稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

奈良の地名由来辞典を買いました。

2020年05月14日 | 旅行や街角メモリー


「奈良の地名由来辞典」という本を見つけて衝動買いしてしまった。
東京堂出版 池田末則編 ネットで税込み送料込みで 3,080円。

さっそく気になるところを調べてみる。
(下の説明文は抜粋で、文章も少し読みやすく変えています)

登美ヶ丘
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「神武記」には神武天皇が生駒山を越え、鳥見の長髄彦(とみのながすねひこ)と戦った時、
飛来した金鵄(金色のトビ。霊鳥)の霊光によって勝利を得たといい、「時の人よりて鵄邑(
とびのむら)となづく。今、鳥見(とみ)というは、これ訛れ(よこなばれ)るなり」とある。つまり、
地名、鳥見にちなむ説話であって史実ではない。
--------------------

生駒
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「神武記」に、天皇が胆駒山(いこまやま)を越え大和に入国したという記事がある。旧郡名を
平群(へぐり・辺の国)といったように、イコマはイ(接頭語)+クマ(隅・隈)を意味する語であろう。

走り読みだが、甘樫丘(あまかしのおか)、三碓(みつがらす)、多武峰(とうのみね)、
多聞山(たもんやま)、というところを読んでみたが、なかなかに面白い。

二上山(ニジョウザン)は昔は「ふたかみ山」と言っていたこと、
真美ケ丘という団地名は、古来の大豆山(まめやま)、馬見山(まみやま)から来たもの、
奈良(ナラ)という地名は平(なら)した所という意味もあるが、
平(なだ)らかにつづく丘陵(奈良の北に位置する平城山・ナラヤマ)を形容した
・・など、興味深い記述がたくさんある。

日本語が誕生してあと漢字が入ってきて、
やまと言葉を漢字に置き換えたせいか、同じ言葉でも漢字の表記は様々で、
それが音読み訓読みごっちゃになったり、書き写すうちに間違ったり、間違いが定着したりして、
さまざまな地名が生まれてきたというのもわかってきた。

上に書いた「鳥見の長髄彦(とみのながすねひこ)」も、
昨日は「登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)」と書いたのでよくわかる。

いずれにしろ、案外、奈良を知らないものだ。

こうなりゃ「ディスカバリー奈良」である。
この本で調べ、地図で目星をつけ、バイクを使って奈良を楽しもう。


(5月1日の飛火野前の1枚から)
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地名探索・・登美、富雄、登彌、鳥見(続き)

2020年05月13日 | 旅行や街角メモリー
続きである。

翌日、出勤前に家の近くの神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑に寄ってみた。
ここは自宅から1キロほどの距離だが、その存在はずっと知らなかった。


(富雄川沿いの出垣内バス停近くにバイクを停める)


(神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑と、天忍穂耳神社の案内)


(神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑)


(東征の時に長髄彦を討つおり金鵄を得て、のち鵄邑とした・・とある)


(この碑は皇紀2600年・昭和15年に建たてもの)


(奥まで登ると天忍穂耳神社があった)


(神社は小高い山の上にある)

天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)は日本神話に登場する神。
アマテラスの子で、地神五代の二代目。


(そこそこ高低差があり、深い山の中にいるような気にもさせる)

調べてみると長髄彦(ながすねひこ)は、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)。
ここに「登美ヶ丘」の「登美」の文字を発見する。地元の有力者であったそうな。

主君は邇芸速日命(にぎはやひのみこと)で、神武天皇に抵抗したため、
主君の邇芸速日命によって殺されたのだそうな。

神武天皇の東征の話は、地名にあちこち残っていて興味が沸いてきた。
事務所の近くの「盾津」という地名も、盾を並べて防戦した場所だという。

gogleの地図で周辺を調べると、興味深いものがいくつもある。
ヒマを見つけて訪問してみようと思う。


(生駒市上町の鵄(トビ)山バス停)


(饒速日命(にぎはやのみこと墳墓)

邇芸速日命(にぎはやひのみこと)の妻は長髄彦(ながすねひこ)の妹で御炊屋姫(みかしやひめ)である。
御炊屋姫(みかしやひめ)は別名、登美夜毘売(とみやびめ)とも言う。


(ここも毎日通う道のすぐ脇にあるがまだ寄っていない)


(王龍寺は父母の墓がある寺である)(ここにも鵄(トビ)神社があった)

金鵄(きんし)は、『日本書紀』に登場し、神武天皇による日本建国を導いた金色の鵄。
鵄はトビであり、トビ、トミ、トリミは同じものを差している。

ひょんな事から、日本書紀や古事記に興味が出て来た。
日本の神話を読んで、あらためて地名を見ていくと面白いかも知れない。


(師匠の店に寄ってみたがあいにく閉まっていた・・・残念!)
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地名探索・・登美、富雄、登彌、鳥見

2020年05月12日 | 旅行や街角メモリー
私の実家は登美ヶ丘という地名だが小さなころは二名町と言っていた。
小学校の時に二名町が登美ヶ丘という地名に変った。
登美という地名は良い響きだが深い意味があるとは思っていなかった。

気が付けば、近所には「とみ」の響きを持つところがいくつかある。
ふと思いついてバイクで散策に出かけてみた。
今の時期、休日は無く、ほんの合い間である。


(自宅に近い西登美ヶ丘バス停)


(近鉄奈良線富雄駅)

富雄駅は1941年(昭和16年)9月~1953年(昭和28年)4月まで鵄邑駅(とびのむらえき)だった。


(とりみ通り)


(鳥見町の富雄団地)


(登彌神社)


(登美山霊山寺)

他に気になるところがあったが全部回ることは出来なかった。

富雄は最初、鵄邑(とびのむら)と言ったらしい。
後世、鵄邑は鳥見郷または鳥見庄と呼ばれるようになり、さらに変化して富雄村となった・・という。

新興住宅地なので「登美」は新しく作ったと思ったが随分歴史がありそうだ。
古代史にはあまり興味が無かったが、これを機会に調べてみようと思う。
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バンバン200で奈良公園まで写真を撮りに。

2020年05月01日 | 旅行や街角メモリー
朝・・・

天気が良く暖かいのでバイク(スズキバンバン200)で出発した。
バイクだとどうしても真っすぐ事務所には行きたくなくなる。
北に向かって、くろんど池を越え、枚方大和郡山線から交野を抜けて出勤した。

※傍示峠(磐船峠)だと思っていたら違っていた。(次回に通ってみようと思ふ)


(枚方大和郡山線を越えて大阪平野が見えたところ)


(下ってから見上げたら岩が見えた。交野山観音岩だと思うがよくわからない。)


(適当に走っていたら、学研都市線の河内磐船駅前に出てしまった)

毎年、連休時期は休みが無く、一年で一番忙しい時期である。
と言っても今年はコロナ禍のせいで売上げが伸び悩んでいる。

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夕方・・・

出荷作業が少し早く終わったので後片付けもせずカメラを持って飛び出した。
生駒山を越えて旧阪奈道路を真っすぐ奈良まで向かう。
途中、西大寺でいったん脇道へ入り、菅原寺(喜光寺)の傍の横断歩道橋の上から撮影。


(菅原寺)


(同じ場所から奈良方面を写す)


(同じ場所から下に停めたバイクを写す)


(説明の看板を見ると菅原寺は喜光寺に改名されたのだそうな)

まだ日暮れには時間があるので奈良公園に向かった。


(まずは猿沢池にて1枚)


(飛火野にバイクを止める)

ともかくどこもかしこも人が居ない。



と、思ってたら、このあとパトカーが来て「はよ帰りなさい」って怒られた。









少し走ると鷺池(浮見堂のある池)から見えた夕日がきれいなので撮影した。



陽が沈むまで、しばらくぼんやり眺めていた。
2時間程度の急ぎ足でのミニ旅行だがとても良かった。
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映画をあきらめ信楽へ(2020年3月8日)

2020年03月09日 | 旅行や街角メモリー
天気が良ければ職場までバイクで行くつもりだったがあいにく朝から雨。
すぐに仕事に行く気も起きず午前中は映画を観ようということになった。



映画は「星屑の町」(下のリンクは公式サイト)
https://hoshikuzu-movie.jp/
地方回りの売れないムード歌謡コーラスグループ「山田修とハローナイツ」の悲哀を描く人気舞台「星屑の町」シリーズを映画化。大手レコード会社の元社員・山田修をリーダーに、歌好きの飲み仲間や売れない歌手が集まって結成された「山田修とハローナイツ」。結成から十数年が経つ彼らだったが、これといったヒット曲もなく、ベテラン女性歌手のキティ岩城らと地方を回りながら細々と活動を続けていた。ある日、彼らは修の生まれ故郷である東北の田舎町へ巡業に訪れる。そこには修との間に遺恨を抱える弟・英二が待っていた。一方、英二の息子の幼なじみである愛は、母が営むスナックを手伝いながら歌手になることを夢見ていた。そんな彼女がハローナイツに入りたいと言い出したことから、思わぬ騒動が巻き起こる。メンバーには大平サブロー、ラサール石井、小宮孝泰ら舞台版でおなじみのキャストが集結。「この世界の片隅に」の声優も好評だったのんがヒロインの愛を演じ、「海月姫」以来約6年ぶりに実写映画に出演した。監督は「の・ようなもの のようなもの」の杉山泰一。(文章は「映画.com」より拝借)

イオンシネマ高の原まで車で出かけた。
妙に駐車場が空いているなあと思ったらドアが開かない。



11時開店だと!
しかし映画はどうなっているんだ? と、別の入り口に行ってみた。



同じことである。

あきらめて出て来たがこのまま帰るには気持ちがおさまらない。
で、何となく163号線を東に向けて車を走らせた。

途中で思い立って信楽に行くことにした。
信楽は中学生の時に家族で出かけたのと若い頃にデート(女房ではない)で行った記憶がある。
実に40年ぶりぐらいの信楽だ。

雨だし時間も無いので一軒だけ寄って見学。
買うつもりは無かったが見ていると欲しくなって盃など数点買ってしまった。




(いろんなタヌキがいるもんだ)


(信楽はスカーレットというテレビドラマの舞台になっているらしい)















見ているだけでも楽しくなる。
帰りは信楽高原鉄道の信楽駅だけ確認して奈良に戻った。
今度はバイクでゆっくり来てみよう。
本日、メモカメラなので画質は悪い。
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恒例の秋の旅行(2019年10月5-6日)

2019年10月07日 | 旅行や街角メモリー
3日が結婚記念日で5日が女房の誕生日(今年5?才)でなので、
毎年10月の第一週は予定が無い限り旅行と決めている。

いや、今回も剣道と一刀流の稽古の予定と、
五段までの審査会があったのだが旅行を優先させてもらった。

この時期はまだ中途半端に暑かったりして紅葉にもまだ早く、
そのせいか、どこに行っても比較的空いているのはありがたい。

宿泊地は兵庫県の日本海側の湯村温泉。
真っ直ぐ行くのは勿体無いので、行きは鳥取の白兎神社と鳥取砂丘、
帰りは竹田城址に寄ったが、歩き疲れてけっこう早く帰ってきた。
時間的に稽古に行けなくも無かったがそんな元気は残っていない。

そう、もう若くは無いのだ。


(前日4日は自宅で長兄と酒を飲んで大騒ぎ)


(まずは白兎海岸の白兎神社へ)


(白兎神社の参道から白兎海岸を見る)


(鳥取砂丘)


(鳥取砂丘)


(鳥取砂丘)


(鳥取砂丘)


(鳥取砂丘)


(旅館に着いてから温泉街を散策)


(夢千代像)


(正福寺の石段前)


(夢千代館にも寄ってみた)


(結婚38周年に乾杯)


(竹田城址)


(竹田城址)


(これは観光案内所の写真をバックに撮ったもの)


(同じく)


(走行中は警告灯が点きっぱなし・・帰りの一般道で運転しながら撮ったもの)

初日、中国道に入ってデリカスターワゴンの警告灯が時々点灯するようになった。
A/T TEMP警告灯と、充電警告灯。周期的にこの2つが点いて、しばらくすると消える。
「この旅行は大変な旅行になるかも知れないなあ」と思って冷や汗出たが、
エンジンの調子は良く、2つ一緒に点くのは、きっと表示系の故障だと考えた。
そのうち慣れてきて気にならなくなって、そのまま無視して走り続けた。

良い子はマネせぬように。
高速道路でのエンジントラブルは命取りだ。
(20年ほど前に東北自動車道でセレナのエンジンが突然死んだ経験あり)
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二名小学校跡

2019年08月11日 | 旅行や街角メモリー

今回もバイクで近所の散策。
ちょこっとした散策が好きである。いや大好き。
街角で見かけた「?」が放っておけない性格なのだ。

バイクで近所を走っていると「二名小学校跡」の石碑があった。
二名小学校は、うちの三男坊が在籍していた小学校で、場所が違う。
それに、どう考えても小学校があったような広さも形跡も無い。

「二名小学校」を建てる時の準備室があったのだろうか?
などと思って、取り合えずメモカメラで写真を撮った。


(二名小学校跡の石碑)


(石碑の裏側)

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表:二名小学校跡
横:創立百年記念事業委員会 富雄北小学校同窓会
裏:昭和54年2月19日建立 奈良市立富雄北小学校創立百年記念
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(google map より)

ははあ、なるほど。
これは現在の二名小学校ではなく、
富雄北小学校に関連あるんだな・・・と思った次第。

さっそく富雄北小学校をWikipediaで調べてみた。
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1879年2月19日 - 二名尋常小学校として開校。
1933年12月15日 - 富雄村立富雄北高等尋常小学校と改称。
1941年4月1日 - 富雄北国民学校と改称。
1947年4月1日 - 富雄村立富雄北小学校と改称。
1955年3月15日 - 奈良市立富雄北小学校と改称。
1965年4月1日 - 奈良市立あやめ池小学校、奈良市立鶴舞小学校を分離し、校区変更。
1966年4月1日 - 奈良市立鳥見小学校を分離し、校区変更。
ただし校舎は未完成につき、同校職員および児童全員は本校に間借りした。
1973年4月1日 - 奈良市立鶴舞西小学校を分離し、校区変更。
1973年4月1日 - 奈良市立二名小学校を分離し、校区変更。
1976年4月1日 - 奈良市立富雄第三小学校を分離し、校区変更。
1980年4月1日 - 奈良市立三碓小学校を分離し、校区変更。
----------------------

なるほど。二名尋常小学校は、この周辺の小学校の元祖だったのだ。

で、いつもの今昔マップ。
http://ktgis.net/kjmapw/index.html


(今昔マップの、1922年-大正11年)


(今昔マップの現在、赤丸は二名小学校と富雄北小学校、青丸は二名小学校跡)

ここからは余談。

昭和35年当時、富雄北小学校は、うちの兄達が通っていた学校である。
大阪から引っ越してきて、私は近所に幼稚園も無く、
兄達を送り出してからは退屈で仕方が無かった記憶がある。
その頃から、ぼんやり空を見上げているクセがついたのかも知れない。

奈良市登美ヶ丘の自宅から富雄までは子供の自転車では大冒険で、
おいそれと行けたものでは無かったが一度だけ兄達を追いかけて行ったことがある。

目的はプラモデル。当時は家の周辺にプラモデルを売っている店は無かった。
富雄駅から富雄北小学校へ向かう小さな道には「まるにや」という文房具屋があり、
そこには文房具の他にプラモデルなどが売っていて私には夢のようなお店だった。

兄達はさっさと行ってしまう。
私は補助輪付きの自転車で追いかけた。
登美ヶ丘から学園前までの道はまだ未舗装で、
私は途中の穴に、何回も後輪がはまり、ぜんぜん前に進まない。

小さくなる兄達の背中を見て自転車を押す苛立ちと情けなさ、
やっとたどり着いたお店に陳列されたプラモデルの多さに驚いたこと。
そんなことだけ記憶に残っている。

そのあと独りで補助輪を外した。
兄達のいない間に大渕池横の坂道で自転車の練習をしたのだ。

登美ヶ丘は一丁目しか無い時代で大渕池から北側は広大な雑木林だった。
補助輪を外した自転車は軽快で、嬉しくて嬉しくて一日中走り回っていた。
やってることは今も大して変わらない。

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富雄川の湯屋谷橋

2019年08月07日 | 旅行や街角メモリー
バイクで近所の散策。
ちょこっとした散策が好きである。
街角で出会った「?」が放っておけない性格なのだ。



私の実家は奈良市登美ヶ丘。
(私の自宅は800メートル離れた奈良市西登美ヶ丘)

昭和35年に、父、貫次が近鉄の建売住宅を購入した。
大阪の心斎橋から奈良市登美ヶ丘に引っ越してきた昭和35年は、
まだ登美ヶ丘という地名は無く二名町(にみょうちょう)と言っていた。
今は一般道路の阪奈道路が有料道路だった時代で、上り下りの専用車線ではなく、
現在は上り専用の2車線を、上り下りで対面通行していた時代だ。

そして住宅地が広がるにつれ、二名町の一部が登美ヶ丘という地名に変わった。
1967年(昭和42年)、小学校6年生のことだったと記憶している。

-------------------

近鉄富雄駅から数キロ北上し、富雄川に架かる湯屋谷橋の、
湯屋谷橋西詰の交差点を右折し1キロほど東進すると私の自宅にたどり着く。



ある日、何気なく湯屋谷橋の欄干を見ると「ゆやんたんはし」と書いてある。
信号機の表示は「ゆやだにばし」、橋の名前は「ゆやんたんはし」。





さっそく、今昔マップで調べてみた。

今昔マップ。
http://ktgis.net/kjmapw/index.html

1892-1910年(明治25-43年)の地図を見ると「イヤンタニ」
1922-1923年(大正11-12年)だと「イヤダニ」、
1927-1935年(昭和2-10年)だと「ユヤタニ」になっていた。


(1892-1910年では「イヤンタニ」と読める)


(1922-1923年では「ユヤタニ」と読める)


(現在版は湯屋谷という地名が消えていた)

まあ考えてみれば、事務所のある加納も「カノウ」と読むが、
昔から住む人は「カンノ」と言うのだと聞いたこともある。

母親の旧姓は扇田だが「オオギタ」なのか「オギタ」なのか
「オウギタ」なのか、どれが正しいのかわからない。

はたして湯屋谷橋は「ゆやんたんはし」なのか「いやんたにはし」なのか、
または「いやだにばし」なのか「ゆやたにばし」か「ゆやだにばし」か。

いずれも間違いでは無いというのが日本語の大らかさなとこなんだろうか。
どうでも良いのに妙に気になってしまって調べてしまった次第。


(湯屋谷橋は二名町に属している)
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東大阪市、花園ラグビー場近くに「河内松原!?」

2019年08月06日 | 旅行や街角メモリー
「河内松原」と聞くと、大阪府松原市の河内松原駅がまず頭に浮かぶ。
ところが、もう一つ、大阪には「河内松原」がある。


(東大阪の河内松原)

場所は大阪府東大阪市。
府道702号を奈良方面に東進した花園ラグビー場付近。
交差点の表示に「河内松原」とあるのだ。

最初は面食らったが、ここは昔の奈良街道で、
険しい勾配で有名な暗峠(くらがりとうげ)の手前の宿場町だったのだ。

東大阪観光協会のサイト内の「街歩きMAP」には、
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松原宿の道標(道しるべ)
大坂と奈良を最短で結ぶ暗越奈良街道の道標には「右なら・いせ道、左大坂道」
と刻まれており当時の面影を伝えています。この地は江戸時代に奈良街道の中で
唯一置かれた宿場です。俳人松尾芭蕉は伊賀上野から大坂へ行く最後の旅路に
この道を通っています。
--------------------------
と書かれてある。

東大阪観光協会
http://www.higashiosaka-kanko.jp/index.html

ともかく気になったので、宿場の跡を散策してみた。
宿場跡は看板と道標だけだったが、まあ納得出来て良かった。







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奈良暗越街道と松原宿(まつばらじゅく)
奈良暗越街道は、生駒山頂の南側、暗峠(標高455m)を越え、大坂と奈良間を
最短距離の八里八町(34km)でつなぐ、古代以来つづく古道の一つです。
江戸時代にはいって、この道は脇往環として発達し、大和・伊勢をむすぶ
旅客貨物の重要な交通路となり、伊勢参りなどでにぎわいました。
幕府は、明暦年間(1655~58)以降、街道の支配のために街道間唯一の宿場として
「松原宿」を公式に設けました。松原宿は、旧大和川の分流吉田川と恩智川との間
に位置し、古くから水運でも栄えた場所にあたります。宿場には、継立業務
(人馬の乗換えを請負う仕事)を行う店のほか、寛永元年(1624)年の記録では、
河内屋・奈良屋など計16軒の旅籠(はたご)があり、大変にぎわいました。
明治維新をむかえ、宿は廃止されましたが、松原村は交通の要衝であったことから
他に先がけて郵便局、警察分署、キリスト教講義所などが設けられていました。
しかしながら、大正時代になると鉄道(大軌、現在の近鉄奈良線)の開通や
道路の整備に伴って、街道としての役割を失っていきました。
平成16年3月  東大阪市
--------------------------






(大阪-深江-松原-暗峠-小瀬-榁木峠-追分-尼ヶ辻-奈良、松原の西で東高野街道と交差する)


(英田北小学校の脇、こういう街角散策にはバイクが一番だ)

英田北小は「あかだ」と読む。
英田は平安時代、河内郡の郷名で「英多郷」(あがたごう)と言った。
あとの吉田村、松原村、水走村となって、合併して英田村(あかだむら)となる。


(「みぎ なら いせ道」と「左 大坂道」としるされた道標)


(少し北の大津神社にも寄ってみた)
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大東のダイトタクシー

2019年08月03日 | 旅行や街角メモリー
事務所のある東大阪は大東市に接している。
地域柄、たまーに乗るのが地元のダイトタクシーだ。

ダイトタクシー
http://daito-grp.com/

ずっとずっとダイトタクシーは「大東タクシー」だと思っていた。
なぜならダイトタクシーの本社は大東市野崎だからだ。
時々前を通ることもある。大東のダイトタクシー。

先日、通勤途中で、赤信号で止まった前がダイトタクシー。
よく見ると大東ではなく「大桐」と書いてあるではないか。
それでもなお、薄学な私は大桐を「おおぎり」と読んでしまった。

大桐(おおぎり)マークのダイトタクシーと思って見てたが、
ふと、桐は「きり」とも「とう」とも読めることに気がついた。


(通勤途中の阪奈道路への進入路にて)


(ダイトが「大桐」とわかった瞬間)

読み間違いはよくあるもので、
属している長正館は長生館と間違えて書かれることはよくある。
なんばの養正会を養生会と書く人も多い。
長生館も養生会も、何やら老人ホームみたいである。
特にメールでの問い合わせは誤変換のため間違う確率は異常に高いのだ。

養正会の合宿でホテルのお迎え看板に「養生会御一行様」と書かれたこともあった。
「何やら老人会の慰労旅行みたいやねえ」と皆で笑いあったものだ。

そういや再就職したばかりの頃に、
お客様の名前を間違えて書いてキツク叱られたことがあった。
秋元様を秋本様と書いてしまったのだ。

「そんなに怒らんでもええがな・・」と当時は思ったが、
平気な人ばかりではない。けっこうムッとされることもあるのだ。
名前は慎重に。まあ良い顔は絶対にされないと思ったほうが良い。

日本語は同音異語が多いので気をつけたいものだ。
ダイトタクシーで忘れていた昔の失敗など思い出してしまった。
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杭全神社(大阪平野)参拝(2019年5月6日)

2019年05月07日 | 旅行や街角メモリー
頼まれごとを片付けに松原市までひとっ走り。
頼まれごとはすぐに終わったので粕井家ゆかりの杭全(くまた)神社に寄ってみた。
毎週すぐ近くを通るくせに参拝したこともなく気にはなっていた。

先祖は平野で綿の屑を扱う「粕屋」という屋号を持つ綿問屋だったらしい。
粕井の紋は「唐花」で、これは江戸時代に杭全神社から戴いたと聞いている。
杭全神社の紋は「五瓜に唐花」だから「唐花」の部分を戴いたのだろう。

滞在したのは短い時間だったが、天気に恵まれ、ちょっとした旅気分だった。


(杭全神社の楠の大木)


(同じく)


(同じく)


(拝殿の紋入り提灯)


(杭全神社の「五瓜に唐花紋)


(むかって左側の狛犬)


(イチョウの大木)

特にお願い事はしなかったが、
戴いた「唐花」の紋を、勝手に「丸に唐花」に変えたご報告だけさせていただいた。


(私の着物の紋は「丸に唐花」である)(マッコール氏撮影)

ああ、これでスッキリした。
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れんげ草

2019年05月05日 | 旅行や街角メモリー
小学校一年生だったと思うが、大和西大寺の駅から
南へ500メートルほどの、同級生のK村君の家に友人たちと遊びに行った。
半世紀以上も前のことである。

何人で行ったのか、何をしに行ったのか忘れたが、
道すがらの畑には、れんげ草が一面に咲き誇っていて、
青空にはヒバリがさえずって飛んでいる風景を鮮明に記憶している。
当時は大和西大寺の南側は、駅前から畑や田んぼの田園風景が続いていた。

大人になって、れんげ草を見かけることが無くなったのは、
化学肥料を使う農家が増えたからだと思うのだが、
ここ最近また少しずつ、れんげ草を見かけるようになってきた。

東大阪市加納の事務所の近くには、れんげ畑と、花畑があり、
桜の季節が終わる頃から通勤の目を楽しませてくれる。

近づくと、案外まばらに咲いているのだが、
遠くから見るといっぱい咲いているように見える。
なにげない小さな花だが、心がなごやかになる花の一つである。











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京都二条城へ桜を見に行く(2019年4月9日)

2019年04月10日 | 旅行や街角メモリー
突然思い立って、京都まで桜を見に行くことにした。
いや、しだれ桜の写真を撮りたくなったのだ。
見事な写真の1枚でも撮っておきたいのは、
芸術家の端くれ(嘘です)では当たり前ではないか。

というのは言い訳で、気候も良いし、
ちょっと気分転換でも・・・といったところ。

京阪三条で降りて暗くなるまでに腹ごしらえ。
偶然に入ったホルモン焼きのお店に寄る。
これが正解でベタな焼肉が無性に旨かった。
ビール2杯とハイボールで良い気分になる。

・・・目的を忘れる前に店を出た。

二条城は大昔に剣道仲間と皆で見学した記憶がある。
桜のことは忘れたが、そのあとカラオケ屋で騒いだことは憶えている。

残念なことに、しだれ桜は五分咲きでイマイチだった。
望遠レンズ付きのカメラも調子が悪く写せなかった。
いつもの稽古撮影用のカメラで写す。
まあいいか、酒が入って良い気分だ。


(河原町通り三条の焼肉屋)


(ジンギスカン風でビールやハイボールに合う)


(地下鉄で二条城まで)


(足元を照らす案内の明かり)


(手当たり次第に取った1枚)


(遠目のほうが良い)


(目当ての、しだれ桜はイマイチ)


(ライトアップで色が変化する)


(これはピンク)


(帰りに見上げる京都タワー)
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近所でミニ花見(東大阪市加納)

2019年04月09日 | 旅行や街角メモリー
人ごみが嫌いなので花見に行くことはまず無い。
今年も事務所の近所でミニ花見とした。
加納西公園は小さな公園で、たいした桜の木では無いが、
仕事の合間、通勤の目には季節の移り変わりが嬉しいものである。







公園の近くの畑には、菜の花とチューリップが毎年、見事な色彩を見せてくれる。

春に生まれたせいかどうかわからないが、
何もかも活動を始める4月5月が一年で一番好きな季節だ。
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道頓堀極楽商店街

2019年02月12日 | 旅行や街角メモリー

(ウィキペディア「サミー戎プラザ」より拝借)

古い写真を整理していたら「道頓堀極楽商店街」の写真が出てきた。
13年前の粕井のイトコ会のあとで連れ立って行った時のものだと思う。
懐かしいので紹介しておく。

道頓堀極楽商店街は、道頓堀の娯楽複合ビル「サミー戎プラザ」の5~7階に入居。
大正末から昭和初期の大阪の街並みを忠実に再現し、地元の有名お好み焼き店やくしカツ店、
立ち飲み屋など約40店舗が軒を連ねる「食」のテーマパークである。

個人的には面白いところだったが、急激に客足が減っていたという。
平成16年(2004年)7月にオープンし平成21年(2009年)3月に閉鎖された。






(平成18年-2006年7月17日、道頓堀極楽商店街の写真屋さんにて)

自分の生まれた頃の「三丁目の夕日」的な雰囲気も好きだが、
「道頓堀極楽商店街」はそれよりずっと前の親の青春時代の風景である。
昭和初期の大阪の街を少しデフォルトに再現し立体感もあって懐かしい。

でもまあ、一度行けばいいかな・・という感じであったのは否めない。
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