中央 小さく 光っているところが 広沢の池
右方 蛇行しているのが 桂川 この日の見晴しは中の下
本殿の山頂の気温は 11月22日 9時30分 で 7.5度
中央 小さく 光っているところが 広沢の池
右方 蛇行しているのが 桂川 この日の見晴しは中の下
本殿の山頂の気温は 11月22日 9時30分 で 7.5度
粟嶋堂
当堂は、西山浄土宗に属する宗徳寺の一堂で、堂内に粟嶋明神を祀ることから粟嶋堂の名で知られている。寺伝によれば、応永年間(1394~1428)に南慶和尚が紀伊国(和歌山県)淡嶋から粟嶋明神に勧請して上洛する際、当地辺りで急に御神体が重くなったので、神意としてここに祀ったのが起こりといわれている。以来、宗徳寺の鎮守社、粟嶋神社として祀られてきたが、明治時代の神仏分離により粟嶋堂と改められた。粟嶋明神は、古来より腰から下の病や安産など婦人の守護神とされ、当堂も女性の参拝者が絶えない。寺は檀家を持っていない。信者の婦人たちが、この寺を支えてきた。与謝蕪村も当堂を訪れ、娘の病気回復を祈願した。春雨の中をはだしで百度詣りをしている婦人の姿をみて、この句を残したといわれています。その時詠んだ句が、境内の石碑に刻まれている。
粟嶋へ はだしまゐりや 春の雨。
また、当堂北の庭内にある石灯籠は、応永28年(1421)の刻名のある弥陀板碑が用いられている。 京都市
石灯籠は見逃してしまった
本堂
弘法大師 庚申堂
人形供養
東門
東門
明治29年5月 建立 あハ 志ま だう
寄付者 高橋弥一郎
与謝蕪村が娘の病気回復を祈願して詠んだ句
与謝蕪村も当堂を訪れ、娘の病気回復を祈願した。春雨の中をはだしで百度詣りをしている婦人の姿をみて、この句を残したといわれています。その時詠んだ句が、境内の石碑に刻まれている。
粟嶋へ はだしまゐりや 春の雨
関連記事 ➡ 与謝蕪村の居宅跡(終焉の地)
期待したのですが 何も記されていませんでした
ここら辺りは 昔 堀川であったところか 今は 暗渠になっています
西教寺(さいきょうじ)
指方山と号し、浄土真宗本願寺派に属する。土御門天皇の時代に親鸞聖人の教化を受けて法名を恵明とした太田頼基(清和天皇の皇子貞純親王の十世の孫)を家祖とし、蓮如上人に恵光という法名を与えられた太田頼忠の六世の孫に当たる頼賢によって開かれた。頼賢は元和4年(1618)、摂津(現大阪府)大田村に生まれ、寛永11年(1634)、本山(本派本願寺)で得度し恵海と呼ばれた。恵海は明暦2年(1657)に岡山の光清寺の住職となるが、時の藩主池田候より弾圧を受けた際、屈することなく諌鼓集2巻を著して反省を求めたため、一時的に投獄された。このことを知った本願寺14世寂如上人の申入れにより寛文10年(1670)に帰京した後、本山の仏堂執事に抜擢され、延宝2年(1674)西六条に一寺を与えられた。西教寺はその後現在地に移転したが、寺宝として宗祖親鸞聖人の尊骨、真影をはじめ、本山からの受領品を数多く蔵している。また、この地は明治維新の功臣松井中務(本願寺寺臣)の殉難の地としても知られている。 京都市
松井中務 1809-1863 江戸時代後期の尊攘(そんじょう)運動家。
文化6年生まれ。京都西本願寺用人松井群忠の子。外国船の出没を憂慮し,僧も兵学・武技をおさめること,蝦夷(えぞ)地(北海道)に別院と屯田兵をおくことなどを門跡(もんぜき)に建議した。 文久3年に松平春嶽が本願寺境内を宿舎に使用することに賛成したため、開国論者と見なされ、文久3年8月12日開港派とうたがわれ自宅で浪士4.5人に襲われ暗殺された。首は三条大橋に晒された。55歳。名は寧。
よく見ると この石柱のためだろうか
家の角を犠牲にしてへこませてある
上と下に 穴があいています
1文字目が 見慣れない字です
登 の下に 火 の字
登 の左に 火 をかいて 燈 かもしれない
そうすれば 燈明講 となる
この地域に根差したものなんだろう