京都、一乗寺詩仙堂の前に住みながら、結局、一度も、観光さえしなかった友人を知っています。
古寺は嫌い(当時)、教養もなかったので、「古寺巡礼」もついに読まず、暇ばかりもてあまし、なんと
偏った私の学生時代でしょう。
今思えば、著者の「日本の七大思想家」とか、京大の教養課程で講義されたという佐伯啓思さんの「幻想
のグローバル資本主義」上・下(アダムスミスの誤算、ケインズの予言)(PHP新書)などが、当時読めたと
すれば、当時での私の世界認識というか、私の学生時代も、私の教養も、もう少しどうかなったのではない
かと、栓のない空想をしてしまいます。
このたび、先駆者として、和辻の、独自で、世界に誇るべき業績に触れられることは、私たちにとっても
大きな喜びです。
************************************
和辻哲郎(1889~1950) その1
一 衝撃の和辻体験を乗り越えて
通常、和辻の主著と言えば、「風土」、「古寺巡礼」、「日本精神史研究」があげられる。
主著は、「倫理学」(ことに、戦前、戦中に書かれた上巻(1937年刊)、中巻(1942年刊)は、西洋の個人
主義的哲学とひとり格闘しながら、関係論的な人間認識を徹底的に貫き、おそらく日本、それも西洋と対峙す
る運命にさらされた近代日本でないと生まれようのない独創的な哲学と倫理学がうちたてられている。
欧米との戦いの中で、思想という観念の領域で西洋との戦いを演じ、その戦いの中で近世以来の西洋的思考
の型を乗り超えるだけの実績を示したという運命的なものを感じる。
大著 「倫理学」戦前に
上巻、中巻が書かれ、 ・・・圧巻というべき労作
戦後に
下巻がかかれた。
上巻、中巻・・・圧巻というべき労作に大きな衝撃
人間を独立した個人、自我などと捉えるのではなく、原理的に関係存在として捉える論理(小浜が、差別や
殺人、孤独や自殺、日常生活と死、労働や恋愛結婚、不倫や売春など扱った中で新たな倫理学を試みたこと)
しかし、
60年前に、和辻によって、
哲学的、体系的、徹底的、組織的に、透徹した人間洞察力、わかりやすく力強い文体のもとで、すでに達
成されていた。(茫然自失の状態)
(デカルト、カント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、シューラ―、タルドなどの同時代、ジンメ
ル、デュルケームなどの社会学者まで、鋭い批判力などを駆使し扱い、ある意味で勝利を勝ち取って
いる。)
(そして、結果として小浜の問題意識として)
ア 和辻のやり残したテーマを延長してみること
イ(和辻のやりたかった)日本語で哲学する問題を発展させてみること
二 孤立的個人を出発点とする西洋哲学との格闘
「倫理学」における人間把握・・・「個人意識」ではなく「人間(じんかん)」・・「ひと」同士の「間
柄」を出発点とし、相互の「実践的行為的連関」を原理とする。
西欧的思考 デカルト ⇒ カント 図式への対抗と格闘
〈「我れのみが確実である」と書くのはそれ自身矛盾である。書くのは言葉の文学的表現であり、言葉は
ただ ともに生き、ともに語る相手を持ってのみ発達してきたものだからである。たとい言葉が独語
として語られ、何人にも読ませない文章として書かれるとしても、それはただ語る相手の欠如態に過ぎ
ないのであって、言葉が本来語る相手なしに成立したことを示すのではない。そうしてみれば書物を読
み文書を書くということは他人と合い語っていることなのである。いかに我の意識のみを問題にしても、
問題にすること自体がすでに我の意識を超えて他人と連関していることを意味する。いかなる哲学者も
かかる連関なしに、問題を提出し得たものはなかった。〉(「倫理学」本論第一章第一節)
デカルトの哲学原理の根本的な批判
大森の論理、「独我論 = 鉄壁の孤独」の完膚なきまでの批判
〈しかし肉体に関してはしばしば肉体的感覚の非共同性が説かれている。他人が痛みを感じているとき、そ
の心的な苦しみはともにすることはできても、痛みそのものまでともにすることはできぬというのである。
(中 略)しかしそれだからと言って肉体的感覚をともにすることが全然ないというのはうそである。
たとえば我々がともに炎天の下に立っているときにはわれわれはともに熱さを感じる。(中略)だから労
働をともにする生活においては、肉体的感覚をも常にともにしているのである。かかるとき我々は相手の
表情を介してその肉体的な感覚を類推する、(すなわち己の同様な表情と感覚との連関と比較して比論的
に同一であると類推する)というごときまわりくどいことをやっているのではない。(中略)だから熱さ
をともに感じている人々は、同時に、熱いと言い出すこともできる。(中略)熱さ寒さのあいさつという
ごときこともこの感覚の共同がなければ起こりうるものではない。肉体的感覚の相違は、かくのごとき共
同性の基盤において、その限定としてのみ見出されうるのである。そうではなくして肉体的感覚が全然非
共同的なものであるならば、いかにしてそれを言い表す共通の言葉が発生するであろうか。(中略)この
共同性を欠けば表情は表情としての意味を失ってしまう。表情さえも通用しないところで言葉が発生する
わけはない。だから肉体的感覚を言い表す共通の言葉があるということはすでにこの共同体の顕著な証跡
なのである。〉(本論第一章第二節)
大森も、西欧の思想家も「和辻哲学」を知らなかった。
なぜなら、近代以来の西洋哲学が最も基礎的な認識論のレベルから、共同性とは無縁の個人意識あるい
は孤立した個人を出発点として自らの方法を展開してきたという宿痾(しゅくあ)のような枠組みに対す
る疑いが見られないからである。
和辻の時代までの哲学者でこの宿痾から免れていたのは、おそらくわずかに、ヘーゲル、マルクス、ハ
イデカーくらいのものであり、和辻にとってこの三人でさえ、それぞれ異なる意味で批判の対象であった。
三 人間とは社会的関係の総体である(註:マルクスの言葉です。)
人間は肉体的感覚のみにおいて生きているのではない。人間は、感情や意志や知的営みや行為の交流などの
総合された存在であって、こうした総合的な視野の下に人間を収めてよく観察する限り、「心」という、一見
個別的な身体にそれぞれ異なった形で宿っているかに見える概念にすら、「鉄壁の孤独」ではない、共同存在、
関係存在としての人間本質がにじみ出ているのである。個人の「心」とふつう私たちが読んでいる概念も、初
めから共同関係的な構造をもっているのだ。
自己意識とは、それが過去の自分に対して後悔、羞恥、反省、改心、自恃、満足の念を抱いたりする限りで、
時間に沿った一つの対象化行為(分裂による自己否定と、さらにそのまとめ直しという運動)である。そうい
う対象化が自己自身に対し可能であるということは、自己意識そのものが、すでに「内なる他者」を構造とし
て抱え込んだところに成り立つ事実を証明している。
この「内なる他者」は自己意識なるものが確立されるまでの間に、それこそ乳児期からの他者(親、兄弟姉
妹、友人、教師など)との「実践的行為的連関」によって形成される。したがって、「人」と「人」との関係
交流は、「私」「自我」「自己意識」などの確立に先立ち、かつ、それらを形成、維持させる根源的な地盤の
意味を持つのである。
〈我れの意識の作用は決して我のみから規定せられずして、他人から規定せられる。それは一方的な意識作
用が交互に行われるという意味での「交互作用」なのではなくして、いずれの一つの作用もが自他の双方
から規定せられているのである。従って間柄的存在においては互いの意識は浸透しあっていると いうこ
とができる。(中 略)以上のごとき自他の意識の浸透は特に感情的側面において著しい。(中略)子を失
った悲しみは両親にとって共同の悲しみである。彼らは同一の悲しみをともに感ずる。父と母は互いの体
験に注意を向けることなくしてすでにはじめより同一の悲しみをかなしんでいると知っているのである。
〉(本論第一章第二節)
私たちは、いかに一人で何かを意識したり知覚したりしていても、必ず共同的な意味の承認を通して、それ
を「何々である」と把握するのであって、共同存在としての人間的意味の手あかがついていない裸の自然対象
をそのまま捉えることなどはあり得ないのである。(小林秀雄の言葉「自然は、ただ与えられてはいない、私
たちが重ねてきた見方のうちで現れるのである。」と同じ、人間観、自然観)
また、この観点は、ハイデガーが、「現存在=人間」のあり方を解くのに用いた画期的な認識、身のまわり
にある様々な「道具」や自然対象が互いに「・・・・ にとってあるもの」という付託と指示の連関関係に立
ち、その関係が最終的に必ず現存在自身を指し示すところに還ってくるという認識の直接的な影響にある、と
考えられる。
道具や自然現象は、簡単に言えば、全て私たち人間「・・・にとってあるもの」なのである。
要するに共同体を形作っている人間存在こそが、周囲の「もの」や「こと」をまさに自分たち自身にとって
の「かくかくのもの」「しかじかのこと」たらしめるのである。それは必ずしもそのように意識されるとは限
らず、誰もが日常生活を通して、そういうような仕方で自分や世界を了解しつついきているのであって、その
「意識されているとは限らない」という性格を表現するためにも、和辻はわざわざ「実践的行為的関連」とい
う独特な用語を使ったのである。
この人間同士の関係性が反省的な意識によって深く意識されたとき、そこに彼の言う「倫理学」、すなわち
人間学が成立する条件が整うと考えられたのだろう。(マルクスの影響下のもとに)
マルクスは、素朴な実在論、唯物論を説いたように誤解されやすい(「存在が意識を規定する。」ような俗
流の唯物論)が、 人間は、まずその「物質」的生活(衣食住の確保、道具の作成など)がまずあり、その基
本的生活において、「ひと」と「ひと」同士が共同関係を結びかつ自然対象に実践的にかかわることによって、
自分たちの生のあり方を長い時間をかけて「社会」という形に次第に組みたてていった歴史的存在こそ人間で
ある、というのがマルクスの考え方である。
「人間とは・・・・・・社会的諸関係の総体である。」(1845年、フォイエルバッハテーゼ)という名句
四 倫理とは人間存在の理法である
「倫理」が成り立つための前提
「人間」あるいは「人」というものの認識(概念規定)をまず試みた(上記の記述)。
「倫」・・・仲間、きまり、かた、秩序
「理」・・・ことわり
「倫理とは人間存在の理法である。」(和辻)
「倫理」とは、必然的に、我々の多数が集団を形成し生活するときのそれぞれのあるべき姿を意味し、倫理
学とはそれをいかにわれわれの自覚的な意識にもたらすかを追及する学問ということになる。
「人間」、「存在」、「理法」それぞれの用語に無限に深い意味を込めている。
「人間」 一個又は複数個体としての「ひと」を表すだけでなく、むしろ「ひと道」、「ひと界」なのである。
人間の「間」は、餓鬼道などの「道」に相当する。(この原義に沿って)「人間」という言葉に「ひととひとと
が織りなす世界」というニュアンスを強くこめようとしている。
「じんかん」と読むことも意義深く受容される。
「存在」 「存」とは主体の自己把持(自己を堅くしっかり保つこと)であり(一章)、
人間が自己自身を時間的に維持すること、自己同一性を(二章以降)
「在」とは人間関係においてあることを意味する(一章)。
人間同士の空間的拡がり(彼は「張り」という。)の可能性を意味する(二章)。
両者相まって、「人間存在」の概念が基本的に満たされる。
「存在」は九鬼周造の「実存」という意味に近い。
「理法」 単に固定的な法則ではなく、「人間存在」がどんな様相や形態の下に、どんな動的な
構造の下に現れるのか、また、現れるべきなのかを解き明かしたものという意を含んで
いる。
主体的、共同的な自己認識に基づくものとの前提となる。
〈 我々日常生活とよんでいるもの、それがことごとく「表現」として人間存在の通路を提供するのである。
だから我々は最も素朴な、もっとも常識的な意味における「事実」から出発することができる。(中略)
倫理学の課題に入り込んでいく通路は最も日常茶飯的な事実なのである。かかる意味において我々の倫
理学は、密接に事実に即する。 〉(序論第二節)
五 無限の弁証法的運動過程としての「全体と個」
和辻がとらない発想法
「全体と個」、「社会と個人」といった二原論的な構図など、わかりやすいが単純な思考を常に避けてい
る。
人間世界は、社会と個人との二重性において成り立ち、個は、全体からの逸脱、すなわち全体の否定であり、
人間存在の本質的契機の一つとして必ずその立脚点を認められなければならないものであるが、さらに進んで、
再び自らを否定し、その本来的ありどころとしての、共同存在に自己還帰する。こうした無限に続く否定の否
定としての弁証法的運動の全体が人間のあり方である。
〈 人間が人である限りそれは個別人としてあくまで社会と異なる。(中略)しかも人間は世の中である限
り、あくまでも人と人との共同態であって孤立的な人ではない。(中略)したがって相互に絶対に他者
であるところの自他がそれにもかかわらず共同的存在において一つとなる。社会と根本的に異なる個別
人が、しかも社会の中に消える。人間はかくのごとき対立的なものの統一である。 〉(序論第一節)
ヘーゲル哲学の影響
「倫理」とは、どの時代、どの社会にあっても、必ずその特殊性を通して実現される主体的・共同的な人
間精神の「はたらき」と考えなくてはならないから、当然それは空間的な広がりと時間的な延長とを、も
ともとその概念の成立条件として含んでいる。
〈 そこで中心問題となるのは、多数個別人格がいかにしてひとう全体を構成しているかとの点である。そ
うしてそれは(中 略)個別人格の独立性の否定においてのみ可能であったのである。(中略)かかる
個別人格の独立性の否定とは、個別人格が単に消滅することではない。独立的なるものが同時に独立し
ないこと、したがって、差別的(異)なるものがそれにもかかわらず、無差別的(同)になることである。
(中 略)全体性が以上のごとく差別の否定にほかならないとするならば、有限相対の全体性を超えた
「絶対的全体性」は絶対的なる差別の否定である。それは絶対的であるがゆえに、差別と無差別との差別
をも否定する無差別でなくてはならぬ。したがって絶対的全体性は絶対的否定性であり、絶対空である。
すべての有限なる全体性の根底に存する無限なるものは係る絶対空でなくてはならぬ。
そこでまた逆に、かかる絶対空を根底とするがゆえに、全ての有限なる全体性における異にして同の統一
が可能になるのである。したがってあらゆる人間の共同態、人間における全体的なるものは、個々の人間
の間に空を実現している限りにおいて形成せられるということができる。
以上の(結果は、人間におけるすべての全体的なるものの究極の真相が「空」であること、したがって全
体なるものはそれ自体として存在しないこと、ただ個別的なものの制限、否定としてのみ己を表すこと、
などを示している。個人に先立ち、個人を個人として規定する全体者、「大きい全体」というごときもの
は、真実には存しない。社会的団体の独立の存在を主張することは正しいこととは言えぬ。 〉(本論1
章第三節)
和辻は、全体と個、社会と個人との一方に偏らせて人間をとらえることの限界を指摘している。
人間存在の根底に「絶対空」なる概念を措定している点に、明らかに仏教的観念の応用が見られるが、「現
世はむなしい」とか「煩悩から解脱せよ」などの仏教思想をいささかも漂わせてはおらず、「絶対空」を根底
としてこそ、「全体の否定運動としての個」「個の否定運動としての全体への還帰」といった人間の動的・創
造的あり方が根拠を有するという強い認識を示すこととなっている。
「個人を個人として規定する全体者」「大きい全体」なるものは真実には存在しないと説いているのも重要
である。(戦争期に書かれた著書で、個人に対し国家のような実体的な「全体」を優位に立てる迎合思想では全
くない。)あらゆる集団、団体は個人を強制する要素をその条件として持つが、それは同時に個々人の内的結合、
融合関係を含んでい
る、と和辻は考える。
〈 社会は本来この両面を持つものとして理解せられなくてはならない。すなわち個人の間の共同化的融合
的な結実の事実が、同時に個人に対して強制を意味するのである。 〉(本論1章第三節)
この指摘は私たちの生活実感に極めてよく適合している。それだけ、深く厳しい現実認識である、と言える。
趣味の読書会などの個々の自由意志によって形成された集団であっても、集合場所、時間、何をテキストにする
かにしても約束があり、議論がいくら白熱しても暴力に訴えてはならない、という黙契が存在する。
和辻倫理学では、人間における全体と個の問題を(具体的には「国家か個人か」)を、選択の問題として考え
ず、一方から他方への否定を重ねていく無限の弁証法的運動過程であると捉える。
〈 この間柄的存在はすでに常識の立場において二つの視点から把捉されている。
一つは間柄が個々の人間の「間」「仲」において形成せられるということである。この方面からは、間柄
から先だってそれを形成する個々の成員がなくてはならぬ。他は間柄を作る個々の成員が間柄からその成
員として限定せられるということである。この方面から見れば、個々の成員に先だってそれを規定する間
柄がなくてはならない。この二つの関係は互いに矛盾する。しかもその矛盾する関係が常識の事実として
認められているのである。 〉(本論1章第一節)
全体から切り離された「個」なる概念は、それ自体として空虚であり、同じように「個」をその契機として持た
ない「全体」もまた空虚以外の何物でもないと説かれている。まさに関係あっての「個」であり、「全体」である。
この捉え方は、特に個人としての「自分」「私」などがどんな存在であるか考える場合に、非常によく実感でき
る捉え方である。小林の「Xへの手紙」にあったように、人はだれかとの具体的な関係に置かれていないときに自
分はどんな存在かと考えるのは、大変むなしいことなのである。
錯視の図式(残念ながら省略します。)
視覚における錯覚の現象を、単なる捨てるべき錯誤と考えずに、生命体としてわれわれが生きていくために、何
らかの有効性や意味を持った現象であると再評価している。錯覚としての「立ち現われ」が全体の体制なのである。
論理的矛盾を矛盾ぐるみ常識的に受け入れている私たちの「実践的行為的連関」こそが、論理的二元対立の地盤
をなしているという考え方(和辻)の方が妥当である。(「否定の否定という無限の運動過程」、「弁証法的統一
」など)
古寺は嫌い(当時)、教養もなかったので、「古寺巡礼」もついに読まず、暇ばかりもてあまし、なんと
偏った私の学生時代でしょう。
今思えば、著者の「日本の七大思想家」とか、京大の教養課程で講義されたという佐伯啓思さんの「幻想
のグローバル資本主義」上・下(アダムスミスの誤算、ケインズの予言)(PHP新書)などが、当時読めたと
すれば、当時での私の世界認識というか、私の学生時代も、私の教養も、もう少しどうかなったのではない
かと、栓のない空想をしてしまいます。
このたび、先駆者として、和辻の、独自で、世界に誇るべき業績に触れられることは、私たちにとっても
大きな喜びです。
************************************
和辻哲郎(1889~1950) その1
一 衝撃の和辻体験を乗り越えて
通常、和辻の主著と言えば、「風土」、「古寺巡礼」、「日本精神史研究」があげられる。
主著は、「倫理学」(ことに、戦前、戦中に書かれた上巻(1937年刊)、中巻(1942年刊)は、西洋の個人
主義的哲学とひとり格闘しながら、関係論的な人間認識を徹底的に貫き、おそらく日本、それも西洋と対峙す
る運命にさらされた近代日本でないと生まれようのない独創的な哲学と倫理学がうちたてられている。
欧米との戦いの中で、思想という観念の領域で西洋との戦いを演じ、その戦いの中で近世以来の西洋的思考
の型を乗り超えるだけの実績を示したという運命的なものを感じる。
大著 「倫理学」戦前に
上巻、中巻が書かれ、 ・・・圧巻というべき労作
戦後に
下巻がかかれた。
上巻、中巻・・・圧巻というべき労作に大きな衝撃
人間を独立した個人、自我などと捉えるのではなく、原理的に関係存在として捉える論理(小浜が、差別や
殺人、孤独や自殺、日常生活と死、労働や恋愛結婚、不倫や売春など扱った中で新たな倫理学を試みたこと)
しかし、
60年前に、和辻によって、
哲学的、体系的、徹底的、組織的に、透徹した人間洞察力、わかりやすく力強い文体のもとで、すでに達
成されていた。(茫然自失の状態)
(デカルト、カント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、シューラ―、タルドなどの同時代、ジンメ
ル、デュルケームなどの社会学者まで、鋭い批判力などを駆使し扱い、ある意味で勝利を勝ち取って
いる。)
(そして、結果として小浜の問題意識として)
ア 和辻のやり残したテーマを延長してみること
イ(和辻のやりたかった)日本語で哲学する問題を発展させてみること
二 孤立的個人を出発点とする西洋哲学との格闘
「倫理学」における人間把握・・・「個人意識」ではなく「人間(じんかん)」・・「ひと」同士の「間
柄」を出発点とし、相互の「実践的行為的連関」を原理とする。
西欧的思考 デカルト ⇒ カント 図式への対抗と格闘
〈「我れのみが確実である」と書くのはそれ自身矛盾である。書くのは言葉の文学的表現であり、言葉は
ただ ともに生き、ともに語る相手を持ってのみ発達してきたものだからである。たとい言葉が独語
として語られ、何人にも読ませない文章として書かれるとしても、それはただ語る相手の欠如態に過ぎ
ないのであって、言葉が本来語る相手なしに成立したことを示すのではない。そうしてみれば書物を読
み文書を書くということは他人と合い語っていることなのである。いかに我の意識のみを問題にしても、
問題にすること自体がすでに我の意識を超えて他人と連関していることを意味する。いかなる哲学者も
かかる連関なしに、問題を提出し得たものはなかった。〉(「倫理学」本論第一章第一節)
デカルトの哲学原理の根本的な批判
大森の論理、「独我論 = 鉄壁の孤独」の完膚なきまでの批判
〈しかし肉体に関してはしばしば肉体的感覚の非共同性が説かれている。他人が痛みを感じているとき、そ
の心的な苦しみはともにすることはできても、痛みそのものまでともにすることはできぬというのである。
(中 略)しかしそれだからと言って肉体的感覚をともにすることが全然ないというのはうそである。
たとえば我々がともに炎天の下に立っているときにはわれわれはともに熱さを感じる。(中略)だから労
働をともにする生活においては、肉体的感覚をも常にともにしているのである。かかるとき我々は相手の
表情を介してその肉体的な感覚を類推する、(すなわち己の同様な表情と感覚との連関と比較して比論的
に同一であると類推する)というごときまわりくどいことをやっているのではない。(中略)だから熱さ
をともに感じている人々は、同時に、熱いと言い出すこともできる。(中略)熱さ寒さのあいさつという
ごときこともこの感覚の共同がなければ起こりうるものではない。肉体的感覚の相違は、かくのごとき共
同性の基盤において、その限定としてのみ見出されうるのである。そうではなくして肉体的感覚が全然非
共同的なものであるならば、いかにしてそれを言い表す共通の言葉が発生するであろうか。(中略)この
共同性を欠けば表情は表情としての意味を失ってしまう。表情さえも通用しないところで言葉が発生する
わけはない。だから肉体的感覚を言い表す共通の言葉があるということはすでにこの共同体の顕著な証跡
なのである。〉(本論第一章第二節)
大森も、西欧の思想家も「和辻哲学」を知らなかった。
なぜなら、近代以来の西洋哲学が最も基礎的な認識論のレベルから、共同性とは無縁の個人意識あるい
は孤立した個人を出発点として自らの方法を展開してきたという宿痾(しゅくあ)のような枠組みに対す
る疑いが見られないからである。
和辻の時代までの哲学者でこの宿痾から免れていたのは、おそらくわずかに、ヘーゲル、マルクス、ハ
イデカーくらいのものであり、和辻にとってこの三人でさえ、それぞれ異なる意味で批判の対象であった。
三 人間とは社会的関係の総体である(註:マルクスの言葉です。)
人間は肉体的感覚のみにおいて生きているのではない。人間は、感情や意志や知的営みや行為の交流などの
総合された存在であって、こうした総合的な視野の下に人間を収めてよく観察する限り、「心」という、一見
個別的な身体にそれぞれ異なった形で宿っているかに見える概念にすら、「鉄壁の孤独」ではない、共同存在、
関係存在としての人間本質がにじみ出ているのである。個人の「心」とふつう私たちが読んでいる概念も、初
めから共同関係的な構造をもっているのだ。
自己意識とは、それが過去の自分に対して後悔、羞恥、反省、改心、自恃、満足の念を抱いたりする限りで、
時間に沿った一つの対象化行為(分裂による自己否定と、さらにそのまとめ直しという運動)である。そうい
う対象化が自己自身に対し可能であるということは、自己意識そのものが、すでに「内なる他者」を構造とし
て抱え込んだところに成り立つ事実を証明している。
この「内なる他者」は自己意識なるものが確立されるまでの間に、それこそ乳児期からの他者(親、兄弟姉
妹、友人、教師など)との「実践的行為的連関」によって形成される。したがって、「人」と「人」との関係
交流は、「私」「自我」「自己意識」などの確立に先立ち、かつ、それらを形成、維持させる根源的な地盤の
意味を持つのである。
〈我れの意識の作用は決して我のみから規定せられずして、他人から規定せられる。それは一方的な意識作
用が交互に行われるという意味での「交互作用」なのではなくして、いずれの一つの作用もが自他の双方
から規定せられているのである。従って間柄的存在においては互いの意識は浸透しあっていると いうこ
とができる。(中 略)以上のごとき自他の意識の浸透は特に感情的側面において著しい。(中略)子を失
った悲しみは両親にとって共同の悲しみである。彼らは同一の悲しみをともに感ずる。父と母は互いの体
験に注意を向けることなくしてすでにはじめより同一の悲しみをかなしんでいると知っているのである。
〉(本論第一章第二節)
私たちは、いかに一人で何かを意識したり知覚したりしていても、必ず共同的な意味の承認を通して、それ
を「何々である」と把握するのであって、共同存在としての人間的意味の手あかがついていない裸の自然対象
をそのまま捉えることなどはあり得ないのである。(小林秀雄の言葉「自然は、ただ与えられてはいない、私
たちが重ねてきた見方のうちで現れるのである。」と同じ、人間観、自然観)
また、この観点は、ハイデガーが、「現存在=人間」のあり方を解くのに用いた画期的な認識、身のまわり
にある様々な「道具」や自然対象が互いに「・・・・ にとってあるもの」という付託と指示の連関関係に立
ち、その関係が最終的に必ず現存在自身を指し示すところに還ってくるという認識の直接的な影響にある、と
考えられる。
道具や自然現象は、簡単に言えば、全て私たち人間「・・・にとってあるもの」なのである。
要するに共同体を形作っている人間存在こそが、周囲の「もの」や「こと」をまさに自分たち自身にとって
の「かくかくのもの」「しかじかのこと」たらしめるのである。それは必ずしもそのように意識されるとは限
らず、誰もが日常生活を通して、そういうような仕方で自分や世界を了解しつついきているのであって、その
「意識されているとは限らない」という性格を表現するためにも、和辻はわざわざ「実践的行為的関連」とい
う独特な用語を使ったのである。
この人間同士の関係性が反省的な意識によって深く意識されたとき、そこに彼の言う「倫理学」、すなわち
人間学が成立する条件が整うと考えられたのだろう。(マルクスの影響下のもとに)
マルクスは、素朴な実在論、唯物論を説いたように誤解されやすい(「存在が意識を規定する。」ような俗
流の唯物論)が、 人間は、まずその「物質」的生活(衣食住の確保、道具の作成など)がまずあり、その基
本的生活において、「ひと」と「ひと」同士が共同関係を結びかつ自然対象に実践的にかかわることによって、
自分たちの生のあり方を長い時間をかけて「社会」という形に次第に組みたてていった歴史的存在こそ人間で
ある、というのがマルクスの考え方である。
「人間とは・・・・・・社会的諸関係の総体である。」(1845年、フォイエルバッハテーゼ)という名句
四 倫理とは人間存在の理法である
「倫理」が成り立つための前提
「人間」あるいは「人」というものの認識(概念規定)をまず試みた(上記の記述)。
「倫」・・・仲間、きまり、かた、秩序
「理」・・・ことわり
「倫理とは人間存在の理法である。」(和辻)
「倫理」とは、必然的に、我々の多数が集団を形成し生活するときのそれぞれのあるべき姿を意味し、倫理
学とはそれをいかにわれわれの自覚的な意識にもたらすかを追及する学問ということになる。
「人間」、「存在」、「理法」それぞれの用語に無限に深い意味を込めている。
「人間」 一個又は複数個体としての「ひと」を表すだけでなく、むしろ「ひと道」、「ひと界」なのである。
人間の「間」は、餓鬼道などの「道」に相当する。(この原義に沿って)「人間」という言葉に「ひととひとと
が織りなす世界」というニュアンスを強くこめようとしている。
「じんかん」と読むことも意義深く受容される。
「存在」 「存」とは主体の自己把持(自己を堅くしっかり保つこと)であり(一章)、
人間が自己自身を時間的に維持すること、自己同一性を(二章以降)
「在」とは人間関係においてあることを意味する(一章)。
人間同士の空間的拡がり(彼は「張り」という。)の可能性を意味する(二章)。
両者相まって、「人間存在」の概念が基本的に満たされる。
「存在」は九鬼周造の「実存」という意味に近い。
「理法」 単に固定的な法則ではなく、「人間存在」がどんな様相や形態の下に、どんな動的な
構造の下に現れるのか、また、現れるべきなのかを解き明かしたものという意を含んで
いる。
主体的、共同的な自己認識に基づくものとの前提となる。
〈 我々日常生活とよんでいるもの、それがことごとく「表現」として人間存在の通路を提供するのである。
だから我々は最も素朴な、もっとも常識的な意味における「事実」から出発することができる。(中略)
倫理学の課題に入り込んでいく通路は最も日常茶飯的な事実なのである。かかる意味において我々の倫
理学は、密接に事実に即する。 〉(序論第二節)
五 無限の弁証法的運動過程としての「全体と個」
和辻がとらない発想法
「全体と個」、「社会と個人」といった二原論的な構図など、わかりやすいが単純な思考を常に避けてい
る。
人間世界は、社会と個人との二重性において成り立ち、個は、全体からの逸脱、すなわち全体の否定であり、
人間存在の本質的契機の一つとして必ずその立脚点を認められなければならないものであるが、さらに進んで、
再び自らを否定し、その本来的ありどころとしての、共同存在に自己還帰する。こうした無限に続く否定の否
定としての弁証法的運動の全体が人間のあり方である。
〈 人間が人である限りそれは個別人としてあくまで社会と異なる。(中略)しかも人間は世の中である限
り、あくまでも人と人との共同態であって孤立的な人ではない。(中略)したがって相互に絶対に他者
であるところの自他がそれにもかかわらず共同的存在において一つとなる。社会と根本的に異なる個別
人が、しかも社会の中に消える。人間はかくのごとき対立的なものの統一である。 〉(序論第一節)
ヘーゲル哲学の影響
「倫理」とは、どの時代、どの社会にあっても、必ずその特殊性を通して実現される主体的・共同的な人
間精神の「はたらき」と考えなくてはならないから、当然それは空間的な広がりと時間的な延長とを、も
ともとその概念の成立条件として含んでいる。
〈 そこで中心問題となるのは、多数個別人格がいかにしてひとう全体を構成しているかとの点である。そ
うしてそれは(中 略)個別人格の独立性の否定においてのみ可能であったのである。(中略)かかる
個別人格の独立性の否定とは、個別人格が単に消滅することではない。独立的なるものが同時に独立し
ないこと、したがって、差別的(異)なるものがそれにもかかわらず、無差別的(同)になることである。
(中 略)全体性が以上のごとく差別の否定にほかならないとするならば、有限相対の全体性を超えた
「絶対的全体性」は絶対的なる差別の否定である。それは絶対的であるがゆえに、差別と無差別との差別
をも否定する無差別でなくてはならぬ。したがって絶対的全体性は絶対的否定性であり、絶対空である。
すべての有限なる全体性の根底に存する無限なるものは係る絶対空でなくてはならぬ。
そこでまた逆に、かかる絶対空を根底とするがゆえに、全ての有限なる全体性における異にして同の統一
が可能になるのである。したがってあらゆる人間の共同態、人間における全体的なるものは、個々の人間
の間に空を実現している限りにおいて形成せられるということができる。
以上の(結果は、人間におけるすべての全体的なるものの究極の真相が「空」であること、したがって全
体なるものはそれ自体として存在しないこと、ただ個別的なものの制限、否定としてのみ己を表すこと、
などを示している。個人に先立ち、個人を個人として規定する全体者、「大きい全体」というごときもの
は、真実には存しない。社会的団体の独立の存在を主張することは正しいこととは言えぬ。 〉(本論1
章第三節)
和辻は、全体と個、社会と個人との一方に偏らせて人間をとらえることの限界を指摘している。
人間存在の根底に「絶対空」なる概念を措定している点に、明らかに仏教的観念の応用が見られるが、「現
世はむなしい」とか「煩悩から解脱せよ」などの仏教思想をいささかも漂わせてはおらず、「絶対空」を根底
としてこそ、「全体の否定運動としての個」「個の否定運動としての全体への還帰」といった人間の動的・創
造的あり方が根拠を有するという強い認識を示すこととなっている。
「個人を個人として規定する全体者」「大きい全体」なるものは真実には存在しないと説いているのも重要
である。(戦争期に書かれた著書で、個人に対し国家のような実体的な「全体」を優位に立てる迎合思想では全
くない。)あらゆる集団、団体は個人を強制する要素をその条件として持つが、それは同時に個々人の内的結合、
融合関係を含んでい
る、と和辻は考える。
〈 社会は本来この両面を持つものとして理解せられなくてはならない。すなわち個人の間の共同化的融合
的な結実の事実が、同時に個人に対して強制を意味するのである。 〉(本論1章第三節)
この指摘は私たちの生活実感に極めてよく適合している。それだけ、深く厳しい現実認識である、と言える。
趣味の読書会などの個々の自由意志によって形成された集団であっても、集合場所、時間、何をテキストにする
かにしても約束があり、議論がいくら白熱しても暴力に訴えてはならない、という黙契が存在する。
和辻倫理学では、人間における全体と個の問題を(具体的には「国家か個人か」)を、選択の問題として考え
ず、一方から他方への否定を重ねていく無限の弁証法的運動過程であると捉える。
〈 この間柄的存在はすでに常識の立場において二つの視点から把捉されている。
一つは間柄が個々の人間の「間」「仲」において形成せられるということである。この方面からは、間柄
から先だってそれを形成する個々の成員がなくてはならぬ。他は間柄を作る個々の成員が間柄からその成
員として限定せられるということである。この方面から見れば、個々の成員に先だってそれを規定する間
柄がなくてはならない。この二つの関係は互いに矛盾する。しかもその矛盾する関係が常識の事実として
認められているのである。 〉(本論1章第一節)
全体から切り離された「個」なる概念は、それ自体として空虚であり、同じように「個」をその契機として持た
ない「全体」もまた空虚以外の何物でもないと説かれている。まさに関係あっての「個」であり、「全体」である。
この捉え方は、特に個人としての「自分」「私」などがどんな存在であるか考える場合に、非常によく実感でき
る捉え方である。小林の「Xへの手紙」にあったように、人はだれかとの具体的な関係に置かれていないときに自
分はどんな存在かと考えるのは、大変むなしいことなのである。
錯視の図式(残念ながら省略します。)
視覚における錯覚の現象を、単なる捨てるべき錯誤と考えずに、生命体としてわれわれが生きていくために、何
らかの有効性や意味を持った現象であると再評価している。錯覚としての「立ち現われ」が全体の体制なのである。
論理的矛盾を矛盾ぐるみ常識的に受け入れている私たちの「実践的行為的連関」こそが、論理的二元対立の地盤
をなしているという考え方(和辻)の方が妥当である。(「否定の否定という無限の運動過程」、「弁証法的統一
」など)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます