兄「手研耳命<タギシミミノミコト>の策謀を知った二人「神八井耳命・神渟川耳命」は父「神武」の喪(“山陵<ミササギ>”)が空けるのを待って、その対策を練ります。まず
“弓部稚彦<ユゲノ ワカヒコ>”
に「弓」を造らせ、
“倭鍜部天津真浦<ヤマトノカヂ アマツマウラ>”
に「真麛鏃<マカゴノヤジリ>」を造らせ、
“矢部<ヤハギ>”
に「箭<ヤ>を作らせます。
ここで又脱線です。
まず初めに、「作」と「造」という字をここではわざわざに使い分けしていると云う点に付いてです。
辞書によると、『「造」には、ものがある目的点にまで形をとるにいたる意味もある』とあります。「弓」や「鏃」は、元の材料が変化して全く別の目的物に形を変えて出来あがるものですから「造」を、「箭」、「矢」ですが、あまり切ったり曲げたりはしないで、元のまま形で使われますので「作」という字を使ったのです。
なお、これも蛇足ですが、我故郷「吉備」には「造山古墳」「作山古墳」の大古墳がありますが、この「造」と「作」は、今見て来たような漢字の意味からではなく、「造山」は大きさでは日本第4位の古墳で、「作山」は第10位ですが、その命名については何時頃だれによってなされたのかは知りませんが、漢字そのものの意味からではなく、その大小からこの二つを使い分けしたと云う事を見ると、多分相当な学識を持つ吉備人が考えだして命名したものだと何時も感心しておりますが、古川古松軒ぐらいでは?????
この書紀が出来た時は、漢字が日本に入ってまだ200年も立ってない時です。その時代に、もう、このような細かい使い分けを日本人はしていたのです。
また、その「真麛鏃<マカゴノヤジリ>」ですが、「麛<カノコ>」「子供の鹿」です。鹿などの動物を取るための鏃を造らせたのです。
ここで又もや!!!私の自慢の一品をお見せします。この時、「神渟川命」が使ったのではないのですが、五世紀の古墳の石室からの「鉄の鏃」です。
なお、この倭鍜部天津真浦に造らせて「真麛鏃」ですが、時代からですとBC六世紀ごろです。当時の社会には鉄などは、現在の研究からすると、日本には、まだ、なかった時ですが、物語としては、成立しておるのです???これも蛇足ですが・・・
“弓部稚彦<ユゲノ ワカヒコ>”
に「弓」を造らせ、
“倭鍜部天津真浦<ヤマトノカヂ アマツマウラ>”
に「真麛鏃<マカゴノヤジリ>」を造らせ、
“矢部<ヤハギ>”
に「箭<ヤ>を作らせます。
ここで又脱線です。
まず初めに、「作」と「造」という字をここではわざわざに使い分けしていると云う点に付いてです。
辞書によると、『「造」には、ものがある目的点にまで形をとるにいたる意味もある』とあります。「弓」や「鏃」は、元の材料が変化して全く別の目的物に形を変えて出来あがるものですから「造」を、「箭」、「矢」ですが、あまり切ったり曲げたりはしないで、元のまま形で使われますので「作」という字を使ったのです。
なお、これも蛇足ですが、我故郷「吉備」には「造山古墳」「作山古墳」の大古墳がありますが、この「造」と「作」は、今見て来たような漢字の意味からではなく、「造山」は大きさでは日本第4位の古墳で、「作山」は第10位ですが、その命名については何時頃だれによってなされたのかは知りませんが、漢字そのものの意味からではなく、その大小からこの二つを使い分けしたと云う事を見ると、多分相当な学識を持つ吉備人が考えだして命名したものだと何時も感心しておりますが、古川古松軒ぐらいでは?????
この書紀が出来た時は、漢字が日本に入ってまだ200年も立ってない時です。その時代に、もう、このような細かい使い分けを日本人はしていたのです。
また、その「真麛鏃<マカゴノヤジリ>」ですが、「麛<カノコ>」「子供の鹿」です。鹿などの動物を取るための鏃を造らせたのです。
ここで又もや!!!私の自慢の一品をお見せします。この時、「神渟川命」が使ったのではないのですが、五世紀の古墳の石室からの「鉄の鏃」です。
なお、この倭鍜部天津真浦に造らせて「真麛鏃」ですが、時代からですとBC六世紀ごろです。当時の社会には鉄などは、現在の研究からすると、日本には、まだ、なかった時ですが、物語としては、成立しておるのです???これも蛇足ですが・・・
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