水薬師寺
匡王院塩通山と号し、もとは真言宗東寺派に属したが、今は単立寺院となっている。境内に「岩井」(石井)と称する清泉があって、かつて平清盛が熱病を患ったとき、この水を汲んで浴したところ、たちまち水は湯となり、病気は快癒したといわれる。このため病気平癒祈願にこの水を求めて庶民が群集したと伝わるが、近年埋没した。今は、水のない水薬師寺となっている。寺伝によると、往古この地に大池があって、日に5回も干満するので、世人はこの池は若狭の国の海水が、奈良の二月堂の閼伽井に通う潮路に当たるものと考え、この付近を塩小路と呼ぶに至ったという。寺は延喜年間(901~23)、理源大師聖宝がこの池の中から一体の薬師如来像を拾得し、これを安置したのが起こりといわれ、京都十二薬師の一つに数えられた。中世は兵乱によって衰微したが、正保年間(1644~48)、所司代板倉勝重によって再興された。桜町帝妃開明門院は桜町・桃園・後桃園三帝が短命であったのを歎かれ、その御殿を移して本堂とし、菩提を弔われた。それより皇室とのゆかりも深く、恭明宮の廃止にあたっては、その所属の仏器類の多くを当寺に寄進されたと伝わる。しかし、今は薬師如来を祀った本堂があるのみで、境内は幼稚園に、岩井の址はプールとなっている。
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神泉苑 (板倉勝重の供養塔)
開基 足利4代将軍 義持公
足利義持
1386~1428 室町幕府の第4代将軍、3代将軍義満の子。1394(応永1)年に9歳で将軍になったが、実権は義満がにぎっていた。義満の死後、義満に太上天皇の尊号をおくろうとする朝廷の意向を断ったり、日明貿易を打ち切るなど、父と反対の政策をとり続けた。1423(応永30)年、将軍職を子の義量(よしかず)にゆずって出家したが、2年後に義量が若くして死ぬと、重臣らに補佐されて再び政務をとった。1428(正長1)年、義持は重病となったが、あとつぎを決めずに死んだ。
石鳥居 扁額には 「乃木神社」とあります
京阪電気鉄道株式会社 乃木神社鎮祭日所献 でしょうか
日付は 大正5年9月13日 になっています
大正元年9月13日が 明治天皇の御大喪の儀の日です
乃木希典は当日、妻と共に殉死しました
元記事 ➡
乃木神社 全国にあるのでしょうが ここは、明治天皇陵の近くです
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