣は、まったく違います。
今年、年金支給額は、プラスとなりました。
年金給付の前提となる積立金も、アベノミクス効果によって、6年間で44兆円、運用益が出たのであります。
年金制度は、安倍内閣のもとで、間違いなく、より強固で安心なものとなっています。

かたや、民主党政権時代、年金積立金の運用益は、この10分の1。
これは、年金の安定的な給付の前提になっている予定利回りを大きく下回り、年金の信頼性は、民主党政権によって、大きく傷つけられてしまったのです。
そして、今また、出来もしないのに、対案もないのに、ただ不安だけを掻き立てる。
野党の皆さん、もう、いい加減にしてください。

私たち自民党・公明党、そして、安倍政権は、年金で生活している皆様、おひとりおひとりの不安な気持ちをあおるのではなく、その不安に真正面から向き合い、具体的な政策で、対応してまいります。

無年金の高齢者の問題に対しては、アベノミクスの果実を活かして、払込期間を25年から10年に短縮し、60万人を超える皆様に、新たに年金を支給いたしました。

年金額が少ない皆様のために、本年10月からは、財源をしっかり確保して、最大年6万円の給付金を支給し、しっかりと所得を底支えしてまいります。
さらには、介護保険料も3分の1軽減いたします。

(経済)
重要なことは、「実行」で、「結果」なのですよ、皆さん。

安倍内閣は、この6年間で、正社員を130万人以上増やしました。

民主党政権時代はどうだったか?
増えるどころか、なんと、50万人も正社員が減っていた。あの時代、仕事をしたくても、見つからない。
若者をはじめ多くの皆様が、辛い思いをしていたのであります。

安倍内閣のもと、この春、中小企業で働く皆様の賃金は、しっかりと上がりました。賃上げ率は、この20年間で最高水準です。

民主党政権時代はどうだったか? 賃金を増やすどころか、企業自体の倒産が今よりも4割以上多かった。
連鎖倒産という言葉が、日本中を覆っていました。
まさに悪夢だったのであります。

政権交代から6年余り。民主党政権の負の遺産のしりぬぐいをしてきた安倍総理に、感謝こそすれ、問責決議案を提出するなど、まったくの常識はずれ、愚か者の所業とのそしりは免れません!
野党の皆さん、もう一度改めて申し上げます。恥を知りなさい。

(国会)
政府が国会で説明責任を果たすべきは当然です。
安倍総理は、昨年一年間で、国会に270時間以上出席されました。
しかし、イギリスの首相は年間40時間程度、ドイツの首相は30時間余り。
国際的にみると、明らかに突出しています。

我が国では、よほど、個別の大臣と議論するような専門的な課題が少ないのか?
それとも、野党が、国民の関心からほど遠い、ただただ無意味な質問を繰り返し、国のトップである総理大臣の時間を浪費しているのか?
答えは、明らかであります。

野党の皆さんは、自分の都合のいい時だけ、「参議院は言論の府だ」と主張します。
しかし、自分の胸に、よく手をあてていただきたい。
この1年間、憲法審査会は、たった3分間しか開かれていないのであります。
議論から逃げ回っているのは、一部野党の皆さん、あなた方自身ではありませんか!

野党の皆さん、もうご都合主義はやめましょうよ。

民主党の、具体策無きままに、ただ不安をあおるだけの口車に乗って、不安定な政治をもたらした結果がどうなったのか。有権者は、痛いほど思い知らされました。
総理大臣は毎年のようにコロコロ変わり、日本のプレゼンスは一気に低下した。
民主党政権は、国民との約束を次々と踏み倒してきた。
有権者は、すでに悪夢を経験しているのであります。

テレビ映りだけを意識して、針小棒大のパフォーマンス。
選挙目当てで、国民不在。
所属政党コロコロ変える。
対案なしで何でも反対。
やることすべてがブーメラン。
もう悪夢は絶対見たくない。

皆さん、ヤジっている場合ではありません。
冷静に、私たち国会議員に求められている責任を、厳粛に自覚しましょう。

国民が求めているのは、足のひっぱりあいではありません。
しっかりと政策論をしてほしい。実のある議論こそ求められているのであります。

令和の新しい時代に入って、明日の日本をどうつくるのか、建設的な議論を行う、真に国民のための国会を取り戻しましょう。

こんな光景は、平成の時代で終わりにしたかった。
本当に残念でありますが、そのためにも、こんな常識外れの問責決議案の試みは、完膚なきまでに打ち砕かなければならない。
次の世代に、野党のこんなやり方を絶対に引き継いではならないとの断固たる決意を持って、この問責決議案を否決すべきである。
そのことを強く申し上げ、わたくしの反対討論といたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韓国は「蚊帳の外」なのに日本を「他山の石」って。

2019年05月28日 | 政治や歴史など
2019年05月28日06時49分[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]の記事。
【社説】日米は蜜月なのに韓国は「蚊帳の外」

https://japanese.joins.com/article/812/253812.html?servcode=100§code=110

日本と米国の蜜月の中で韓国は孤立状態に進む雰囲気だ。
という記事の始まりから、韓国はこのままではいけないという内容である。

おや?と思ったのは下の段落にある「他山の石」という言葉。
----------------------------------------
このような柔軟で、あまつさえ狡猾ささえのぞく両股外交を韓国は他山の石としなければならない。
----------------------------------------
お手本とすべき事ではなく、ここでも「他山の石」かい!って感じ。
柔軟で狡猾ささえのぞく両股外交は立派な外交だ。
これこそ大人の国の外交だと思う。
それを「他山の石」と言ってしまう書き方はいかがなものか。

「他山の石」とは、
よその山から出た粗悪な石も、自分の玉を磨くのに利用できるという意味である。
言い換えれば「反面教師」あるいは「人の振り見て我が振り直せ」である。

せめて「参考にすべき」とか「見習うべき」と書くのが普通だろう。
何でもかんでも日本を下に見る韓国の態度は、まさに劣等感の裏返しでしかない。
すでに文在寅(ムン・ジェイン)大統領の政治は内政も外交も破綻レベルである。

韓国にもまっとうな意見はあるはずだが決して表には出てこない。
韓国のマスコミがミスリードするので仕方が無いのだ。

まっとうな国になって欲しいと思って来たが最近は無理だと思い始めている。
今のままでは距離を置くしか無い。突き放して様子を見るべきだ。

韓国は「日本の爪の垢を煎じて飲む」ぐらい謙虚にすべきと敢えて言いたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙が終わってあれこれ思う。(2019年4月22日)

2019年04月23日 | 政治や歴史など
まともな野党が無いので自民党がずっと一人歩きしてきた。
野党しっかりしろ!と思いつつ、悶々としてきたが、
今回の大阪W選挙や地方選挙(前半、後半)の結果を見て政治が面白くなってきた。

大阪W選挙においては、当初は「大阪維新の会」が負けるだろうとの声も多かった。

フタを開けてみると「大阪維新の会 vs その他」の構図となって、
旧民主党や、公明党、共産党までが自民党候補の柳本顕氏を応援し始めた。



この写真や構図を見た時は合成かと思ったが本物だとわかってズッコケタ。



反維新であれば何でもあり・・みたいな胡散臭さである。
同じように思った人は多かったようで維新に投票した友人も多かったように思う。

結局は維新が圧勝した。

日本維新の会は大阪維新の会が母体となった政党である。
維新の政策は明確である。消費税にも反対している。
どちらかというと単純で子供っぽいが、わかりやすさと力強さがある。
横山ノックのあとの太田房江のような愚策政治はもうコリゴリである。

政策や公約は単純で明確なほうが良い。
自民党に政治を任せても良いのだが、そこには良質な反対勢力が必要である。
今の野党(民主系、共産、社会系)は言いがかりや反対ばかりである。
対案を出せないようなイチャモン党に票を入れたいとは思わない。

今回、気になった党が一つある。「NHKから国民を守る党」である。
NHKは、勝手に電波を流して金を取る、言わば「送りつけ商法」。
職員の年収は1800万円を越えると言う。
取りやすいところからのみ集金するヤクザのような団体である。
私はNHKは即刻スクランブル化して公平平等に寄与すべきと思う。
契約してはならない。契約した人も払ってはならない。

「NHKから国民を守る党」の公式サイト
http://www.nhkkara.jp/

「NHKから国民を守る党」の立花代表は、私の友人とちょっとした揉め事があり、
全面的に賛成しているわけでは無いが、NHKに対する考え方は賛同出来る。
少し、この政党の動きを好意的に見守りたい。

ともかく野党の政策はわかりやすいほうが良い。

で、自民党に戻る。
自民党はともかく消費増税を止めたほうが良い。
あと、韓国好きの二階幹事長も辞めさせたほうが良い。
選挙で負けたのは二階幹事長の韓国訪問の影響も大きいと思う。

まあしかし、憲法は時代に応じて変えるのが当たり前。
安倍首相は代わりが居ないので今しばらく頑張って欲しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ねずさんのひとりごと「民族という名の危険な思想」

2018年12月26日 | 政治や歴史など
ある本を読んでいて、エスニックとネイションの意味が混乱してきて、
ネットで違いを調べていたら「ねずさんのひとりごと」にたどり着いた。

ねずさんのひとりごと「民族という名の危険な思想」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2903.html



Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長?倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表?日本史検定講座講師&教務。
(著書)
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』?
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱?序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
最新刊
『ねずさんと語る古事記・弐?天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』



ねずさんのひとりごと「民族という名の危険な思想」

先に、今日のお話を要約しておきます。
1 日本語の「民族」という言葉には、ネイションとエスニックの両方の意味がある。
2 ネイション(Nation)は、国家である。
3 エスニック(Ethnic)は、同一の文化集団である。
4 ネイションは国家だから「国民」の特定ができるが、エスニックはその特定ができない。

いきなり、硬い話でごめんなさい。
けれど、実はこのことが、沖縄問題をはじめ、世界中の様々な混乱や紛争を引き起こしているのです。

「民族」を辞書で引くと、「人種的・地域的起源が同一または同一であると信じ、言語・宗教などの文化的伝統と、歴史的な運命を共有する人間の集団」と書かれています。
ところが実はこの「民族」という思想こそが、きわめて危険な思想です。
なぜなら「民族」は、どの人なのか特定も線引もできないからです。

血族なら、誰が親なのか証明が可能です。
昔はこれを「姓」と言ったわけで、「姓」というのは女性から生まれたという字です。
同じひとりの特定の女性から生まれた血縁集団が「姓」です。

氏族も、同じ素性を持った人たちですから、これまた証明が可能です。
甲斐の武田家の家臣団であれば、誰と誰と特定ができます。

ところが民族になると、早い話が先般、沖縄の翁長知事が国連までわざわざ出かけて行って、「琉球民族は日本民族とは異なる」などと発言してきましたが、では、その琉球民族とは誰のことなのか、この特定ができません。
沖縄県出身者という意味で言っているなら、東京にも大阪にも札幌にも福岡にも、沖縄県出身者はいます。

いま沖縄に住んでいる人という意味なら、本土から移り住んだ人や、選挙工作やデモのためにアルバイトで入り込んでいる左翼の工作員たちも琉球民族です。
もちろん先祖代々の沖縄出身の方もおいででしょうけれど、ではそういう方が本土の人と結婚したら、生まれた子供は琉球民族なのでしょうか、それとも大和民族なのでしょうか。

昔、朝鮮半島が日本の領土だった頃、朝鮮半島は支那大陸と陸続きですから、当時多くの朝鮮人が支那にいました。
彼らは華夷秩序思想によって、日頃支那人から馬鹿にされ続けていたのですが、その支那の王朝である清が日本との戦争で負け、朝鮮半島が日本に併合され、朝鮮人が日本人になると、俄然、彼らは自分たちは「日本人」であるからと、支那人たちに横柄な態度をとるようになり、一方で、支那人たちの家を襲ったり、女性を強姦したりしはじめました。

怒った支那人たちは、集団で朝鮮人狩りを始めるのですが、そうすると彼らは日本軍や日本人のもとに逃げ込む。
結果、日本人まで支那人たちから恨まれる・・・とこれが実は支那事変の引き金になっています。

一部の朝鮮人たちは、民族自決・朝鮮独立と称して、日本国内でテロ活動をしていましたが、その多くはただのやくざ者であり、欲望のままに日本国内で窃盗や強盗、強姦をする行為を「民族自決のための運動だ」と自己正当化していただけの連中です。
他の多くの朝鮮人は、日本の教育を受け、むしろ立派な日本人になろうと努力をしていたというのが実情ですし、日本人と結婚し、日本人として生まれた子供も、当時もたくさんいたわけです。

要するに「民族」と言い始めると、これは支那朝鮮や沖縄問題やアイヌ問題に限らず、これは世界の、たとえばウクライナ問題、シリア難民問題、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるバルカン半島問題、アフリカにおける各地の民族問題等々、実はその意味するところがきわめて曖昧であるがゆえに、結果として、血を見る激しい戦いや紛争を生んでいるのです。

さらに言いますと、「民族」という概念が、国家そのものを崩壊させたという過去の実績もあります。
米国の第28代大統領のウッドロウ・ウィルソンは、第一次世界大戦の末期の1918年に米議会で「十四か条の平和原則」を発表し、この中で「民族自決」を唱えました。

このときのウイルソンの「民族自決」は、敵対する国家(ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国・オスマン帝国)等の領土解体を目論む発言だったのですが、このときの「民族自決」の語だけが拡大解釈され、朝鮮独立派や、満州国成立への反対派にいいように利用され、朝鮮人があちこちで反日工作を行ったり、日本国内でテロを仕掛ける温床となっています。

ちなみにウイルソン大統領の発言の5年後の関東大震災では、そうした朝鮮人民族自決派が、震災を契機として首都圏のあちこちで火付け盗賊をはたらき、結果として震災後の火災によって約10万5千人の死者をもたらしています。
この関東大震災については、以前にもお話しましたが、震災による一次被害による死者は1万人程度です。
それが10万人に拡大したのは、震災後の火災が原因ですが、震災そのものによる火災は、震災直後に大方鎮火しているのです。
それが、人々が避難所に非難したあとに、なぜかあちこちから出火しています。

いまの在日の「朝鮮民族派」の方々は、関東大震災によって朝鮮人6000人が殺されたと主張してはばかりませんが、自分たちの中の独立派が、日本人10万人を殺害しているのです。しかも殺されたという6000人の具体的根拠はありません。
日本は緻密な国なので、大規模震災等においても、死者の数は何人という一桁の単位まで正確に把握されています。
残念ながら、6000人の朝鮮人の名前の特定はできません。
できないということは、「なかった」といことです。
つまり、6000人殺害事件は、まるでお話にならないファンタジーでしかないということです。

さて、ウイルソンの「十四か条の平和原則」は、まったくウイルソンの予期しないところで、多くの命を奪ったわけですけれど、実はそれだけにとどまらず、いまでも世界各地のいわゆる「民族紛争」なるものは、ことごとくこの「民族自決」という思想が元です。

ちなみにこのときに、ウイルソンが述べた「民族自決」の意味するところは、ドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー帝国・オスマン帝国など、複数の「ネイション(Nation・国家)」を併合した巨大帝国は、それぞれの国に分割せよという意味です。
実はここが非常にやっかいなことなのですが、日本語の「民族」という語の意味するものと、西欧における「Nation)」では、語彙が全然異なります。

もともと西洋社会はたいへんに暴力がさかんで、常に上か下かの競争と殺し合いが日常的、恒常的に発生し、一般の民衆が常に身の危険に晒されていたという歴史があります。
このため中世ヨーロッパでは、平均寿命も24〜5歳だったりしています。

こうした厳しい環境の中にあって、自分たちの身を守るために、すすんで王の庇護下にはいる。
王は民衆を守る義務があり、民衆はその見返りとして税を払う。
これが、王の主権のはじまりです。

王の庇護下にある領土領民を守るために、王は進んで主権者として他国と交戦するし、領土を広げ、あるいは植民地をなし、他国から金品を奪って自国の繁栄を図ります。
いいとか悪いとかではなくて、そうせざるを得なかった事情が、西欧社会の歴史にはあったのです。

こういう次第ですから、強い王の下には、いろいろな言語を話し、様々な血縁共同体があり、またときには宗教さえも、同じキリスト教徒とはいっても、カトリックとプロテスタントでは、まるっきり教義が異なるのですけれど、そうした宗教の壁さえも越えて、自分たちの安全をはかるために、様々な地域の様々な人たちがひとつの王のもとに集いました。

たとえばフランスの場合であれば、もともとフランス語を話したのはフランス北部に発生したフランク族だけです。
英語で「フランク(Frank)」といえば、率直といった意味いなりますが、映画『指輪物語』に出てくるエルフ族のように、王が髪の毛をロングヘアに伸ばし、他の者は後ろ髪を刈り上げるといった特徴のある格好をした一族がフランク族です。
このフランク族は民族ではなくて、複数の血族が集まった戦闘集団で、これが次第に勢力を伸ばし、オック語やピカルディ語、ブレイス語、アルザス語、フラマン語など、77種類もの異なる言語を話す人々の住むエリアを次々併合し、ブルボン王朝のルイ14世の時代に最大版図となったエリアが、いまのフランスです。
要するにフランスは「国家(Nation)」です。

これに対して、フランス国内にもともとあった77種類もの異なる言語を話す人々は「エスニック(Ethnic)」として区別されます。
ただし、エスニックは、きわめて曖昧なもので、早い話が日本人でフランスに住み、フランス語を流暢に話す人は、日本エスニックなのか、それともフランス・エスニックなのか。
逆に、深く日本を愛し、日本語を日本人以上に流暢に話し、日本文化への造詣が深く、日本国籍を持っているフランス人は、日本エスニックなのか、それともフランス・エスニックなのか。

要するにフランスに住んで、フランス国籍を持っていれば、フランス語を話せなくてもフランス人だというのは、ネイション(Nation)の考え方です。
フランスに住んでいて、フランス語を話しても、日本人は日本人だというのなら、それはエスニック(Ethnic)の考え方です。

しかし、そのエスニックたちが、当該国の内外で、独立運動や自決運動を始めたら、これはもう収拾がつきません。
国家(Nation)が解体してしまいます。


かつて満州国では「五族共和」が国家的スローガンになりました。これは「5つのエスニック(Ethnic)」がともに暮らす「国家(Nation)」という意味です。
「民族自決」ではなく、異なるエスニックが、一体となって平和に暮らせる国家(ネイション)を営もうとする意思と思想が、この言葉に込められています。

ところが日本語の「民族」という言葉は、このあたりの定義が非常に曖昧です。
満州国人(ネイション)という意味でも「民族」という語が使われるし、満洲国民であるモンゴル人(エスニック)という場合でも「民族」の語が使われます。
日本語における「民族」という語は、同族意識を持ち、同種の文化・伝統・慣習を有する人間集団として用いられる用語ですから、概念としてはきわめて曖昧なのです。

問題は、「エスニック(ethnic)」が、「民族自決」を言い出したときに生まれます。
たとえば冒頭のように沖縄の翁長知事が、わざわざ国連にまで出かけて行って、
「沖縄エスニックは、大和エスニックによって、意思に反して無理やり併呑されたのだ」
などと述べます。

日本語で聞くと、さももっともらしい言説に聞こえますが、これを英語圏などの西欧諸国の人が聞くと「?」マークが点滅しますし、本来の意味合いからすれば、意味不明です。
沖縄の人たちが「国家(Nation)」というのなら、彼らは、まごうことなき日本人であり、今現在日本の一部として政治的に一体となっています。

沖縄の人たちが「ethnic」というのなら、その「ethnic」ごとに国家が独立しなければならないのなら、フランスなどは、それこそ77カ国に分割しなければならないことになります。
アメリカ合州国のように、そもそも多民族共同体としてスタートした国家も解体せざるをえません。

日本にしても、会津人、鹿児島人、上州人、関西人、関東人など、それぞれに微妙に異なる文化・伝統・慣習を持っていますが、それらを異なる「エスニック」と考えるなら、それぞれが民族自決のための独立運動の対象となります。

もっといえば、武家と農家、商家では、文化・伝統・慣習が異なります。
さらに言うなら、お隣のお宅と、自分の家では、文化・伝統・慣習が異なるし、親子兄弟姉妹においても、それぞれに個性があって違いがあります。
要するに「ethnic」を言い出したら、きりがないのです。

きりがないということは、「琉球 ethnic」が、国家として独立主権や排他性を持とうとするということは、そもそも、どっからどこまでが「琉球 ethnic」を示すのかという定義さえも曖昧なわけですから、こうなると、もはや殺し合いと暴力によって、上下と支配を打ち立てるしかなくなってしまうのです。
定義ができないのです。

ですから、誰か「これが琉球 ethnic だ」と言い出す人がいて、その人が認める者が「琉球 ethnic」であり、そうでない者を排他するなら、血で血を洗う決着しか出来得なくなってしまうのです。
つまり、翁長知事のいう「琉球民族自決」というのは、実は、たいへんに暴力的で危険な思想であるということなのです。

「民族」というものが、血族を示す言葉であれば、「何親等までを血族とする」という線引も可能です。
あるいは氏族であれば、「◯◯家の人々」として特定できます。
けれど「ethnic」は、文化・伝統・慣習を同一にする人々という意味であって、特定ができないのです。

コリアンも同じです。
コリアンは、かなり血の密度が濃い人々であって、血族性の高い人たちであると言われますが、では、どこからどこまでがコリアン・エスニックなのかというと、これまた曖昧です。

もともとコリアンというのは、単一民族でもなんでもなくて、語族そのものが6種に別れ、民族的にも扶余系、濊族系、高句麗系、百済系、新羅系、済洲系と、まるでエスニックが異なる人々でした。
これを、ひとつの語族、ひとつの文化、慣習にまとめあげたのは、実は日本で、日本統治時代に、朝鮮における標準語を確立し、ハングルを日本が復活させ、服飾文化や住居文化、あるいは食文化なども、日本がひとつにまとめあげました。

それまで、朝鮮半島には李氏朝鮮王朝がありましたが、その李氏朝鮮王朝は、朝鮮半島内にある異なるエスニックの頂点に立って、エスニック相互の交流を分断することで、政権の安定を保っていたわけです。
これを日本は、彼らに朝鮮人としての誇りをもてるように、朝鮮半島の歴史が始まって以来、はじめて、朝鮮人という文化意識を彼らに植えつけたわけで、こうして生まれたのが、実は「朝鮮人」という民族です。

これを「民族」という用語で語ると、たいへんにわかりにくいですが、ネイションとエスニックに分けて考えると、たいへんにわかりやすくなります。
もともと朝鮮半島では、李氏というひとつのエスニックが、朝鮮半島内にある他の5つのエスニックを束ねて王朝(ネイション)を築いていました。

ところが朝鮮半島を併合した日本は、李氏朝鮮王朝を正統なネイションとして扱い、朝鮮半島にある異なるエスニックもまとめて、ひとつのエスニックとして統合しようとしました。
朝鮮半島がネイションではなく、日本ネイションの一部となったわけですから、日本はそのようにしたわけです。
こうして日本統治によってはじめて生まれたのが朝鮮エスニックです。

つまり、日本がやってくるまでは、朝鮮には、朝鮮エスニックは存在していないのです。
それまでの朝鮮半島は、さきほども述べましたように6つのエスニックが、ひとつのネイションに統合されたところだったのです。

その意味では、これは私の個人的見解ですけれど、日本の朝鮮統治は失敗したと思っています。
むしろ朝鮮は、ひとつのエスニックに統合するのではなく、半島を6つの県に分解して、それぞれのエスニックの文化を蘇生、復活させ、それぞれのエスニック毎に郷土愛を育むべきであったのではないかと思っています。

多くの日本人は、いまでも、このエスニックとネイションの区別がついていません。
「民族」という便利な用語で、エスニックとネイションの両方をひとまとめにしてしまっていることに安住し、エスニックの独立という言葉の持つ恐ろしさに気付いていません。

それどころか、「国家(Nation)は民族(ethnic)ごとに独立しなければならない」などと、まったく意味不明の論理のパラドックスの中に入り込んでいます。
この理屈は、戦前の朝鮮独立派の不逞朝鮮人のバカ者どもとまったく同じ発想にすぎません。

同じ会社で働くA君とB君が、それぞれエスニックを言い出したら会社組織は成立しません。
「お前とは生まれや出身や信仰や生活習慣が違うから、一緒に仕事ができない」などという、そんな主張を真に受けていたら、まともな経済活動など成立しません。
同様に、同じひとつのネイション(国家)の中にあって、互いにエスニックが異なるから一緒にやっていくことはできないなどと言い出したら、これまた国家など成立しえません。

日本語の「民族」には、ネイションという意味と、エスニックという意味の両方が内包されています。
このことを明確にしないで、ただ「民族」を言い出すのは、国家解体を唱えているのと同じことなのです。


※今日のお話は、新しい歴史教科書をつくる会主催「日本史検定講座」における、宮脇淳子先生、倉山満先生の講義をもとに、私なりに考えをまとめたものです。

2016/01/29(金)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忖度(そんたく)してどこが悪い?

2018年03月24日 | 政治や歴史など

(3月21日、産経新聞朝刊、5頁「政論」)

3月21日の産経新聞の朝刊の「政論」コラムに、
「拝啓、安部昭恵さま、僭越ながら今は行動自粛されては」という記事がある。

確かに軽率な行動で、特に記事中の葛飾区の区議への友達申請は、この区議が、
自分を売り込むためには何をしでかすかわからないような人物であり、
今の安倍総理の置かれた立場を考えると、本当に軽率だと判断せざるを得ない。

しかしながら、最近のマスコミの報道を見ると、
何とも浅ましい卑しいような気持ちになってしまうのである。

22日に、フェイスブックに昭恵夫人の行動について悪く書かれていたので、
あえて昭恵夫人の行動は軽率であるという前提で反論させていただいた。

------------------------------------------
しかしですよ。昔なら総理夫人であったとしても
陰の存在で本来なら表に出ない存在ですよ。

それを欧米に習い表に引っ張り出してきて
散々利用してきたのが我々も含めた世間じゃ無いですか?
人間だから探し出せば至らぬ点も多々あるものです。

その誰でもが有りうる至らぬ点を、
あたかも何か犯罪でも犯したのごとく
苛め倒しているかのように見えます。

昭恵夫人は世間に利用されました。
その利用された者を利用した者がああだこうだと言うというのは
私には極めて卑怯な振る舞いに見えます。

フェイスブックの件も全文を読めばもっともな事が書かれてあります。
それにフェイスブックの「いいね」は
「読みましたよ」という挨拶みたいなもんです。


国会はもっと大きな事を論じ決めていかねばならない場です。
最近は毎日毎日小さなことばかり審議されます。
証人喚問も気安くして欲しくは無いです。

国会はいたずらに証人喚問して
些細な事をほじくりまわすような場だとは思えません。
さっさと第三者的な組織に捜査をさせるべきです。

そして忖度の件。

忖度は最近では何か悪いことのように言われてます。
忖度は言い換えれば「他人の気持ちをおしはかること」です。
忖度の無い関係などありません。
しかし政権側から「忖度があった」とは言えないのは当たり前の話です。

そして今回の件が忖度だったとしても
何も問題ではありませんし事件性は無いのです。

だいたいですよ、地方自治体のレベルでも、
すべての案件は何らかの忖度によって決められています。
今回、昭恵夫人の人の良さが裏目裏目に出てしまうのは悲しい事実ですが、
それを攻めたて、はしゃぐのが果たして正義なのかと疑問に思ってしまいます。
------------------------------------------

【簡単な流れ】
森友の土地は公示価格は高いが実際はゴミの埋まったクズ土地。
何とか高く売りたい近畿財務局と安く買いたい籠池。
安く買ったと思って工事をしたらゴミが埋まっていて怒鳴り込んだ。
籠池が近畿財務局の落ち度に言いがかりをつけ脅したのだ。
(ここは近畿財務局が忖度したのでは無く籠池の脅しに屈した)
困った近畿財務局の一番大事な事は内部保身のみ。
値引きの言い訳に政治家への忖度があったかのような記述を報告書にした。
何も知らなかった財務省の佐川長官が曖昧で適当な答弁をした。
こんどは財務省の内部保身。
答弁とのつじつまを合わせるために公文書を書き換えた。
(佐川長官が命じたのか部下が忖度したのかは現在不明)

-----------------

この土地、大阪音大も欲しがっていた。
それを競争入札しなかったのは事件では無いが近畿財務局の落ち度だ。
大阪音大よりも高値で買うと言った籠池に渡りに船と売ったのだ。
もともと手放したい土地だったからだ。

忖度はあったけれど、忖度が悪いということでは無い。
あくまでも違法性のある行為だけが問題なのである。
違法を生み出したのが悪意だったのか忖度だったのかは問題では無い。

忖度って何か特殊なことですか?
私は家族に対しけっこう忖度しています。
うちの猫たちにだって私は忖度しています。
剣道の稽古中でも相手ごとに常に忖度しています。
仕事でお客様にメールをする時だって慎重に忖度しています。
目上の人と話すときも目下の者と話をする時も絶えず忖度しています。
車を運転する時も電車の中でも歩いていても忖度ばかりしています。
相手の事を考えず自分勝手に行動すべきでは無いと思うからです。

忖度って「他人の気持ちをおしはかること」です。
つまり「思いやり」じゃないですか?

確かに、意思を明らかにしないで、
忖度だけで人を動かすような人物は嫌ですが、
普通に社会生活していれば、誰でも大なり小なり忖度して行動してますよ。

おかしいですか?忖度が?
忖度の無い人間関係なんてあり得ません。

忖度してどこが悪いのですか?
最近、ずっとおかしいと思ってます。
世の中というか、報道が異常です。

ともかく魔女狩りのような異常な報道にはうんざりします。




【備忘録】
マスコミはあてにならないので・・・
以下は頭の中で整理し切って無いことの列挙です。
---------------------------------------------------
野党は真相解明には本当は興味が無い。
なぜ野党が安倍おろしに躍起になるのか。
地上波テレビが反安倍なのは電波利権(電波オークション)を守るため。
自民党内の反安倍勢力(岸田や石破)は財務省べったり。
消費税を上げるのに慎重な安倍を降ろしたい。

北朝鮮絡みの砂利利権。関西生コン。金丸信と小沢一郎。
森友学園や野田中央公園のようなクズ土地に高い公示価格。
森友学園の土地は籠池が高く買わされた。
あの周辺はもともと価値の無い土地である。
公示価格の絡み、地上げ屋の暗躍。

「国に言われて埋め戻しした」と証言した作業員は変死。
この作業員は連帯ユニオン関西地区生コン支部の人間。
雇った田中造園の秋山社長は「埋戻しなどしていない」と証言したが変死。
これは辻元清美がスパイを送り込んで問題が起こったから2人を口封じ。

もともとあの土地に産業廃棄物を埋めたのは誰か。
あの周辺のゴミの量や状態は最初から不明では無いのか。
産廃業者が。関西生コンが在日。暗躍する暴力団。各方面への圧力。

森友学園に隣接する、ほぼ同じ大きさの野田中央公園。
地価14億を、民主党時代に補助金と交付金で2000万で売却。
この時に表や裏で活動暗躍したのが地元の辻元清美副大臣。
辻元清美のことは新聞やテレビは知らんぷり。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大和心を語るねずさんのひとりごと」より「昭和天皇行幸」

2018年03月03日 | 政治や歴史など
今回も「ねずさんのひとりごと」に感銘を受けたので紹介します。
私はこの文章を読んで涙が止まりません。

大和心を語るねずさんのひとりごと
「昭和天皇行幸」

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1322.html

-----------------------------------------------------



お腹を空かせた者がいたら、パンを与えても、それでは一時しのぎにしかならない。
だから、お腹を空かせた者がいたら、パンを得る方法を諭すのが
より良いことだという話を聞いたことがあります。
けれど日本には、それ以外の第三の道があります。

昭和20年8月の終戦後のことです。
日本は未曾有の食料危機となりました。
物価も高騰しました。

食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りませんでした。
不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。
それまで、東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、
価値観を根底から否定され、
いかに生きるべきか、
どう生きるべきかという規範さえも失い、
呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配していました。

その日本人が、ある事件をきっかけに、
国土復旧のために元気になって立ち上がりました。
きっかけとなったのが、
「昭和天皇の全国行幸」です。

そこで昭和24年5月に行われた佐賀県行幸のときのお話しを書いてみたいと思います。
きっと感動されると思います。

昭和天皇の行幸は、
昭和21年の神奈川県を皮切りに、
昭和29年の北海道まで、
足かけ8年半にかけて行われました。
全行程は3万3000km、
総日数は165日です。

実はこれはたいへんなことです。
そもそも陛下の日常は、
我々平民と違って休日がありません。
一年365日、常に式典や祭事、
他国の元首その他の訪問、
政府決定の承認等があり、
その数なんと年間約2000件を超えるご公務です。

そうしたお忙しい日々を割いて、
昭和天皇は、全国行幸をなさいました。

この巡幸を始めるにあたり、
陛下はその意義について
次のように述べられています。

「この戦争によって祖先からの領土を失い、
 国民の多くの生命を失い、
 たいへんな災厄を受けました。
 この際、わたしとしては、
 どうすればいいのかと考え、
 また退位も考えました。

 しかし、よくよく考えた末、
 この際は全国を隈なく歩いて、
 国民を慰め、励まし、
 また復興のために立ちあがらせる為の
 勇気を与えることが責任と思う。」

当時、焼け野原になった日本で、
人々はそれまでの悠久の大義という価値観を失い、
正義が悪に、悪が正義とされる世の中を迎えていました。
しかも、たいへんな食料不足です。
物価は日々高騰していました。

お腹を空かせた家族のために闇市に買い出しに行けば、
そこは暴力が支配するドヤ街です。
嫁入り道具の着物を持って、
ようやく物々交換で米を手に入れると、
それを根こそぎ暴力で奪われる。
まるで無政府状態といえるような
たいへんな状況だったのです。

そういう状況から
国内が一日も早く脱皮し、
日本人が普通に生活できるように
しなくてはならない。
そんなときに陛下が選択されたのが、
全国行幸だったのです。

未曽有の戦災を被った日本を
不法な闇市を通さなくても
十分に食料が分配できるように
するために何が必要か。

いまの世の中なら、
すぐに財政出動だ、
何々手当の支給だ等という話になるのでしょうが、
あの時代に陛下が選択されたのは、
全国民の真心を喚起するということでした。

国民の一人ひとりが、
炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、
あるいは工場で真心をもって生産に勤しむ。
ひとりひとりの国民が復興のために、
未来の建設のために立ち上がる。
そのために陛下は、
「全国を隈なく歩いて、
 国民を慰め、
 励まし、
 また復興のために
 立ちあがらせる為の
 勇気を与え」
ようと全国を回られたのです。

ところが共産主義に感化された一部の人々は、
そうした陛下を亡き者にしようとか、
あるいは陛下を吊るし上げようと、
各地で待ち受けました。

そんな中での陛下の行幸のご様子を、
佐賀のケースで見てみようと思うのです。

陛下が佐賀県に行幸されたのは、
昭和24年5月24日のことです。
この日陛下は、
たってのご希望で、
佐賀県三養基郡にある
「因通寺」というお寺に行幸されています。

因通寺は、
戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、
皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、
それを百万人の女性たちの手で歌を刺繍して
天皇陛下と皇后陛下の御許に
奉じ奉ろうとされていたのです。

その歌というのが、
昭和13年に皇后陛下が
戦没者に対して詠まれた次の二首です。

 やすらかに
 眠れとぞ思う きみのため
 いのち捧げし ますらをのとも

 なぐさめん
 ことのはもがな たたかいの
 にはを偲びて すぐすやからを

陛下は、このことをいたく喜ばれ、
皇后陛下はすぐに針をおとりになって、
御みずからこの大幟に
一針を刺繍してくださったという経緯があります。

また終戦後には因通寺は、
寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、
そこで戦争で羅災した児童
約40名を養っていました。

陛下が寺におこしになるという当日、
寺に至る県道から町道には、
多くの人が集まっていました。
道路の傍らはもちろんのこと、
麦畑の中にも、
集まった方がたくさんいました。

その町道の一角には、
ある左翼系の男が麦畑を作っていました。
この男は、行幸の一週間くらい前までは、
自分の麦畑に入る奴がいたら
竹竿で追っ払ってやるなどと豪語していたのですが、
当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、
感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、
すっかり心が変わってしまい、
自ら麦畑を解放して
「ここで休んでください、
 ここで腰を下ろしてください」
などと集まった方々に声をかけていました。

朝、8時15分頃、
県道から町道の分かれ道のところに、
御料車が到着しました。

群衆の人達からは、
自然と「天皇陛下万歳」の声があがりました。
誰が音頭をとったというものではありません。
群衆の自然の発露として、この声があがりました。

御料車が停車しますと、
群衆の万歳の声が、ピタリとやみました。
一瞬、静まり返ったところに、
車から、まず入江侍従さんが降り立たれ、
そのあとから陛下が車から降りられると、
入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。

その瞬間、再び群衆の間から、
「天皇陛下万歳」の声があがりました。

陛下は、その群衆に向かって、
御自らも帽子をとってお応えになられる。
その姿に、群衆の感動はいっそう深まりました。

ここに集まった人達は、
生まれてこのかた、
お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。
その陛下が、いま、目の前におわすのです。
言い表すことのできないほどの
感動が群衆を包み込みました。

お車を停められたところから、
因通寺の門まで約700メートルです。
その700メートルの道路の脇には、
よくもこんなにもと思うくらい、
たくさんの人が集まっていました。
そのたくさんの人達をかきわけるようにして、
陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。

町役場のほうは、
担当の役席者が反日主義者
(当時、まともな人は公職追放となり、
 共産主義者が役席ポストに座っていた)
で、まさかこんなにも
多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、
道路わきのロープもありません。
陛下は、ひとごみのまっただ中を、
そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。

そして沿道の人達は、
いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返しました。
その声は、まるで大地そのものが
感動に震えているかのような
感じだったと言います。

陛下が寺の山門に到着されました。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、
その坂を上り詰めると、23段の階段があります。
その階段を登りきられたとき、
陛下はそこで足を停め、
「ホーッ」と感嘆の声をあげられました。

そうです。
石段を登りきった目の前に、
新緑に彩られた因通寺の洗心の山々が
グッと迫っていたのです。
陛下は、その自然の織りなす姿に、
感嘆の声をあげられた。

陛下が足をお留めになられている時間が
あまりに長いので、
入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、
何らかの言葉を申し上げると、
陛下はうなずかれて、
本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされました。

そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれました。
寮の二階の図書室で、机を用意して、
そこで佐賀県知事が
陛下にお迎えの言葉を申し上げる
という手はずになっていたのです。

図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、
当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、
恭しく最敬礼をし、
陛下にお迎えの言葉を述べました。

「本日ここに、
 90万県民が
 久しくお待ち申し上げておりました
 天皇陛下を目の当たりに・・・・」

そこまで言上申し上げていた沖森知事は、
言葉が途切れてしまいました。
知事だって日本人です。
明治に生まれ、
大正から昭和初期という
日本の苦難の時代を生き、
その生きることの中心に陛下がおわし、
自分の存在も陛下の存在と受け止めていたのです。
知事は陛下のお姿を前に、
もろもろの思いが胸一杯に広がって、
嗚咽とともに、
言葉を詰まらせてしまったのです。

するとそのとき入江侍従さんが、
知事の後ろにそっと近づかれ、
知事の背中を静かに撫でながら、
「落ち着いて、落ち着いて」と申されました。
すると不思議なことに
知事の心が休まり、
あとの言葉がスムーズに言えるようになったそうです。

この知事のお迎えの挨拶のあと、
お寺の住職が、
寺にある戦争羅災孤児救護所について
ご説明申し上げることになっていました。

自分の前にご挨拶に立った知事が、
目の前で言葉を詰まらせたのです。
自分はあんなことがあってはいけない、
そう強く自分に言い聞かせた住職は
奏上文を書いた奉書を持って、
陛下の前に進み出ました。
そして書いてある奏上文を読み上げました。

「本日ここに、
 一天万乗の大君を
 この山深き古寺にお迎え申し上げ、
 感激これにすぎたるものはありません」

住職はここまで一気に奏上文を読み上げました。
ところがここまで読み上げたところで、住職の胸に
ググっと熱いものが突き上げてきました。

引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、
戦争で亡くなった
小学校、中学校、高校、大学の
級友たちの面影、
「天皇陛下万歳」と
唱えて死んで行った戦友たちの姿と、
一緒に過ごした日々、
そうしたありとあらゆることが
一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、
目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、
陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが
目の前に浮かんで、
奏上申し上げる文さえも
奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのです。

意識は、懸命に文字を探そうとしていました。
けれどその文字はまったく見えず、
発する言葉も声もなくなってしまいました。
ただただ、目から涙がこぼれてとまらない。
どう自分をコントロールしようとしても、
それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。

そのとき誰かの手が、
自分の背中に触れるのを感じました。
入江侍従さんが、
「落ち着いて、落ち着いて」と
背中に触れていてくれたのです。

このときのことを住職は、
前に挨拶に立った知事の姿を見て、
自分はあんなことは絶対にないと思っていたのに、
知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。

こうしたことは外国の大使の方々も
同様のことがあるのだそうです。
外国の大使の方々は、
日本に駐在していていよいよ日本を離れるときに、
おいとまごいのために
陛下のところにご挨拶に来る習わしになっています。

駐日大使というと、長い方で6~7年、
短い方でも2~3年の滞在ですが、
帰国前に陛下にお目にかかって
お別れのご挨拶をするとき、
ほとんどの駐日大使が
「日本を去るに忍びない、
 日本には陛下がおいでになり、
 陛下とお別れをすることが
 とても悲しい」と申されるそうです。

この言葉が儀礼的なものではないことは、
その場の空気ではっきりとわかります。
陛下とお話しをされながら、
駐日大使のほとんどの方が、
目に涙を浮かべて、言葉を詰まらせるのです。

特に大使夫人などは、
頬に伝わる涙を拭くこともせず、
泣きながら陛下においとまごいをされるといいます。

こうしたことは、
その大使が王国であろうと
共和国であろうと、
共産圏の方であろうと、
みな同じなのだそうです。

むしろ共産圏の国々の方々のほうが、
より深い惜別の情を示される。

さて、ようやく気を取り直した住職は、
自らも戦地におもむいた経験から、
天皇皇后両陛下の御心に報いんと、
羅災孤児たちの収容を行うことになった
経緯を奏上しました。

この奏上が終わると、
何を思われたか陛下が壇上から床に降り立ち、
つかつかと住職のもとにお近寄りになられました。

「親を失った子供達は大変可哀想である。
 人の心のやさしさが
 子供達を救うことができると思う。
 預かっているたくさんの仏の子供達が、
 立派な人になるよう、
 心から希望します」と住職に申されました。
住職はそのお言葉を聞き、
身動きさえもままなりませんでした。

この挨拶のあと陛下は、
孤児たちのいる寮に向かわれました。
孤児たちには、あらかじめ
陛下がお越しになったら部屋で
きちんと挨拶するように申し向けてありました。

ところが一部屋ごとに足を停められる陛下に、
子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしません。
昨日まであれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、
みな、呆然と黙って立っていました。

すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。
頭をぐっとおさげになり、
腰をかがめて挨拶され、
満面に笑みをたたえていらっしゃる。
それはまるで陛下が
子供達を御自らお慰めされているように
見受けられました。

そして陛下はひとりひとりの子供に、
お言葉をかけられました。
「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました。」

すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。
そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。

すると陛下は、子供達ひとりひとりに
まるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
「立派にね、元気にね」
とおっしゃる。

陛下のお言葉は短いのだけれど、
その短いお言葉の中に、
深い御心が込められています。
この「立派にね、元気にね」の言葉には、
「おまえたちは、
 遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどから
 この日本に帰ってきたが、
 お父さん、お母さんがいないことは、
 さぞかし淋しかろう。悲しかろう。
 けれど今こうして寮で立派に日本人として
 育ててもらっていることは、
 たいへん良かったことであるし、
 私も嬉しい。
 これからは、
 今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、
 立派な日本人になっておくれ。
 元気で大きくなってくれることを
 私は心から願っているよ」
というお心が込められているのです。
そしてそのお心が、短い言葉で、
ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。

陛下が次の部屋にお移りになると、
子供達の口から
「さようなら、さようなら」
とごく自然に声がでるのです。
すると子供達の声を聞いた陛下が、
次の部屋の前から、
いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、
その子に
「さようならね、さようならね」
と親しさをいっぱいにたたえたお顔で
ご挨拶なされるのです。

次の部屋には、
病気で休んでいる二人の子供がいて、
主治医の鹿毛医師が付き添っていました。
その姿をご覧になった陛下は、
病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、
鹿毛医師に
「大切に病を治すように希望します」と申されました。
鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、
「誠心誠意万全を尽くします」
と答えたのですが、
そのときの鹿毛医師の顔は、
まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。

こうして各お部屋を回られた陛下は、
一番最後に禅定の間までお越しになられました。
この部屋の前で足を停められた陛下は、
突然、直立不動の姿勢をとられ、
そのまま身じろぎもせずに、
ある一点を見つめられました。

それまでは、どのお部屋でも
満面に笑みをたたえて、
おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、
この禅定の間では、
うってかわって、
きびしいお顔をなされたのです。

入江侍従長も、田島宮内庁長官も、
沖森知事も、県警本部長も、
何事があったのかと顔を見合わせました。
重苦しい時間が流れました。

ややしばらくして、
陛下がこの部屋でお待ち申していた
三人の女の子の真ん中の子に
近づかれました。
そしてやさしいというより静かなお声で、
「お父さん。
 お母さん」
とお尋ねになったのです。

一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、
何事があったのかわからりません。

けれど陛下の目は、一点を見つめています。
そこには、
三人の女の子の真ん中の子の手には、
二つの位牌が
胸に抱きしめられていたのです。

陛下はその二つの位牌が
「お父さん?お母さん?」
とお尋ねになったのです。

女の子が答えました。
「はい。これは父と母の位牌です」

これを聞かれた陛下は、
はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになられました。
「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。
 母は引揚途中で病のために亡くなりました」
この子は、よどむことなく答えました。

すると陛下は
「おひとりで?」とお尋ねになる。
父母と別れ、
ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。

「いいえ、奉天からコロ島までは
 日本のおじさん、おばさんと一緒でした。
 船に乗ったら船のおじさんたちが
 親切にしてくださいました。
 佐世保の引揚援護局には、
 ここの先生が迎えにきてくださいました」

この子がそう答えている間、
陛下はじっとこの子をご覧になりながら、
何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は
「お淋しい」と、
それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらました。

しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、
この子は
「いいえ、淋しいことはありません。
 私は仏の子です。
 仏の子は、
 亡くなったお父さんともお母さんとも、
 お浄土に行ったら、
 きっとまたあうことができるのです。
 お父さんに会いたいと思うとき、
 お母さんに会いたいと思うとき、
 私は御仏さまの前に座ります。
 そしてそっとお父さんの名前を呼びます。
 そっとお母さんの名前を呼びます。
 するとお父さんもお母さんも、
 私のそばにやってきて、
 私を抱いてくれます。
 だから私は淋しいことはありません。
 私は仏の子供です。」

こう申し上げたとき、
陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。
この子も、じっと陛下を見上げていました。
陛下とこの子の間に、
何か特別な時間が流れたような感じがしました。

そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。
部屋に入られた陛下は、
右の御手に持たれていたお帽子を左手に持ちかえられ、
右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。

そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。
 これからも立派に育っておくれよ」と申されました。
そのとき、陛下のお目から、
ハタハタと数的の涙が、
お眼鏡を通して畳の上に落ちました。

そのときこの女の子が、小さな声で、
「お父さん」
と呼んだのです。
これを聞いた陛下は、
深くおうなずきになられました。

その様子を眺めていた周囲の者は、
皆、泣きました。
東京から随行してきていた新聞記者も、
肩をふるわせて泣いていました。

子供達の寮を後にされた陛下は、
お寺の山門から、お帰りになられます。
山門から県道にいたる町道には、
たくさんの人達が、
自分の立場を明らかにする掲示板を持って
道路の両側に座り込んでいました。

その中の「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまで
お進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、
「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、
 そのためにみんなが悲しんでいるが、
 自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、
遺族の方達に、深々と頭を下げられました。

遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえました。

陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。
「どなたが戦死されたのか?」
「息子でございます。
 たったひとりの息子でございました。」
そう返事しながら、
老婆は声を詰まらせました。

「うん、うん」と頷かれながら陛下は
「どこで戦死をされたの?」

「ビルマでございます。
 激しい戦いだったそうですが、
 息子は最後に天皇陛下万歳と言って
 戦死をしたそうででございます。
 でも息子の遺骨はまだ帰ってきません。
 軍のほうからいただいた白木の箱には、
 石がひとつだけはいっていました。
 天皇陛下さま、
 息子はいまどこにいるのでしょうか。
 せめて遺骨の一本でも
 帰ってくればと思いますが、
 それはもうかなわぬことでございましょうか。
 天皇陛下さま。
 息子の命はあなたさまに差し上げております。
 息子の命のためにも、
 天皇陛下さま、長生きしてください。
 ワーン・・・・」

そう言って泣き伏す老婆の前で、
陛下の両目からは滂沱の涙が伝わりました。
そうなのです。
この老婆の悲しみは陛下の悲しみであり、
陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあったのです。
そばにいた者全員が、この様子に涙しました。

遺族の方々との交流を終えられた陛下は、
次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれました。
そして「引揚者」と書かれた人達の前で、
足を停められました。

そこには若い青年たちが数十人、
一団となって陛下をお待ちしていました。

実はこの人達は、
シベリア抑留されていたときに徹底的に洗脳され、
日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、
誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達でした。

この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、
陛下に戦争責任を問いつめ、
もし陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、
暴力をもってしても
天皇に戦争責任をとるように発言させようと、
待ち構えていたのです。

そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、
ただちに全国の同志にこれを知らしめ、
日本国内で一斉に決起して
一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、
共産主義国家の樹立を図る手はずになっていました。

そうした意図を知ってか知らずか、
陛下はその一団の前で足をお止めになられました。
そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、
深々とその一団に頭を下げられました。
「長い間、
 遠い外国で
 いろいろ苦労して
 大変であっただろうと思うとき、
 私の胸は痛むだけでなく、
 このような戦争があったことに対し、
 深く苦しみをともにするものであります。
 みなさんは外国において、
 いろいろと築き上げたものを
 全部失ってしまったことであるが、
 日本という国がある限り、
 再び戦争のない平和な国として
 新しい方向に進むことを希望しています。
 みなさんと共に手を携えて、
 新しい道を築き上げたいと思います。」

陛下の長いお言葉でした。
そのときの陛下の御表情とお声は、
まさに慈愛に満ちたものでした。
はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、
陛下のお言葉を聞いているうちに、
陛下の人格に引き入れられてしまいました。

「引揚者」の一団の中から、
ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきました。
そして、
「天皇陛下さま。
 ありがとうございました。
 いまいただいたお言葉で、
 私の胸の中は晴れました。
 引揚げてきたときは、
 着の身着のままでした。
 外地で相当の財をなし、
 相当の生活をしておったのに、
 戦争に負けて帰ってみればまるで赤裸です。
 生活も最低のものになった。
 ああ、戦争さえなかったら、
 こんなことにはならなかったのにと
 思ったことも何度もありました。
 そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。
 しかし苦しんでいるのは、
 私だけではなかった。
 天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、
 いま、わかりました。
 今日からは決して世の中を呪いません。
 人を恨みません。
 天皇陛下さまと一緒に、
 私も頑張ります!」
と、ここまでこの男が申した時、
そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、
ワーッと泣き伏したのです。
「こんな筈じゃなかった。
 こんな筈じゃなかった。
 俺が間違えていた。
 俺が誤っておった」
と泣きじゃくるのです。

すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、
ほとんどが目に涙を浮かべながら、
この青年の言葉に同意して泣いている。

彼らを見ながら陛下は、
おうなずきになられながら、
慈愛をもって微笑みかけられました。
それは、何も言うことのない、
感動と感激の場面でした。

いよいよ陛下が御料車に乗り込まれようとしたとき、
寮から見送りにきていた
先ほどの孤児の子供達が、
陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」と申しました。

すると陛下は、この子をじっと見つめ、
にっこりと微笑まれると
「また来るよ。
 今度はお母さんと一緒にくるよ」と申されました。

御料車に乗り込まれた陛下が、
道をゆっくりと立ち去っていかれました。
そのお車の窓からは、
陛下がいつまでも御手をお振りになっていました。

宮中にお帰りになられた陛下は、
次の歌を詠まれました。

 みほとけの
 教へ まもりて すくすくと
 生い育つべき 子らに幸あれ

※出典:しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大和心を語るねずさんのひとりごと」より「マッカーサーを心服させた昭和天皇」

2018年02月23日 | 政治や歴史など
昨夜はのっぴきならぬ用事のため木曜会の稽古を休んだ。
1回休んだだけで数ヶ月も遅れたかのようにも感じる。残念。

--------------------------------------

今回も「ねずさんのひとりごと」に感銘を受けたので紹介します。
改行の位置、数字の全角を半角に変更しています。(粕井)

大和心を語るねずさんのひとりごと
「マッカーサーを心服させた昭和天皇」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2265.html

-----------------------------------------------------



昭和20年9月27日のことです。
陛下が一人の通訳だけを連れて、マッカーサーのもとを訪れました。
「ついに天皇をつかまえるべき時が来た」
事前に連絡を受けていたマッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。

すでにこの時点で、陛下をどのようにするのか、GHQの中でも議論が交わされていました。
方針は大きく分けて3つありました。
1 東京裁判に引き出して絞首刑に処する。
2 日本共産党をおだてあげ、人民裁判の名のもとに血祭りにあげる。
3 支那に亡命させて秘密裏に殺害する。
いずれにしても、陛下を亡きものにすることが決められていたのです。

マッカーサーは、陛下が命乞いに来られるのだと思いました。
ですから彼は、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえ、
ソファーから立とうともしませんでした。



このマドロスパイプを咥えたマッカーサーの姿は、
彼が日本に降り立ったときの姿としても有名なものです。
当時の米国は、トウモロコシが主たる産物でした。
これが小麦にとってかわるのは、日本占領後、日本の農林10号(小麦)が米国に渡ってからのことです。
ですので、当時、トウモロコシでできたマドロスパイプ(コーンパイプ)は、米国の象徴でした。

パイプタバコをやったことがある方ならおわかりいただけると思いますが、
マドロスパイプのような柄の長いパイプは、長時間は咥えていれません。
口からヨダレがタラタラと流れてしまうからです。
ですからマッカーサーがマドロスパイプを咥えるということは、
米国のトウモロコシが日本を制圧したことの象徴であり、
彼独特の先勝を誇示したポーズでもあったわけです。

椅子に座って背もたれに体を預け、足を組み、マドロスパイプを咥えた姿は、
ですから陛下をあからさまに見下した態度であったわけです。

そのマッカーサーに対し、陛下は直立不動の姿勢をとられ、
国際儀礼としてのご挨拶をしっかりとなさったうえで、このようにおっしゃられました。

「日本国天皇はこの私であります。
 戦争に関する一切の責任はこの私にあります。
 私の命においてすべてが行なわれました限り、
 日本にはただ一人の戦犯もおりません。
 絞首刑はもちろんのこと、
 いかなる極刑に処されても、
 いつでも応ずるだけの覚悟があります」

弱ったのは通訳でした。
その通り訳していいのか?
けれど陛下は続けられました。
                                  
「しかしながら、罪なき8000万の国民が住むに家なく、
 着るに衣なく、食べるに食なき姿において、
 まさに深憂に耐えんものがあります。
 温かき閣下のご配慮を持ちまして、
 国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」

マッカーサーは驚きました。
世界中、どこの国の君主でも、自分が助かりたいがために、
平気で国民を見捨てて命乞いをし、その国から逃げてしまうのが、いわば常識なのです。
ところが陛下は、やれ軍閥が悪い、やれ財閥が悪いという当時のご時勢下にあって、
「一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても」
と淡々として申されたのです。

マッカーサーは、咥えていたマドロスパイプを、机に置きました。
そして椅子から立ち上がりました。
そして陛下に近づくと、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と命じました。

マッカーサーは今度はまるで一臣下のように掛けていただいた陛下の前に立ち、
そこで直立不動の姿勢をとりました。

「天皇とはこのようなものでありましたか!
 天皇とはこのようなものでありましたか!」
彼は、二度、この言葉を繰り返したそうです。

そして、

「私も、日本人に生まれたかったです。
 陛下、ご不自由でございましょう。
 私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」と言いました。

陛下も、立ち上がられました。
そして涙をポロポロと流しながら、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっております。
 この私に何の望みがありましょうか。
 重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と申されたのです。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関まで伴い、
自分の手で車の扉を開け、陛下をお見送りしました。
そして、あわてて階段を駆け上がると、
これまでのGHQの方針を180度変更するあらたな命令を下しています。

このことがあったあと、マッカーサーは、
「陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた」と言ったそうです。

「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね。
旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。
ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。
神さまじゃなくて人間だ、ということをね。それが生きた民主主義の教育というものだよ」
  
昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、
占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされていたそうです。
ところがその結果は高官達の期待を裏切るものでした。

昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られました。
行程は3万3千キロ、総日数165日です。
各地で数万の群衆にもみくちゃにされたけれど、石一つ投げられたことはなかったのです。

英国の新聞は次のように驚きを述べました。
「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。
各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。
何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。」

イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、
わずか1ヶ月で廃位に追い込まれています。
それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
欧米人の常識では理解できないことが起こっていたのです。

以下のことは、先日の日本史検定講座で高森明勅先生に教えていただいたのですが、
フランスに、世界を代表する歴史学者のマルク・ブロックという人がいます。
そのマルク・ブロックが、ヨーロッパの歴史を書いた『封建社会』(みすず書房刊)
という本があるのですが、その本の中で彼は、

「西ヨーロッパは、他の世界中の地域と違ってゲルマン民族の大移動以降、
内部で争うことはあっても、よそから制圧されて文化や社会が断絶するようなことがなかった。
それによって内部の順調な発展があった。
我々が日本以外のほとんどのいかなる地域とも共有することのない、
この異例の特権を、言葉の正確な意味におけるヨーロッパ文明の基本的な要素のひとつだったと
考えても決して不当ではない。」と書いています。

西ヨーロッパでは、歴史が断絶しなかったからこそ、中世の文化を継承し、
世界を征服するだけの国力をつけ、18世紀後半以降の市民革命を実現し、
近代化を実現することができたのです。
そしてそのことは、「我々が日本以外のほとんどのいかなる地域とも
共有することのない異例の特権」と、マルク・ブロックは書いているわけです。

ここに書かれたゲルマン民族の大移動というのは、4世紀から5世紀にかけて起きた事件です。
そしてこの大移動をもって、西ヨーロッパの古代の歴史は断絶し、
まったく別な中世へと向かうわけです。

ところが日本では、4世紀から5世紀といえば、大和朝廷の発展期です。
そしてその大和朝廷は、弥生時代に倭国を築いた朝廷が、
そのまま大和地方に本拠を移したものに他なりません。

その弥生時代が縄文時代の延長線上にあり、弥生人は決して渡来人などではなく、
縄文時代からずっと日本に住み続けた同じ日本人であることは、先日書かせていただきました。
その弥生時代が、まさに卑弥呼の登場する時代です。
そしてその倭国が東上しながら古墳時代をつくり、
そして奈良県の大和盆地に都を構えて、これが大和時代です。

その大和朝廷が第三回の遣隋使のときに、
「東の天皇、つつしみて西の皇帝にもうす」と書いた国書を持参しました。
これが日本が対外的に「天皇」を名乗った最初の出来事です。西暦608年の出来事です。

そしてその大和朝廷が「日本」を名乗ったのが689年です。
つまり、「天皇の御存在」は、「日本という国号」よりも「古い」のです。

そして万世一系、昭和天皇は第124代の天皇です。
ご在位は、歴代天皇の中でも最長です。

昭和天皇のお名前は「裕仁(ひろひと)」です。
明治天皇がお付けになられたお名前です。
「裕」は、易経の「益徳之裕也」、詩経の「此令兄弟綽々有裕」、書経の「好問即裕自用即小」、
礼記の「寛裕者仁之作也」からとられたのだそうです。

その意味は、「広く大きな心で国を治め、人類の幸福に尽くすように」です。
そしてまさに、昭和恐慌から支那事変、先の大戦、戦後の復興、東京オリンピック、
そして高度成長と、激動の時代を生きられたのが、昭和天皇です。

その昭和天皇のご辞世を、せんだってご紹介しました。

 やすらけき 世を祈りしも いまだならず 
 くやしくもあるか きざしみゆれど

この御製は、昭和63年8月15日に陛下が全国戦没者遺族に御下賜遊ばされたものです。
これが陛下の御辞世となりました。

「安らかな世をずっと祈り続けたけれど、それはいまだなっていない。
そのことが悔しい。きざしはみえているけれど、そこに手が届かない」
という意味だと拝します。

昭和天皇は、お亡くなりになる直前に、「悔しい」と詠まれておいでなのです。

どこまでも国民のためを思うご生涯を遂げられた昭和天皇の思いに、
わたしたちは日本国民として、ちゃんと答えているのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする