テレビ版の、最終回からです。シンジの回想(夢想)シーンですが、私が世界の中心であったら、なんと幸せだろうということでしょうか。彼の気持ちはよくわかります。
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新世紀エヴァンゲリオンの完結編が完成し、封切られると聞いたのはずいぶん以前のことのように思います。
その後のコロナパニックで、それこそ、オタク、中二病文化の担い手たちが、社会的活動を制約された中(国民皆制約されたというかもしれないが)で、封切られるのは、興行的には、大変お気の毒な話である。
しかしながら、コアなファンはありがたいもので、「この時期に」と危ぶまれたにもかかわらず、映画館は盛況だった(4月11日までで、74億以上売り上げ、観客484万以上、シリーズ新記録)(5月6日で、82.8億以上売り上げ、観客542万以上)、と、年若い友人は言っていた。
したがって、コロナ性うつ病により、現実的に「社会的」参加を怠っているわが身とすれば、是非に行ってみたいと思ったわけである。
私が行ったのは、4月6日(水曜日)であり、私が見たのは12時5分の二回目の上映であったが、入場者の数は、一時の狂騒状態は終わったのか、20,30人くらいの観客だった。
私のそばに、30代くらいのカップルがおり、二人とも、「エヴァ」(以下こう称する。)の上映に入るのかと思うと、短髪の男のみ、エヴァの方に入り、シネマコンプレックスというやつで、女の方は別のところへ行ってしまった。
どうも、男の方は、まなじりを決して、妻の意に反し、完結編といわれるエヴァを見て、少年時代から続く、エヴァ幻想にけじめをつけるのだろうか、あっぱれなものである。
彼らの間で「なんで私のいうことを聞かないの」、「あんな暗いアニメはいやよ」というやり取りはあったかもしれない、そして、今回だけは、男は折れなかったのかもしれない。
ま、皆、私の想像であるが。
映画館での観客は、中段から、上部の2、3列に集中して並ぶ。
私は、中段から上に三列目の左端の席である。
平日であるからなのか、一人の客が多い。2、3列空けて、私の左隣にお姉さんが座る。一人だけである。私の上段の中央に例の短髪のお兄ちゃんが座っている。
少しして、下の女二人カップルがペチャクチャやりだした。
幕間なのでやむを得ない、とめどなく続く会話に我慢していた。
そのうち、予告上映が始まった。
シン・仮面ライダーとか、シン・ウルトラマンなどの予告もある(興味があるのは私だけかもしれないが。)。
瞬間的に、シン・ウルトラマンのカットにひやりとした。
ぞくぞくという感覚である。
これは、見に行かずにはおれまい。
その間も、女二人のカップルは止まらない、年おいて短気な私は、「うるさい、静かにしろ」と一喝した。
それで静かになったのは、重畳である。
あれらは、それぞれの家庭で、オヤジに注意されたこともないに違いない。
不幸な生い立ちである。
それから、後は快適に映画を見ることができた。
友人が言うには、ほぼ三時間あるので、中途でトイレに行かなくてはもたない。
「一病息災」の私とすれば、その言葉を実証した。なんせ、ほぼ三時間である。
しかし、皆、席を立たない。集中して、まるで修行の場にいるようだ。
エンドロールを見ながら、確かにこれは完結編だ、と思った。
どうもこの映画は、「謎」の完結というより、錯そうした「人間関係」の完結なのだ。
誰もが、自己の人性を、社会的存在としての自己、につなげられるのは幸せであると、思う。
この映画の主調音は、まさしく、そこを目指していた。
それは、厨二病の終焉と、その帰結か、といわれれば身もふたもないかもしれない。
しかし、それは、試みとして、決して悪い出来ではないと思う。それこそこのドラマは、最初のテレビ放映から起算すると、ほぼ四半世紀が経過している。
思い起こせば、東京テレビの深夜アニメ(1995年)で始まったこのアニメも、うちのこどもたちが、小学生のころ(現在30代後半)であり、ある意味、国民的アニメであろうと思う。
今でも、NHK、BSの深夜アニメで、当初の作品が放映されている。何度も、繰り返し、繰り返しである。
ほぼ、主調音(?) は、テレビシリーズで出尽くしていると思われるので、世代を超えた、新しい世代のファンも出てきたのかもしれない。
その後、作られた、序・破・急の劇場版シリーズにおいては、際立った印象は、私には少ない。
それを抜きにして、テレビシリーズから、この、完結編につながったとしても、特に違和はない。
エヴァというドラマは、大河小説というべきもののような、長い長い長編であるが長編であるが、この映画では、最初からの、ドラマの流れをなぞってくれる。
わかる奴は解れ、と、難解で、突き放したように、なぞはなぞとして、ガイドブックも幾通りも出た、従前までのつくりに比べ、親切なつくりである。
今、テレビシリーズのエヴァを何度も再放送している、NHKのスタッフにもアニメオタクは多いらしく、特番などもつくられ、結構なことであると私は思う。
今見ても、これはとてもよくできたアニメである。
それこそ、神話・オカルト、ドイツ語の使用、政治状況、家族の問題、戦争・軍事、ロボット、アドレッセンス(発情期)の男の子の問題、思春期のあらゆる過剰が一堂に会している。
私たち中二病患者としては、なんと豊かな題材だろうか。
私の居所は、なにぶんいなかなので、直営放送局がなく、九州キーの深夜アニメで、発見して以来、はまってしまい、よく映らないテレビはあきらめて、ビデオ化されたあと、レンタルビデオ屋に日参した。
製作者(庵野氏など)のオカルト趣味なども十分に発揮され、それこそ厨二シンドロームの大合作であった。したがって、演出、キャラ、アニメ画、あらゆる部分がとがっていた。
エンド部分の裏の主題歌、「FLY ME TO THE MOON」も、私の頭の中に深く刻まれてしまい、シナトラヴァージョン、女性歌手バージョン、様々なものを、猟集した。
私のカラオケナンバーになったのも、果せるかな、ということである。
男女の性愛を巧妙に描いたようなこの曲を、若き中二病患者たちはどのようにとらえたか。
このシリーズは、テレビアニメ、劇場版アニメ、漫画とみな違った展開をする。
私には、「みんな違ってみんないい」としか言いようがない。
金子みすずと同様に、多少無責任にではあるが。
テレビシリーズは当初に、物語性が単独で完結していた。
最後は物語性すら解体し、アニメのセルまでに、戻してしまい、これでもアニメ表現なのかと、野心的な作風をこれでもかと、展開して見せた。
物語は、なぞを含んだ有機的ロボット(実は有機的な新人類ということなのだろう)アニメで、操縦する、思春期(発情期)の、少年、少女の葛藤と、それを取り囲む、開発者との軋轢、さらに彼らを指嗾する社会の支配層との闘争など、盛りだくさんの内容だった。
しかしながら、登場人物のすべてが、家族や親子、男女間に欠損や、きずを抱え、愛する者への執着と憎しみの間で葛藤しているという、実に暗いアニメであった。
このくらさは、私のような中年男(当時)にも、ちゃんと、届いたのだ。
これが、よくぞ、学童にまで支持されたものだと思う。
解けない謎や、解釈が様々に生じ、今作まで引っ張ったということなのだろうか。
子を愛せない大人と、したがって、親を愛せないこども、生まれながらの資質だけで、社会の安寧と存続のために、戦士になる、戦士にならなければならないこどもたち、また、親とすれば、こどもよりは、男・女の葛藤が大事、なかなか、厳しい主題である。
今回の展開も、基本的に、男どもは、みなマザコンである、というところにある。
主人公の、碇(いかり)親子は、お互いに、妻と母親という対立軸をめぐり、対立し、葛藤する。
「妻がすべて」という碇ゲンドウ指令のなんとみっともないことか。やだねえ、男は、と私も思う。
綾波レイという、母親の遺伝子から作られたクローン(人工的に誕生させられた)少女に、一歩的に愛され、骨抜きにされ、甘えるしかない、碇シンジ、これもみっともない、こと、この上ない。
母親に愛されず、目の前で自殺された、惣流・アスカ・ラングレー(以下「アスカ」という。)、母との葛藤を克服し、自己への自負心をばねに、孤独な戦士の道を歩む姿、こちらの方が、社会人(大人)としてはるかにましに描かれている。
裏話をひとつ、彼女は、劇場版アニメシリーズから、常時、左目にアイパッチをしており、あれは何だろうと、皆、疑問に思っていた。
このたび、最終決戦で、アイパッチを開放し、邪気眼のエネルギーを開放し、彼女の攻撃を不退転のものにすることと、なった。まさしく、彼女も、中二病であった。
今作では、皆、高校生だった登場人物が、それぞれ、大人になり、結婚して、劣等生だった彼らが、医師になり、あるいはエンジニアになり、ぼろぼろになった、生き残った地域社会で懸命に戦っている設定である。
一人、碇シンジ君だけが、自分が、かつて、引き起こした、サードインパクト(市民が数多く死んだ大災害)にこだわり、めそめそ、落ち込んでいる。
一人、綾波レイだけが、いまだに、シンジを見捨てず、シンジに付きまとい、かまう。
彼女は、クローンなので、幼児体験も、生活体験もなく、社会的な生活もへていない。
「私には何もないもの」ということである。
今回、生き残った社会で、無理やり、農作業や、親子や、同胞たちの共同生活を経験し、社会的存在としての、人の生き方を学び、なにがしか充足し、そして消滅する。
これが、綾波レイの、社会的な「人間として」の救済の物語である。
そして、かつては頼りのなかった、シンジの友人たちは、災害後の欠損と不自由の中で、大人としての社会的な役割をきちんとこなしながら、「仕方がないよ」、「待ってやろうよ」、と、最初から最後まで、シンジを徹頭徹尾、かばうのである。
映画のイメージでは、エヴァンゲリオンたちが戦っている世界は、生き残った人たちが生きている社会と、アクリルボードのような境界で隔てられている。
したがって、彼らは、少々の戦闘による影響くらいでは、日常に影響は受けない。
なるほど、究極には、大規模戦闘の影響を受けるかもしれないが、アスカやシンジが属する、戦闘世界は、いうなれば、中二病患者の夢の中のようなものか。
戦闘シーンの、見事な映像と描写は相変わらず際立っているが、戦闘の意味が少し変わってきた。
戦闘者として生きるのと、無力ながら生活者として精一杯生きるのと、どちらが大切なことのかという、庵野秀明監督の問いかけである。
若者たちは、時間の経過(うまくいけば成熟)とともに、青春のそのつまらない思惟や失敗さえ、ずるいけれどそれは後知恵になるが、時間と距離をとってみれば、たとえそれが貧しく、恥ずかしい取り組みであったとしても、それなりに評価することができるのではないか、という、現在の庵野氏の認識が、かいま見えるような気がした(外したかもしれないが)。
私たち個々の思考は究極、個の思考でしかなく、いずれ現実に打ち砕かれる。
これは不可避の道行きであり、個々の思惑や思考とは別に、たとえそれがすぐれた思考だとしても、それをも飲み込み、総体関係存在としての、人間の思惟や社会、歴史は継続、進展していく。
私たちの、挫折体験など、たかだか、その程度のものなのかもしれない。
君たちはよく戦った、と。
やっぱり、本作は、救済の物語なのだろう。
シンジは、綾波レイの消滅を契機に、戦士としての、自らの社会的役割を果たそうとする。
それは、彼にとって都合のよかった「母親的なもの」への感謝と、併せて温和な決別、父親との、本来的な対決である。
先に息子の方が、マザコンから立ち直り、父母を相対化する視点を持ったわけである。
そして、いまだにマザコンや、男親としての自らの立場を意識下できず、行動できない、碇ゲンドウ指令と戦うことになる。
母親や、父親を、距離を置いて見れるようになった、シンジは、強い。
自らの傾向性(思想性)と計画・行動で、多くの人々を死に追いやった、碇ゲンドウは、自己の蹉跌(主にマザコン性)を認識したうえで、死んでいくしかない。
それも、若者たちの未来のために。としか言いようがない。
シンジの理解者であり、唯一の味方だった、葛城ミサト指令も、恋人加持を失いながらも、最終決戦から生き残る。
同様に、アスカも、赤木リツコ副指令も、その他の仲間たちも、皆、生還する。
そして、成熟した(?) 青年となった、シンジは、初恋(?) の相手、アスカと決別し、アスカの保護者であり、エヴァの新搭乗者であった、メガネ女子、真希波マリ(マキナミマリ)に、男として認められるのである。
よくある、初恋の人との別れと、成年者としての選択ということだろう。
最後は、山口県内の、JR宇部線、宇部新川駅から、二人が手をつなぎ、走り出すシーンでエンディングとなる。
あの駅は、宇部マテリアルの本拠地であり、宇部市は、もともと炭鉱都市であるので、雑然としていて、決してきれいでない、疲れたような地方都市である(また、それは庵野氏の出身地でもある。)。
しかしそれは、若者たちの出発に希望を添える。どのような時代でも、どのような場所でも、若者たちには未来がなくてはならない。
自分で、意識的に選択したと思える未来であれば、それは何よりだ。
私には、この結末がとてもよかった、と思う。
私たちの思春期は、もともと、いわば閉ざされた屋根裏部屋の思考であり、「いつか世界的な〇〇を成し遂げる」という夢想から始まる。
厨二病は治まらない。
しかし、その後の試練や挫折はお決まりであり、最後に思うのは、「私はこのような仕事をしてきた」という、自ら社会人としての成した自己の仕事の肯定とその評価である。
すなわち「私はこのように、(社会が求める)自分の職責をきちんと果たした」、と証明することしか、私たちには残すものも誇るものもないのではないかと思う。
これは、今になれば、とてもよくわかる思考である。
エヴァから出発した、庵野氏は、前作「シン・ゴジラ」で、素晴らしい達成を見せたと思う(ブログにも書いた。)。
今後も、彼は、シン・ウルトラマンや、シン・仮面ライダーと、自らの、生涯を賭けた、大事なアイコンを賦活させる準備にあるようだ。
私には、彼が、自らの社会的達成を果たし続けることを、できれば高い水準で達成することを、願って止まない。
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新世紀エヴァンゲリオンの完結編が完成し、封切られると聞いたのはずいぶん以前のことのように思います。
その後のコロナパニックで、それこそ、オタク、中二病文化の担い手たちが、社会的活動を制約された中(国民皆制約されたというかもしれないが)で、封切られるのは、興行的には、大変お気の毒な話である。
しかしながら、コアなファンはありがたいもので、「この時期に」と危ぶまれたにもかかわらず、映画館は盛況だった(4月11日までで、74億以上売り上げ、観客484万以上、シリーズ新記録)(5月6日で、82.8億以上売り上げ、観客542万以上)、と、年若い友人は言っていた。
したがって、コロナ性うつ病により、現実的に「社会的」参加を怠っているわが身とすれば、是非に行ってみたいと思ったわけである。
私が行ったのは、4月6日(水曜日)であり、私が見たのは12時5分の二回目の上映であったが、入場者の数は、一時の狂騒状態は終わったのか、20,30人くらいの観客だった。
私のそばに、30代くらいのカップルがおり、二人とも、「エヴァ」(以下こう称する。)の上映に入るのかと思うと、短髪の男のみ、エヴァの方に入り、シネマコンプレックスというやつで、女の方は別のところへ行ってしまった。
どうも、男の方は、まなじりを決して、妻の意に反し、完結編といわれるエヴァを見て、少年時代から続く、エヴァ幻想にけじめをつけるのだろうか、あっぱれなものである。
彼らの間で「なんで私のいうことを聞かないの」、「あんな暗いアニメはいやよ」というやり取りはあったかもしれない、そして、今回だけは、男は折れなかったのかもしれない。
ま、皆、私の想像であるが。
映画館での観客は、中段から、上部の2、3列に集中して並ぶ。
私は、中段から上に三列目の左端の席である。
平日であるからなのか、一人の客が多い。2、3列空けて、私の左隣にお姉さんが座る。一人だけである。私の上段の中央に例の短髪のお兄ちゃんが座っている。
少しして、下の女二人カップルがペチャクチャやりだした。
幕間なのでやむを得ない、とめどなく続く会話に我慢していた。
そのうち、予告上映が始まった。
シン・仮面ライダーとか、シン・ウルトラマンなどの予告もある(興味があるのは私だけかもしれないが。)。
瞬間的に、シン・ウルトラマンのカットにひやりとした。
ぞくぞくという感覚である。
これは、見に行かずにはおれまい。
その間も、女二人のカップルは止まらない、年おいて短気な私は、「うるさい、静かにしろ」と一喝した。
それで静かになったのは、重畳である。
あれらは、それぞれの家庭で、オヤジに注意されたこともないに違いない。
不幸な生い立ちである。
それから、後は快適に映画を見ることができた。
友人が言うには、ほぼ三時間あるので、中途でトイレに行かなくてはもたない。
「一病息災」の私とすれば、その言葉を実証した。なんせ、ほぼ三時間である。
しかし、皆、席を立たない。集中して、まるで修行の場にいるようだ。
エンドロールを見ながら、確かにこれは完結編だ、と思った。
どうもこの映画は、「謎」の完結というより、錯そうした「人間関係」の完結なのだ。
誰もが、自己の人性を、社会的存在としての自己、につなげられるのは幸せであると、思う。
この映画の主調音は、まさしく、そこを目指していた。
それは、厨二病の終焉と、その帰結か、といわれれば身もふたもないかもしれない。
しかし、それは、試みとして、決して悪い出来ではないと思う。それこそこのドラマは、最初のテレビ放映から起算すると、ほぼ四半世紀が経過している。
思い起こせば、東京テレビの深夜アニメ(1995年)で始まったこのアニメも、うちのこどもたちが、小学生のころ(現在30代後半)であり、ある意味、国民的アニメであろうと思う。
今でも、NHK、BSの深夜アニメで、当初の作品が放映されている。何度も、繰り返し、繰り返しである。
ほぼ、主調音(?) は、テレビシリーズで出尽くしていると思われるので、世代を超えた、新しい世代のファンも出てきたのかもしれない。
その後、作られた、序・破・急の劇場版シリーズにおいては、際立った印象は、私には少ない。
それを抜きにして、テレビシリーズから、この、完結編につながったとしても、特に違和はない。
エヴァというドラマは、大河小説というべきもののような、長い長い長編であるが長編であるが、この映画では、最初からの、ドラマの流れをなぞってくれる。
わかる奴は解れ、と、難解で、突き放したように、なぞはなぞとして、ガイドブックも幾通りも出た、従前までのつくりに比べ、親切なつくりである。
今、テレビシリーズのエヴァを何度も再放送している、NHKのスタッフにもアニメオタクは多いらしく、特番などもつくられ、結構なことであると私は思う。
今見ても、これはとてもよくできたアニメである。
それこそ、神話・オカルト、ドイツ語の使用、政治状況、家族の問題、戦争・軍事、ロボット、アドレッセンス(発情期)の男の子の問題、思春期のあらゆる過剰が一堂に会している。
私たち中二病患者としては、なんと豊かな題材だろうか。
私の居所は、なにぶんいなかなので、直営放送局がなく、九州キーの深夜アニメで、発見して以来、はまってしまい、よく映らないテレビはあきらめて、ビデオ化されたあと、レンタルビデオ屋に日参した。
製作者(庵野氏など)のオカルト趣味なども十分に発揮され、それこそ厨二シンドロームの大合作であった。したがって、演出、キャラ、アニメ画、あらゆる部分がとがっていた。
エンド部分の裏の主題歌、「FLY ME TO THE MOON」も、私の頭の中に深く刻まれてしまい、シナトラヴァージョン、女性歌手バージョン、様々なものを、猟集した。
私のカラオケナンバーになったのも、果せるかな、ということである。
男女の性愛を巧妙に描いたようなこの曲を、若き中二病患者たちはどのようにとらえたか。
このシリーズは、テレビアニメ、劇場版アニメ、漫画とみな違った展開をする。
私には、「みんな違ってみんないい」としか言いようがない。
金子みすずと同様に、多少無責任にではあるが。
テレビシリーズは当初に、物語性が単独で完結していた。
最後は物語性すら解体し、アニメのセルまでに、戻してしまい、これでもアニメ表現なのかと、野心的な作風をこれでもかと、展開して見せた。
物語は、なぞを含んだ有機的ロボット(実は有機的な新人類ということなのだろう)アニメで、操縦する、思春期(発情期)の、少年、少女の葛藤と、それを取り囲む、開発者との軋轢、さらに彼らを指嗾する社会の支配層との闘争など、盛りだくさんの内容だった。
しかしながら、登場人物のすべてが、家族や親子、男女間に欠損や、きずを抱え、愛する者への執着と憎しみの間で葛藤しているという、実に暗いアニメであった。
このくらさは、私のような中年男(当時)にも、ちゃんと、届いたのだ。
これが、よくぞ、学童にまで支持されたものだと思う。
解けない謎や、解釈が様々に生じ、今作まで引っ張ったということなのだろうか。
子を愛せない大人と、したがって、親を愛せないこども、生まれながらの資質だけで、社会の安寧と存続のために、戦士になる、戦士にならなければならないこどもたち、また、親とすれば、こどもよりは、男・女の葛藤が大事、なかなか、厳しい主題である。
今回の展開も、基本的に、男どもは、みなマザコンである、というところにある。
主人公の、碇(いかり)親子は、お互いに、妻と母親という対立軸をめぐり、対立し、葛藤する。
「妻がすべて」という碇ゲンドウ指令のなんとみっともないことか。やだねえ、男は、と私も思う。
綾波レイという、母親の遺伝子から作られたクローン(人工的に誕生させられた)少女に、一歩的に愛され、骨抜きにされ、甘えるしかない、碇シンジ、これもみっともない、こと、この上ない。
母親に愛されず、目の前で自殺された、惣流・アスカ・ラングレー(以下「アスカ」という。)、母との葛藤を克服し、自己への自負心をばねに、孤独な戦士の道を歩む姿、こちらの方が、社会人(大人)としてはるかにましに描かれている。
裏話をひとつ、彼女は、劇場版アニメシリーズから、常時、左目にアイパッチをしており、あれは何だろうと、皆、疑問に思っていた。
このたび、最終決戦で、アイパッチを開放し、邪気眼のエネルギーを開放し、彼女の攻撃を不退転のものにすることと、なった。まさしく、彼女も、中二病であった。
今作では、皆、高校生だった登場人物が、それぞれ、大人になり、結婚して、劣等生だった彼らが、医師になり、あるいはエンジニアになり、ぼろぼろになった、生き残った地域社会で懸命に戦っている設定である。
一人、碇シンジ君だけが、自分が、かつて、引き起こした、サードインパクト(市民が数多く死んだ大災害)にこだわり、めそめそ、落ち込んでいる。
一人、綾波レイだけが、いまだに、シンジを見捨てず、シンジに付きまとい、かまう。
彼女は、クローンなので、幼児体験も、生活体験もなく、社会的な生活もへていない。
「私には何もないもの」ということである。
今回、生き残った社会で、無理やり、農作業や、親子や、同胞たちの共同生活を経験し、社会的存在としての、人の生き方を学び、なにがしか充足し、そして消滅する。
これが、綾波レイの、社会的な「人間として」の救済の物語である。
そして、かつては頼りのなかった、シンジの友人たちは、災害後の欠損と不自由の中で、大人としての社会的な役割をきちんとこなしながら、「仕方がないよ」、「待ってやろうよ」、と、最初から最後まで、シンジを徹頭徹尾、かばうのである。
映画のイメージでは、エヴァンゲリオンたちが戦っている世界は、生き残った人たちが生きている社会と、アクリルボードのような境界で隔てられている。
したがって、彼らは、少々の戦闘による影響くらいでは、日常に影響は受けない。
なるほど、究極には、大規模戦闘の影響を受けるかもしれないが、アスカやシンジが属する、戦闘世界は、いうなれば、中二病患者の夢の中のようなものか。
戦闘シーンの、見事な映像と描写は相変わらず際立っているが、戦闘の意味が少し変わってきた。
戦闘者として生きるのと、無力ながら生活者として精一杯生きるのと、どちらが大切なことのかという、庵野秀明監督の問いかけである。
若者たちは、時間の経過(うまくいけば成熟)とともに、青春のそのつまらない思惟や失敗さえ、ずるいけれどそれは後知恵になるが、時間と距離をとってみれば、たとえそれが貧しく、恥ずかしい取り組みであったとしても、それなりに評価することができるのではないか、という、現在の庵野氏の認識が、かいま見えるような気がした(外したかもしれないが)。
私たち個々の思考は究極、個の思考でしかなく、いずれ現実に打ち砕かれる。
これは不可避の道行きであり、個々の思惑や思考とは別に、たとえそれがすぐれた思考だとしても、それをも飲み込み、総体関係存在としての、人間の思惟や社会、歴史は継続、進展していく。
私たちの、挫折体験など、たかだか、その程度のものなのかもしれない。
君たちはよく戦った、と。
やっぱり、本作は、救済の物語なのだろう。
シンジは、綾波レイの消滅を契機に、戦士としての、自らの社会的役割を果たそうとする。
それは、彼にとって都合のよかった「母親的なもの」への感謝と、併せて温和な決別、父親との、本来的な対決である。
先に息子の方が、マザコンから立ち直り、父母を相対化する視点を持ったわけである。
そして、いまだにマザコンや、男親としての自らの立場を意識下できず、行動できない、碇ゲンドウ指令と戦うことになる。
母親や、父親を、距離を置いて見れるようになった、シンジは、強い。
自らの傾向性(思想性)と計画・行動で、多くの人々を死に追いやった、碇ゲンドウは、自己の蹉跌(主にマザコン性)を認識したうえで、死んでいくしかない。
それも、若者たちの未来のために。としか言いようがない。
シンジの理解者であり、唯一の味方だった、葛城ミサト指令も、恋人加持を失いながらも、最終決戦から生き残る。
同様に、アスカも、赤木リツコ副指令も、その他の仲間たちも、皆、生還する。
そして、成熟した(?) 青年となった、シンジは、初恋(?) の相手、アスカと決別し、アスカの保護者であり、エヴァの新搭乗者であった、メガネ女子、真希波マリ(マキナミマリ)に、男として認められるのである。
よくある、初恋の人との別れと、成年者としての選択ということだろう。
最後は、山口県内の、JR宇部線、宇部新川駅から、二人が手をつなぎ、走り出すシーンでエンディングとなる。
あの駅は、宇部マテリアルの本拠地であり、宇部市は、もともと炭鉱都市であるので、雑然としていて、決してきれいでない、疲れたような地方都市である(また、それは庵野氏の出身地でもある。)。
しかしそれは、若者たちの出発に希望を添える。どのような時代でも、どのような場所でも、若者たちには未来がなくてはならない。
自分で、意識的に選択したと思える未来であれば、それは何よりだ。
私には、この結末がとてもよかった、と思う。
私たちの思春期は、もともと、いわば閉ざされた屋根裏部屋の思考であり、「いつか世界的な〇〇を成し遂げる」という夢想から始まる。
厨二病は治まらない。
しかし、その後の試練や挫折はお決まりであり、最後に思うのは、「私はこのような仕事をしてきた」という、自ら社会人としての成した自己の仕事の肯定とその評価である。
すなわち「私はこのように、(社会が求める)自分の職責をきちんと果たした」、と証明することしか、私たちには残すものも誇るものもないのではないかと思う。
これは、今になれば、とてもよくわかる思考である。
エヴァから出発した、庵野氏は、前作「シン・ゴジラ」で、素晴らしい達成を見せたと思う(ブログにも書いた。)。
今後も、彼は、シン・ウルトラマンや、シン・仮面ライダーと、自らの、生涯を賭けた、大事なアイコンを賦活させる準備にあるようだ。
私には、彼が、自らの社会的達成を果たし続けることを、できれば高い水準で達成することを、願って止まない。
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