稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

豪傑について(昭和62年11月30日)

2017年12月23日 | 長井長正範士の遺文
昔、東(あずま)の国に
我こそは日本一の豪傑であると自認していた侍がおりまして、
文字通り天下に有名を轟かしておりましたが、
いよいよ死ぬ間際になって、辞世の歌を残して逝った。

その歌が奮っている。
「今ゆくぞ 鬼も閻魔も油断すな 隙があったら極楽へ飛ぶ」と。

これを要約いたしますと、
俺は今まで随分無茶なことをやってきた。
また、さんざん悪いことをして来たから、死んだらきっと地獄へ行くだろう。
しかし地獄で、鬼も閻魔も油断するなよ。
隙があったら極楽へ飛んでいってやるぞ。

と、死の直前まで強気の歌を詠んで逝ったので、
このウワサがパッと広がって世間の人々は口を揃えて
「なるほど、豪傑とはああいうのを言うのだ」と賞賛いたしました。

しかし豪傑にもライバルがあるもので、
このウワサを聞いた九州一の豪傑が

「あやつが日本一と?チャンチャラおかしい、
俺こそは日本一にふさわしい豪傑だ、
俺はあのように、そんなにまでして極楽へ行きたくないわい、
あやつは何とかうまいことを言うちょるが、本当は極楽に執着心があるから
うまく誤魔化して詠んどるが、まだまだ豪傑には程遠い、
俺は死ぬ時はそんなにまでして極楽へはゆきとうはないわい、俺ならこう詠む」

と辞世の歌として詠んだのがまた面白い。
「極楽へ さほどゆきたくなかれども 弥陀を助けにゆかにゃなるまい」と。

「俺も地獄へ落ちてゆくだろうが、
あやつみたいに極楽へさほどゆきたくはないが、
あの世で極楽往生した沢山の佛達の世話で、
阿弥陀さんが人手足りなく大変いそがしく困っていらっしゃるだろうから、
こりゃ一つ手助けにゆかにゃならん責任があるから行かんわけにはいかんのだ」と。

詠んで、「どうだ俺のほうが遙かに上だ」と威張っているという話ですが、
ちょっと待って下さい。結局、二人とも極楽へゆきたいという執着心には変わりなく、
真の豪傑と言われそうにない。真の豪傑は酒色に溺れず、嗜(たしな)んでその域を超えず、
日夜精進し、如何なる事態が起きても動じない。
心構えを養い得たすべてに並はずれたすぐれた人物を言うのであります。

それでは今度は名人とは如何に。
次に述べましょう。


(無法に襲いかかる者は 自ら突き貫かれる 一刀流の迎突の尊いところ也)
コメント
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