市電の敷石
この駐車場の敷石は四条通りの京都市電の敷石として昭和47年1月(1972年)まで使われていたもので市電廃止後縁あって当店の製菓工場内に使用しておりましたが平成3年11月本店建替工事の後今またふたたび敷石としてお役に立つことができました。
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家の軒下に 火災報知器の警報ベルが設置されているのが
いやに 目につくように なってきた
新しい家屋には ないのだけど
古い家屋には たくさん設置されている ただ 使用可能かは不明だが
古さからいって 使用不可だろう
非常警報 と書かれています この写真のものは 使えそうです
非常灯とベル
火災の歴史
大内裏の諸殿舎は,火災や大風などでたびたび被害を受け,その都度復興されましたが,11世紀になって天皇が大内裏外の里内裏(さとだいり)に常住するようになると,維持がむずかしくなり,豊楽院は康平6(1063)年焼失後,朝堂院は治承元(1177)年焼失後,ともに再建されることはありませんでした。
平安宮内裏は,14回もの焼失・再建を繰り返しましたが,嘉禄3(1227)年4月再建途中に焼けたのを最後として,宮城内の内裏は廃絶しました。
内裏火災の度に,天皇は京内の藤原氏の邸宅などに移り住み,そこを里内裏と呼びました。11世紀半ばから天皇は堀河院・一条院・枇杷殿(びわどの)・京極殿・東三条殿などの里内裏に常住することが多くなり,里内裏の一つであった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)を光厳天皇(こうごんてんのう)が居所と定めてからは,北朝の主たる皇居として定着,明徳3(1392)年,後小松天皇の在位時に南朝より三種神器が渡され,南北朝が合一されると,以後,他所へ移ることなく,この場所が皇居と定まりました。
現在の京都御所は土御門東洞院内裏の後身にあたり,元弘元(1331)年の光厳天皇即位時には,紫宸殿と清涼殿を兼用するような小規模な里内裏でした。その後,何度も焼失を繰り返し,そのたびに織田信長や豊臣秀吉など時の権力者によって再建が行われました。
天明8(1788)年に天明大火で焼失した際,幕府は老中松平定信(まつだいらさだのぶ,1758~1829)に命じて内裏造営にあたらせました。寛政2(1790)年,定信は裏松固禅(うらまつこぜん,1736~1804)の『大内裏図考証』(だいだいりずこうしょう)に従い,承明門・紫宸殿・清涼殿などの一郭を平安時代の形式で復元再興しています。安政元(1854)年にも焼失しますが,翌年には寛政時と同規模で再建されました。これが現在の京都御所の建物です。
宝永5(1708)年3月の大火後に,内裏の南西地域にあった町家を鴨川東の二条川東(左京区)などに移転させて,跡地に公家屋敷を建てました。この頃に現在の京都御苑の規模が定まったようです。
仙洞御所は数回の焼失を繰り返し,安政元(1854)年を最後に再建されることなく,今は苑池を残すのみです。
大宮御所も同じく安政元年に焼失しましたが,英照皇太后(えいしょうこうたいごう,孝明天皇皇后)のために慶応3(1867)年に再興され,現在では国賓等の宿舎に用いられています。
応仁の乱・文明の乱の戦火(1467~1477) 京都の人口は少なくなり・避難したのだろう、建物は焼き尽くされた、平安京以来の姿を失った。
1654年 承応3年
1661年1月15日 (万冶4年) 内裏より出火
1673年5月8日 寛文大火
1708年3月8日 (宝永5年) 宝永大火
1730年6月30日 (享保15年) 西陣焼け
1788年1月30日 天明大火 申年の大火 大火事
1854年4月6日 (嘉永7年) 「毛虫焼け」 下京地域
1858年6月
1864年7月19日 (元治元年) どんどん焼け 、鉄砲焼け、蛤御門の変 大火事
昔の家は 瓦ぶきが少なく 板葺が多かったのではないか、 家と家の間が狭く延焼しやすかった
消火設備が今と比べたらお粗末 せいぜい井戸水と桶で消火
お寺では仏像や文書を持ち出すのが精一杯だった
人の気をひくためでしょうか それとも 何か物入れでしょうか
雨風にさらされ いたみが 速いが ゴミ箱かもしれない カラス対策か