淤能碁呂島<オノコロジマ>におり立ち、八尋殿の柱を廻り、久美度邇興而<クミドニオコシテ>、お生まれになった子は水蛭子<ヒルコ>でした。この子は、手足がなく、水蛭<ヒル>に似ていたことから付いた名前でした。なお、この子について、日本書紀には
“雖已三歳脚猶不立(みとせなりぬれど、あしたたざりき)載之於天磐櫲樟船而順風放棄(あめのいわくすぶねにのせて、かぜのまにまに、はなちすつ)”
と出ております。それが、古事記では、
“生子水蛭子。此子者入葦船而流去<ミコヒルコヲウミタマイキ コノコハ アシブネニイレテ ナガシステツ”
と書かれております。
この二つの書き方の違いを眺めておりますと、書紀には、此の船の名前までをはっきりと書いておりますが、古事記には、ただ「入葦船」と簡単に書いております。さらに、その船の流す方法もについても「放棄」と「流去」と。この二つの書き表し方についてどう思われますか。書紀の記述の方が何か荒々しく本当に憎みが激しいように思われるます。流した者(かた)が、さも、イザナギの男神であるかのように思わせているのではないでしょうか。それが、イザナミの言葉が事の初めに発せられた事に対するイザナギの不服の表れではないかと思うのですが????
さて、そんなことはどうでもいいのですが、その後、この海に流した子はどうなったでしょうか?、記紀には、それについて何も書いておりません。どうなったのだと思いす??????
その疑問の答えのひとつに、「えびす神」になったというのがあります。
水蛭子は、葦船に乗せられ、おのころ島から流れ流れて、摂津国(現在の神戸市付近)に流れつき、そこに祀られて「えびす神」になったとされる説です。
国生みの為の行為が国ではなく、どんでもないものが生まれてきます、宣長は、古事記伝で、「ただ水蛭子なるゆゑに悪<ニク>まして棄たまへるなり」と書いておられます。
“雖已三歳脚猶不立(みとせなりぬれど、あしたたざりき)載之於天磐櫲樟船而順風放棄(あめのいわくすぶねにのせて、かぜのまにまに、はなちすつ)”
と出ております。それが、古事記では、
“生子水蛭子。此子者入葦船而流去<ミコヒルコヲウミタマイキ コノコハ アシブネニイレテ ナガシステツ”
と書かれております。
この二つの書き方の違いを眺めておりますと、書紀には、此の船の名前までをはっきりと書いておりますが、古事記には、ただ「入葦船」と簡単に書いております。さらに、その船の流す方法もについても「放棄」と「流去」と。この二つの書き表し方についてどう思われますか。書紀の記述の方が何か荒々しく本当に憎みが激しいように思われるます。流した者(かた)が、さも、イザナギの男神であるかのように思わせているのではないでしょうか。それが、イザナミの言葉が事の初めに発せられた事に対するイザナギの不服の表れではないかと思うのですが????
さて、そんなことはどうでもいいのですが、その後、この海に流した子はどうなったでしょうか?、記紀には、それについて何も書いておりません。どうなったのだと思いす??????
その疑問の答えのひとつに、「えびす神」になったというのがあります。
水蛭子は、葦船に乗せられ、おのころ島から流れ流れて、摂津国(現在の神戸市付近)に流れつき、そこに祀られて「えびす神」になったとされる説です。
国生みの為の行為が国ではなく、どんでもないものが生まれてきます、宣長は、古事記伝で、「ただ水蛭子なるゆゑに悪<ニク>まして棄たまへるなり」と書いておられます。