班女(はんにょ)塚
今は昔 平安京の頃、この辺りには藤原氏の邸宅がありました。その庭の中島に弁財天を勧請したのが「班女の宮」の始まりと伝わります。かつて、この町は「オハンニョ町」と称し、皆でお宮を守り、お宮に守られながら暮らした町衆の歴史があります。時代は移り、一帯が商業の中心になった江戸時代頃から、音が転じて「繁昌(ハンジョウ)町」と呼ばれるようになりました。
鎌倉時代の逸話集「宇治拾遺物語」第3章の長門前司の娘の話の舞台は、この地に符合することから、少なくともそれよりかなり古くから神が鎮座していたことを裏付ける証とされます。豊臣秀吉公が、この神霊を東山佐女牛へ移そうとしたところが、怪奇に見舞われて断念したという記録も残ります。
その後は、「繁昌神社」と共に神宮寺として真言宗の僧に寄って管理されていましたが、明治政府の神仏分離令により、現在の形を残すことになりました。いにしえ人の暮らしと信仰に思いを馳せ、今また、繁昌町内氏子で繁昌神社奥の院とし守っております。どうぞ本日御参拝のご縁を末永く心にお留め置き下さい。
平成26年甲午の年正月 繁昌神社
長門前司の娘の話
前長門国守の家に二人の娘がいた。姉には夫がいたが、妹は独身で、時折、妹を訪ねてくる男がいた。ところが、その妹は病にかかり、この世を去ってしまった。妹は、訪ねてくる男と、いつも話をしていた場所に倒れていた。男が来るのを、その日も心待ちにしていたのかもしれない。やがて妹の遺体は、棺に入れられて、鳥野辺の墓地に運ばれたが、墓地に着いて棺を開けてみると遺体がない。不思議に思って急いで家に帰ってみると、そこに、棺に入れたはずの遺体があった。次の日、再び、遺体を棺に入れて墓地に運んだが、棺を開けるとまたもや遺体はなく、家に戻ると、妹が男と話をしていた場所に横たわっていた。そしてとうとう、遺体は、まるで根を深く張った大木のように全く動かなくなってしまい「そんなにここにいたいのなら、妹が望む場所に埋葬してあげよう」と、床板をはずして、その部屋の床下に遺体を埋めることにした。すると、重くて動かなかった遺体は、今度は軽々と動かすことができた。しかし、妹が埋葬された家には「気味が悪い」と住む人は誰もいなくなり、やがてそこに塚が築かれ、社が祀られるようになった。それが半焼神社で、妹が埋葬されたところは「班女塚」として残っている。
妹が生きたのは、男が女のもとを訪ねてくる「通い婚」の時代であった。かつては、妹は独身のままこの世を去ったために、結婚を控えている者が、その塚の前を通ると、妹が嫉妬して破談するといわた。また、妹の霊を慰めるために、神社の例祭では男たちが全裸になって神輿を担ぐ決まりになっていたという。
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