私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

水戸神とは

2018-09-23 11:53:14 | 日記
 古事記を、又、元から読み直してみますと、どのくらいの昔にか、正確な時間的な事は分かりませんが。当然、その時は時空など何も存在しない渾沌の時代、

         “天地初発之時<アメ ツテノ ハジメノトキ”

です。これでは、当時の高天原のはっきりとした状態は分かりません、そこで、それを「日本書紀」ではと捜してみました。そこには

        “古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙”

 と書き表してあります。
 「昔、天と地は、未だ、分かれてなく、陰陽の差別もなく、卵の中身のようにどろどろで、周りは「溟<メイ>うす暗く、そして「涬<サイ>」おりのようなドロドロな沈殿物が漂って、その中から何か事象が生まれそうな様子をしていた。」
 と、解釈すればいいでしょうか、古事記よりその時の状態をくわしく書いております。

 当然、まだ、日本等あろうはずがありません。日本書紀に記してあるような「高天原」があっただけです。そこに、先ず、生まれたのが「天之御中主神」や「イザナギ・イザナミの神」等の名前が、未だにはっきりとして覚えられないのですが、要するに、十七柱の神がそのような混沌の所に生まれたのです。誰から、どのようにして生まれたかは分かりませんが、兎に角、生まれ出ます。因果関係などややこしいことは何もなかった時代です。兎に角、突然変異的に神様が生まれるのではなく、現れたのです。 

 でも、まだ、そこには「水戸神」の名は有りません。

 これが古事記の云う「天地初発之時」の高天原の様子です。どうですか、これを科学的に論理的にいえばどうなるでしょうかね???
 まあそんなことを考えていたら、あの三球さんのように「夜も眠れなくなるもの。・・・・そう言う物です」と、簡単に理屈ではなく、そこに「あるがままですよ」と、軽く受け止めればいいのだろうかと思っています。
 
 どうでしょうかね???どう思われますか????

“水戸神”

2018-09-22 20:03:04 | 日記
 “水戸神”って、誰だか知っている人おられますか????
 このへんてこりんな神様がオホクニの為に立てた神殿に奉仕しております。
 ここまで読んでくると、
 「どうして??? 水戸神??そんな神様いたかなあ」
 と思わざるを得ないような神様ですが、突如として姿を表します。普通なら誰にも、その記憶にも残ってはいないような、ポピューラーではない神様が、姿を表します。すると、そこで又古事記のページ初めからめくってみなくてはなりません。なかなか先には進めそうにもありません
 
             皆さまはご存知ですか?????>

出雲は高天原に征服されます。

2018-09-21 12:36:46 | 日記
 オホクニが建御雷神に水穂中国を天忍穂耳命<アメノオシホミミノミコト>に譲る約束をして、八十坰手<ヤソクマデ>に隠れます。これで総てが終わったのかと思いきや、さに非ずで、今しばらく、この話が続いておるのです。それも、ついでに、お読みいただけたらと重い書いてみます。

 まず、建御雷神はオホクニに約束した「宮柱布斗斯理、冰木多迦斯理」の荘厳な神殿を作ります。そこが

              “出雲国之多芸史之小浜<イヅモノクニノ タギシノオバマ>”

 です。此の場所が何処か分からないのですが、今、出雲大社のある場所が、太古くはこのように呼ばれていたのではない化と、宣長も考えております。もう一度その荘厳な建物を見てください(想像上のものですが)

                 

「美保神社」にお尋ねしてみたいのですが・・「美保」はどこから

2018-09-19 09:25:35 | 日記
 こんな馬鹿らしい重箱の隅をつつくようなことばかり書いております。
 これから私が書きます事は、勿論、宣長さへも言ってはいないのですが、私の頭をふと衝いて出てきたものです。「古事記伝」を読み過ぎて陥った私の「あほな美保論」だとは思いますが、お笑いながら御読みいただけたら幸いです。
 と云うのはです、昨日書いた「美保神社」の「みほ」と云う名の由来についてです。

 オホクニが建御雷神に言った
             
          “八重事代主神為神之御尾前而仕奉者”
        <ヤヘコトシロヌシノカミ カミノ ミオ サキ トナリテ ツカヘマツラバ>
 
です。この「神之御尾前」ですが、この神はアマテラスの御子「天忍穂耳命」です。この神のその「尾」、即ち、「後}となり、「前(さき)」となってお守りすると言います。その「前」でお守りするのは、勿論、「オホクニ」自身です。そして、その「後方」でお守りするのが、「八重事代主神」です。だから「御尾」です。この<ミオ>がいつしか<ミホ>に変化して、713年の「好字二字令」によってい「美保」と書かれたのではないでしょうか・・・

 誰もが言ってはいない、勿論、「美保神社」にも伝わってはいない、「美保」と云う名の付いた私的な「あほな}由来論ではないのでしょうか???。

実保神社????おかしいよ・・・

2018-09-18 18:01:40 | 日記
 これは
               “美保神社”
 の誤りでした、お詫び申し上げます。
 
 建御雷神がオホクニに
 「あなたの御子で、この出雲の国をアマテラスの御子が統治するのに賛同を得る子はいないのですか」
 と尋ねますが、その時、オホクニがあげたのが「八重事代主神」です。丁度、彼は狩猟に出向いて居りました、そこが

               “御大之前”

 です。<ミホノサキ>です。この「御大<ミホ>」がどうしてかは分からないのですが、「美保」と云う漢字に変化したのです。多分、「好字二字令」の影響を受けたのだろうと思いますが、此の字に代わっております。この土地を「事代主神」が、その時、支配していた土地ではなかったかと考えられます。その場で殺害されたのでしょうが、後の世になって、その地にその霊をお祭した社を作ったのではないでしょうか??それが現在の「美保神社」だろうと思われます。

 なお、これも余残事ですが、この神社の拝殿の作りは我が吉備津神社の拝殿の造りと同じで。天井のない、所謂、 「東大寺様式」で、重源が伝えたと言われる宋の建築様式を取り入れられたものです。あの南大門と同じ形式の建造物です。