私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

また、元へ

2018-08-17 08:25:25 | 日記
 暫らくオホクニから離れていたのですが、再び続きのお話を書いてみます。

 建御名方神の手を建御雷神が掴んで

              “投離者<ナゲハナチタマヘバ>”

 です、そうすると、あの千引石を軽々と持ち上げた力持ちの建御名方神を軽々と投げ飛ばしたのです。何処まで投げ飛ばされたのかはわかりませんが、きっと砲丸投げの選手のように高く東の空の方に投げ飛ばされたのです。飛ばされて空い浮かんだ建御名方神は考えます。このままここにいたら雷神に殺されかねません、だったらいっそのこと「三十六計逃げるに如かず」とばかりそのまま出雲の国から逃げてしまいます。空の上から何処ぞ隠れる良い所はないだろうかと捜しながらです。

またまた安倍さんへの批判です。

2018-08-16 12:13:13 | 日記
 安倍さんのことをあれこれと批判ばかりしているようですが、近頃、特に、「どうして、こんななことが普通に言えないのだろうか」と、思うようなことばが、彼の口から聞こえて来ません。だから、つい書かずにはいられない気分にさせられてしまうのです。
 というのは、昨日の終戦記念日の彼の演説を聞いておりますと、その中には不戦の誓いは確かにありましたが、近隣諸国民に対して先の戦争で掛けた甚だ大きな迷惑について謝罪の言葉を一言も聞くことはありませんでした。口では言い表せないような苦悩を掛けたのは確かなことです。それも誰がどう言おうと日本国の侵略戦争の為にです。彼らが如何に侵略戦争でないと叫ぼうと、歴史を読むと「侵略」という字を消しさることはできません。たった

            「ごめんなさい」

 と一言言えばと思うのですが。何故それが言えないのでしょうか。彼らには先の戦争は侵略ではなかったと心底から思っているのでしょうか。まさか、そんな無知ではないとは思っているのですが、分かりませんかね。もし、そんな歴史が読めない人であったなら、一国の総理をしてほしくありませんが???
                  どうでしょうか??????

 

73年前の今日、私の遭遇した出来事です

2018-08-15 13:10:01 | 日記
 「かけがえのない命を失った人々へ・・・」と、天皇は戦争の惨禍を強く訴えていました、今日は終戦記念日です。この日がどうして国民の祝日にならないのかは分かりませんが、太平洋戦争が終わった時から73年が経ちました。其の当時、私は小学校3年生です。当時の記憶は余りありませんが、その中で、特にはっきりと覚えているのが、岡山空襲の時の夜空にB29が何機も西の空を向けて青や赤の光を付けて飛んで行っていました。其の飛行機が西に飛び去った後の東の空が真っ赤な夕焼けの様に照り輝いたのも覚えております。だれかが
 「岡山が空襲にあったんなじ。どうなるんじゃろうかな」
 と叫んでいたのをうすぼんやりとですが覚えております。
 このような小学校3年の私が覚えている戦争の影です。そのような戦争の話が何やかやと私の耳に沢山はいるようになったある日ですが、これも、どうして私の家にか分からないのですが、近所の人達が大人も子供も集まって4球ラジヲを前にして、何か知りませんが聞いていたのを覚えております。その放送を聞いた5つ年上の隣の「つよっさん」が言ったことを
 「わあ!!!やったあ。これからはなにゅうしても、ええんじゃ。自由んなじゃ」
と。彼は青年学校へ行っていたのですから、戦争の終了の場合は、世の中がどのように変わるか教えてもらって知っていたのでしょうから、それくらいのことは知っていたのでしょう。しかし、彼の言った「自由」とは
 「土手の外に植えてあるスイカをみんなしてとりにいこうや―。なにゅうしてもええんじゃから、自由なんじゃから。」
 という自由でした。そんなことが73年前の今日私が思ったことです。また、この放送を聞いていたおばさんたちからは、
 「これから、アメリカ人が来て、おめえらの鼻や耳をひっちぎってむしりとらへるんじゃ。ええつらはなにゅうするかわからん鬼みてえなきょうてえ人間じゃ。どうなるんじゃろうかなあ」
 と、ささやきが聞こえてきます。空恐ろしい世の中になるかもしれないという不安な気持ちにもなったのを覚えています。

 まあ、それから、そこにいた子供たちはわいわいがやがやと土手の外に植えてあったすいか畑をめがけて飛んで行った事を覚えております。その後の結末までは、私の記憶には残っておりませんが。

 これが73年前の私の記憶です。
 

水棚様も御先祖様と一緒に・・・

2018-08-13 09:24:57 | 日記
 岡山県だけにある風習かもしれませんが、盆になると(8月13日に)、「水棚様」を庭に特別に設えへて、自分のご先祖様ではない、誰にも供養してもらえないような霊も、御先祖様と一緒に供養してあげると言う風習なのです。庭の隅っこに木で作った簡単な棚を用意して線香や洗い米等を一緒にお供えして、その霊を弔うのです。おそらく縄文時代からの続けられてきた万物の霊に対する敬虔な祈り、あの土偶信仰のようなものが、このような形に、いつの間にか変化して、縄文の昔から現在まで継続されて来たのではないかと思われます。
 今では、ほとんど、そんな風習は、この世の中から消え去っておりますが、私はいつも「化石」と呼ばれているのですが、その化石の名にふさわしく、この習慣を、今でも、守っております。
 
 この「水棚」という名前の由来について「水」が付いているから「水子」をお祭しているのではという人もいるようですが、それは私は違うのではないかと思います。誰からも供養されない餓鬼のための供養だと小さい時分からよく祖母に聞かされていましたがそれが正しいのではと。差別のないすべての死者に対する限りない愛情を感じていた縄文の人々の思いが、現代までに、このような形として脈々と続いているのだと考えております。
 其の供養といかなる関係にあるのかは知らないのですが、この水棚様にお供えするものとして柿や栗や柚子の青々し実を捥ぎ取ってそこにお供えしたことを覚えています。
  
   「桃栗3年柿8年。柚は生涯顔みせん」

 と歌われたこととなにか関係があるのかもしれませんが、どうしてそこにこの3っつが並べられるのかはわかりません。きっと、これも山物<ヤマノモン>(柿やクリなど)への豊作祈願が形を変えて、現在にまで、続けられて来たのではないかと思っております。
    
               

                                   

暑い暑いお盆です

2018-08-12 10:36:37 | 日記
特別に暑い今年の夏です。書中お見舞いを申し上げます。

 さて、本を開くのも汗がにじみ出しそうな暑さです。そこで私はこの暑さを少しでも忘れることができるようにと、毎朝、庭に咲いている朝顔を摘んできては、玄関に生けております。それを見てください。
 「そなんものを見たといって暑さ対策には、少しも、ならんぞ」
 とお叱りを被ること間違いありませんが、見てください。