平成27年11月11日 撮影
山頂広場手前の階段で
赤や黄などいろいろ混ざっています
愛宕登山の出発点、第一鳥居のある
まだまだ 紅葉は 進みます これからが見頃です
朝も早いせいか 人出はまばらです
もっと 赤くなります 平成27年11月11日 撮影
愛宕山頂はここから 50丁 です 各丁には 石標が建っています
斜面に建つ お寺
シャクナゲ
貴重な湧水
このホンシャクナゲは愛宕山中の月輪寺境内の斜面上に生育しています。付近は、表土の薄い、貧栄養の土壌で占められ、近くには湧水もあり、本種の生長に適した環境になっています。境内の周辺は日当たりのよい、土壌の肥沃な斜面で、植林地や落葉広葉樹林が広がっており、シャクナゲのような低木が生育できる場所は境内の一部分に限られています。ホンシャクナゲは根元で幹が分岐し、株立ちしいています。枝は密に混じりあい、一連の樹幹を形成しており、およそ10m×8mの範囲に広がっています。樹高は、いずれも4m前後も根元幹周は最大で46㎝あります。貧栄養の土壌という生育環境が大きく制限されている場所にもかかわらず、生育状態も良好で、大きな樹冠を形成しているものとして貴重なものです。
3000回は すごい
月輪寺
「つきのわでら」 ともいう
愛宕山の支峰大鷲ケ峰の山腹にあって、鎌倉山と号する天台宗延暦寺派の寺です。
法然上人25霊場の第18番目の札所である。
寺伝によると、天応元年(781)慶俊僧都の開基と伝え、
寺名は地中から掘り出された宝鏡の背面に刻まれていた「人天満月輪」の銘によっている。
その後、空也上人も当寺に参籠したといわれ、
境内の清泉龍女水は、上人と清滝龍神の話を今に伝えている。
平安時代の末期には、公卿の九条兼実が当地に隠棲し、
法然上人と親鸞聖人が兼実を訪れた際、
3人がそれぞれ刻んだといわれる自身の像が三祖像として残っている。
また、本堂前の時雨桜は、別離を惜しんだ親鸞が手植えしたものといわれる。
宝物殿には、千手観音立像、阿弥陀如来坐像、伝善哉童子立像、竜王立像、
11面観音立像、聖観音立像などの平安時代の木像群や、
空也上人立像、伝九条兼実坐像(いずれも鎌倉時代)などの重要文化財を安置している。
また、シャクナゲの名所としても知られ、京都市の天然記念物に登録されている。
京都市
本堂
御三方 祖師堂
寺宝物
時雨桜 向こうのお堂は 御三方 祖師堂
社務所
向こうにあるのが 宝物館
関連記事 ➡ 空也上人
旧店舗でしょうか
二條若狭屋 HP より
今日まで四代約95年にわたって、格別の御愛顧をいただき誠に有難う御座います。
豊かな季節の息づきと風雅を伝える京菓子の世界は、入るにつれて益々奥の深さが感じられ、
日々いたらなさを痛感させられております。今後も専心努力を重ねるつもりで御座います。
お目だるい点も御座いましょうが、末永く御引立て、御指導の程、謹んでお願い申し上げます。
亭主謹白
文 ・ 駒 敏郎
二條若狭屋は、正しくいうと「若狭屋茂澄」。二条通小川角に店を持ったので、
「二條の若狭屋」が通り名になって、かなり早くからそれを店名にしてしまった。
初代の藤田芳次郎は明治の末、中京の東洞院蛸薬師にあった江戸時代からの老舗、総本家若狭屋に奉公をして、菓子作りの修行をした。
総本家のあるじ高浜平兵衛は、明治33年パリ万国博覧会に、大輪の牡丹の工芸菓子を出品して、京菓子の美しさを世界に紹介した人だ。献上の菓子などはこの店に下命されることが多かったので、芳次郎も工芸菓子の技術に習熟した。
芳次郎は、皇太子殿下の京都行啓のとき、京都市が献上した工芸菓子の製作にたずさわったことを、明治人らしく生涯名誉としていた。
大正14年12月、「不老泉」が発売以来十万個に達したので、芳次郎は得意先に記念の湯呑みを配った。
「不老泉」は独立した芳次郎が最初に当てた菓子だった。当時は、善哉・コーヒー・抹茶・片栗の4種類があって、1箱が五銭。中村不折の文字と、徳力富吉郎の絵とが、かわいい小箱にぴったりとあって、また神坂雪佳の掛紙も、時を経た今でも、デザインとしての魅力を失っていない。
芳次郎は子供の頃、画家を志したことがあったくらいで、菓子や包装、広告などにずば抜けたセンスの冴えを見せている。開業当初、資金面のやりくりに苦しんだ二條若狭屋も、「不老泉」の好評でようやく安定して、芳次郎はいよいよ菓子作りに才能を開花させてゆく。
菓子店も十年の節目を乗り切れば、まずまず軌道に乗ったと言える。二條若狭屋はその十周年を、昭和4年に迎えた。
この頃になると知名人の中にも、芳次郎の菓子を愛する人がかなり増えていた。記念に配った風呂敷には、山元春挙の二條離宮図と与謝野晶子の和歌とを使っている。
6月16日が創業記念日、芳次郎は電話も振替も616番を手に入れていたので、昭和12年6月16日から3日間、午前6時16分から午後6時16分まで、「趣味の売出し」を行ない、その広告を四色刷で主要新聞6紙へいっせいに打った。買上げ金額61銭6厘ごとに、記念絵葉書と記念菓子をつけると発表したところ、たちまち売切れで予約者に配達不能。4日後に「大失敗」という大文字でお詫びの広告を出したら、またまた注文が殺到して嬉しい悲鳴を上げることになってしまった。
芳次郎が放った第二のヒット作が「家喜芋」である。発売を前に芳次郎は試作品を、当時内閣総理大臣だった近衛文麿に届けて、批判を乞うた。そして昭和13年2月6日の大阪朝日新聞に出した広告が、「首相近衛さんが、是は結構だとおっしゃった 新発売 家喜芋」 近衛家の家令からの礼状には確かにそう書いてあるのだが、近衛さんもまさか広告に使われるとは思わなかったことだろう。14年1月に第一次近衛内閣が総辞職すると、「近衛さんお好みの美味 家喜芋は 首相が代わっても 風味は変わりません」だから、感服のほかはない。三色の餡が入ったこのじょうよ饅頭は、一個が十銭。当初は大きなものだったそうだ。近衛さんで売りまくった菓子だったが、味が伴わなかったら世間に迎えられるわけはない。
太平洋戦争後の二條若狭屋は、スタートで遅れている。家族たちは、新円稼ぎにズルチン菓子を作るか、汁粉屋でもと奨めたが、芳次郎は若狭屋の暖簾が泣くといって、首を縦に振らなかったからだ。
その頃から芳次郎は、甘楽の号で狂歌の世界になじみはじめ、「京からかさ」の会に入る。そして、世の中がやや平静を取り戻すと、甘楽会と名づけて、洒落と趣向を凝らした菓子の頒布会をはじめた。
第一回が「光琳花見弁当」。道明寺のにぎり飯に有平の梅干、こなしのたくあん、それが金塗の竹の皮に包んである。これを皮切りに、亡くなる寸前の昭和25年9月まで、30回にわたって、自分の持っている技術を尽くしたさまざまな菓子を作ったのだった。
二條若狭屋は「趣味の菓匠」を稱している。趣味という言葉は誤解されやすい言葉だが、菓子には本来、遊び心のゆとりがなければならないから、それはそれでよいだろう。
初代芳次郎は総本家から汲み取った京菓子の心を、自分なりに表現して見せた。それが二代勇、三代實に引き継がれて、現在の二條若狭屋の菓子になっている。「不老泉」にしても「家喜芋」にしても、時代に合わせた改良の手が加えられて、現代に生かされているのである。初代の引いた路線の上に、あるいはそれを突き破った新しい分野に、これからもぞくぞくと名菓が現れることだろう。二條若狭屋には、それだけの活力があるはずなのだ。
ヒット作の やきいも この看板は 左から
隣にある 新店舗でしょうか
右書き看板前回 ➡ 右書き看板 紙庫文〇 創業以来140年
与謝野 晶子 関連 ➡ まち歩き山0242 蹴上浄水場 花 歌碑