「触れたくなる円柱―唐招提寺ー」こんな見出しの記事が今朝の新聞に出ておりました。
その中で、かって、亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」に
“わが古寺の円柱はいうまでもなく木造であるから、光を反射することは少ないない。むしろ光を吸収して柔らかくその木目のあいだに湛えるといったほうがいいようだ。・・・元来、柱というものは人がもたれかかるものである”
と書かれてあることも知らせてくれました。
柱には、本来、このような柔らかな、人をしてもたれかからしめるよう、何か不思議な力があるのです。古事記の作者も、このような柱の特性を十二分に知り尽くしてロマン満載の物語を作り上げたのではないでしょうか。
イザナミイザナギの廻った柱は、勿論、ギリシャ・ローマ時代ののような大理石で作った円柱ではありません。桧か杉で作られた大きな円柱でなくてはなりません。
そのような意味で、この八尋殿の柱には、宣長の云うような意味だけでなく、亀井勝一郎がいうように、イザナギ・イザナミの二人を柱に触れたくなるように、お互いを寄り添わすような想いを起こさせる働きがこの柱にあったということを示唆しているのかもしれませんね。
今朝の新聞を読んで、こんな思いがしました。どうでしょうね??
その唐招提寺の柱を見てください。
その中で、かって、亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」に
“わが古寺の円柱はいうまでもなく木造であるから、光を反射することは少ないない。むしろ光を吸収して柔らかくその木目のあいだに湛えるといったほうがいいようだ。・・・元来、柱というものは人がもたれかかるものである”
と書かれてあることも知らせてくれました。
柱には、本来、このような柔らかな、人をしてもたれかからしめるよう、何か不思議な力があるのです。古事記の作者も、このような柱の特性を十二分に知り尽くしてロマン満載の物語を作り上げたのではないでしょうか。
イザナミイザナギの廻った柱は、勿論、ギリシャ・ローマ時代ののような大理石で作った円柱ではありません。桧か杉で作られた大きな円柱でなくてはなりません。
そのような意味で、この八尋殿の柱には、宣長の云うような意味だけでなく、亀井勝一郎がいうように、イザナギ・イザナミの二人を柱に触れたくなるように、お互いを寄り添わすような想いを起こさせる働きがこの柱にあったということを示唆しているのかもしれませんね。
今朝の新聞を読んで、こんな思いがしました。どうでしょうね??
その唐招提寺の柱を見てください。