京都芸術センター
明治2年(1869年)に下京第三番組小学校として開校した明倫小学校は、
平成5年(1993年)に124年の歴史をもって閉校しました。
明倫小学校―その名は、石門心学の心学道場「明倫舎」を校舎にあてたことに由来します。
占出山町・錦小路通りに面した正門がありましたが、明治8年には山伏山町の土地を購入し、
室町通りに面して正門を構えました。
その後も手洗水町の土地などを購入し、昭和2年に現在のような敷地となりました。
現在ではこの頃の校舎の面影は残していませんが、錦小路通りには門の跡が残されています。
古くより呉服問屋で栄え、釜師や画家も暮らした明倫学区。
文化への関心、教育への熱意も強く、
子どもたちへのあたたかい想いによって「明倫小学校」は育まれてきました。
皆川泰蔵や木島桜谷、菊池契月の作品をはじめ様々な芸術品も、
作者本人や明倫小学校の卒業生、町の方々らから寄贈されています。
(これらの作品は現在、京都市学校歴史博物館に収蔵されています)
昭和6年(1931年)には、大改築を経て現在の校舎となりました。
当時では最先端の鉄骨建築です。
京都市営繕課によるデザインで、赤みを帯びたクリーム色の外壁と、
スぺイン風屋根瓦のオレンジ色、雨樋の緑青色が、温かみのある雰囲気を醸し出しています。
明倫学区には祇園祭の山鉾町の多くが含まれていることもあり、
建物の正面は祇園祭の山鉾を模したといわれています。
趣のある講堂や、格天井の見事な78畳の大広間、
屋上に建つ和室などの特徴的な部屋の他にも、
階段の手すりや外壁の装飾、丸窓など、そこかしこに見所があります。
また、北館には荷運びや避難経路としても実用的なスロープが採用されています。
京都芸術センター開設に伴う改修は、その姿をほぼそのまま残して実施されました。
講堂・大広間・和室「明倫」、制作室として使用している教室などは、
イべントで開放している際にしかご覧いただけませんが、図書室や喫茶スぺース、
廊下を巡るだけでも、明倫小学校の雰囲気を充分に楽しんでいただけることでしょう。
学区に暮らす方々が、長い年月大切に育ててこられたこの「明倫小学校」は、
今も「京都芸術センター」として、たくさんの人々が学び、創造し、憩う場として開かれています。
1869年 [明治2年] 「下京第三番組小学校」創設(9月16日)。
1875年 [明治8年] 明倫舎にちなんで「明倫小学校」と改称。
1887年 [明治20年] 「下京区第三尋常小学校」と改称。
1892年 [明治25年] 「京都市明倫尋常小学校」と改称。
1918年 [大正7年] 明倫小学校50周年。アントン・ぺトロフ社のピアノ(1910年製)が寄贈される。
*中村大三郎画伯、明倫小のペトロフ・ピアノと夫人をモデルにした「ピアノ」を第7回帝展(1926年)に出展。
中村大三郎の墓は心光寺にあり
1929年 [昭和3年] 校舎改築工事開始。
1931年 [昭和6年] 新校舎竣工祝賀式を行う(10月10日)。
1937年 [昭和12年] 「明倫幼稚園」を併設。
1939年 [昭和14年] 創立70周年記念式を行う。校歌制定。「明倫誌」を発行。
1941年 [昭和16年] 「京都市明倫国民学校」と改称。
1947年 [昭和22年] 太平洋戦争激化のため3月29日何鹿郡小畑村へ学童疎開(10月15日引揚)。
1968年 [昭和43年] 創立記念日を旧暦より新暦に換算して、11月2日とする。
1969年 [昭和44年] 創立百周年記念式典を行う。「明倫誌第二編」発行。
「明倫碑」竣工除幕式挙行(碑文学校名由来記)。
1980年 [昭和55年] 「明倫資料館」完成。
1993年 [平成5年] 「明倫小学校」124年の歴史をもって閉校(3月31日)。
2000年 [平成12年] 京都芸術センター開設(4月1日)。
2008年 [平成20年] 国の有形文化財に登録
登録有形文化財のまとめ・検索 ➡ 登録有形文化財
茶屋四郎次郎・同新四郎屋敷跡
近世初頭、朱印船貿易商・糸割符商人として活躍、徳川家康の側近として
政権確立に大きな役割をはたし、京都商人総筆頭として、
角倉・後藤とともに京都三長者と称された茶屋四郎次郎清延の屋敷跡。
清延の三男新四郎長吉は天正14年(1586)上洛した家康に
茶屋屋敷ではじめて謁見したが、のち当屋敷を譲られる。
茶屋家は本名を中島氏といい、中世の名門小笠原貞興の子孫といわれる。
清延の父明延は京都に住み、将軍足利義輝が訪れて
茶を喫したことから茶屋の屋号が生まれた。
新四郎長吉は慶長19年(1614)家康の命で尾張徳川家に仕え、
尾州茶屋家を創立、本家同様幕府呉服師を拝命する一方
尾張藩主に近侍しその召服御用を勤めた。
尾州茶屋家は安南貿易でも活躍、名古屋の茶屋町に広壮な邸宅を営み、
江戸にも数カ所の屋敷を拝領、別格で高貴な家柄を誇った。
当地は明治4年(1871)まで尾州茶屋家が代々所有していた。
百足屋町町内会 公益財団法人南観音山保存会
関連記事 ➡ 茶屋四郎次郎邸宅跡 石碑
鼓月
創業1945年
昭和20年10月中西菓舗創業
昭和28年1月株式会社に改組
3月株式会社 鼓月と改称
試行錯誤の連続だったが、
しがらみや既成概念に縛られずに新しいことに挑戦。
鼓月は戦後間もなく、京の町で産声を上げました。当初は経験も知識もなく失敗を重ねながらも、
そのことを逆に糧として何とか軌道に乗せることができました。
老舗のお菓子屋がひしめく京都において、「新参者」であったことが、
逆にしがらみや既成概念にとらわれない新しい和菓子を生み出すもとになったのです。
だからこそ、これまでの京菓子の枠を越えたアイデアが生まれてきたのだと思います。
私たちは山紫水明の地、古都・京都の醸しだす風情と伝統ある京菓子の技術を活かしながらも、
そこに創造的な感覚を取り入れ、時代のニーズを捉えた商品づくりを行ってきました。
その柔軟な姿勢があったからこそ、鼓月のブランドイメージを形づくっていくことができたと感じています。
「鼓月」という屋号は、妙心寺の管長であった古川大航老師に命名していただいたものです。
この名前には、「打てば響く鼓に想いを寄せ、その名あまねく中天に響き、月にも届け」
という社業発展を願う意味が込められています
前回記事 ➡ 右書き看板 熨斗目・縦書き
木下順庵邸址(きのしたじゅんあんていあと)
木下順庵(1621~98)は,京都出身の儒学者。
松永尺五(1592~1657)に学び東山に開塾した。
加賀前田家に招聘され,京都住まいのまま加賀と江戸を往来した。
天和2(1682)年幕府に登用され将軍綱吉(1646~1709)の侍講となった。
門下に新井白石・室鳩巣・雨森芳洲等を輩出し,木門と称された。
この石標は木下順庵邸の跡を示すものである。
墓は永観堂にある
大黒菴武野紹鴎邸址 (だいこくあんたけのじょうおうてい)
昭和四年春稟京都三宅安兵衛遺志建之
武野紹鴎(1502~55)は,室町後期の茶人で大黒庵・一閑と号した。招鴎は名は仲村、通称新五郎。文亀2年(1502)奈良に生まれ、父信久のとき境にうつり、武野と改めた。商人であるが、連歌を志し
父は堺の有力町衆。24歳で上洛した紹鴎は,36歳で堺に帰るまで当地に居を構えた。その間,三条西実隆(1455~1537)について13年間、古典・連歌を,村田宗珠からは茶の湯を学んだ。
茶の湯において紹鴎は,四畳半の侘び茶をさらに簡素化し小座敷などを創作し,村田珠光(1422~1502)から千利休(1522~91)への橋渡し役をはたした。この石標は,武野紹鴎の邸宅跡を示すものである。現地は菊水之井と呼ばれた名水のあった地でもあり,紹鴎もそれを求めてこの地に邸宅をいとなんだという。大黒庵は恵比須神社とともに天明の大火に焼亡し、井水も涸れてしまった。
晩年は堺に帰り、弘治元年(1555)10月29日、54歳で亡くなり、堺の南宋寺に葬られた。
大黒菴武野紹鴎邸址
昭和四年春稟京都三宅安兵衛遺志建之
菊水の井
説明版の上方の石に 「菊水」 の文字が彫りこまれています
菊水の井跡
中世、室町時代、当地に夷を祀る社があり、社殿の隅に名水、「菊水の井」が有りました。茶道の始祖千利休が師事した、茶人の先覚者武野紹鴎は、この井をこよなく愛し、此処に庵を結び茶亭を大黒庵と称しました。菊水の井と呼ばれる所以は、能楽「菊慈童」から着想「菊の葉より滴る露を飲み長寿を得た」という中国の故事に起因します。当ビル建設にあたり、跡地に旧井戸より発見された「菊水」の文字入りの井桁組み石等を利用して建立しました。菊水鉾はこの「菊水の井」に因んで名づけられました。平成14年9月 菊水鉾町
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縦書きです 横書きの看板が 1枚もない
縦書きで右からです という理屈で のせました
練貫(ねりぬき)の平織り地。また、これで仕立てた腰替わりの小袖。腰のあたりに多くは筋や格子を織り出したもので、江戸時代、武士が礼装の大紋や麻裃(あさがみしも)の下に着用した。現在は宮参り・七五三の男児の祝い着に用いられている。
前回記事 ➡ 右書き看板 院醫科歯内間
子結棚町会所(放下鉾) 京都市登録有形文化財 会所家。土蔵
子結棚(こゆいだな)町、祇園祭のとき放下鉾を出す町内です。町会所は、通りに面して2階建ての会所家が建ち、その奥に庭をはさんで土蔵が配されています。町有文書「祇園会十人行事児元之覚并寄進之覚」によると、嘉永2年(1849)に鉾蔵と車蔵が建替えられましたが、元治元年(1864)の大火で鉾蔵は被災を免れたものの、会所家と車蔵は焼失しました。この後、慶応3年(1867)に会所家が新築され、このときのものが残っています。
会所家は、昭和52~54年(1977~1979)に補強のために大修理が施され、1階については土間部分の柱と袖壁、表構えが復元されました。2階は柱を挿入するなど一部改造が加えられているものの、当初の間取りをよく残しています。1階天井には、2階から直接鉾の上にわたるための廊下が収納され、祭のときに引き出して鉾に取り付く工夫がなされています。また会所家2階の裏縁から土蔵の2階にかけて、長大な木製の渡廊がかけられるのも当町会所の特色です。ただこれらの工夫は当初からのものでなく、大正時代になされたものと考えられます。土蔵は各階に出入口をもち、1階には車輪や鉾の部材を、2階には御神体や織物類などを収納しています。これらの会所と土蔵は、祇園祭鉾町の会所の形態をよく伝えるものとして貴重です。