アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

民家の軒下に大きな石  なんの石なのでしょうか

2015年11月11日 18時47分08秒 | まち歩き

 

推測

大きな石です  1人では移動できない、機械を使っている  

見世物か  説明がないので

どこかから切り出された石か 

ドリルの跡があるので 昔のではなさそうだ

家の形にすっぽり 収まっている

あの大きな石のある家  という目印にはなりそうだ

 

こんなことがあります

京都には下水道工事の時に地中から大きな石が出てきたことがあります  

家の前においておられる 石に記録がないので名を残せません

また、地中から石像が出てくることもあります

  関連記事 ➡ 騎士像と地中から出てきた地蔵像のある児童公園

         礎石が出てきた   

 


橘逸勢邸址  無実の罪で非業の死を遂げた人

2015年11月11日 18時06分10秒 | 史跡・旧跡

 

 

橘   逸勢邸址

大正五年五月建之   京都市教育会

昭和三年六月   京都史蹟会引継   (昭和御大典の年です)

たちばなのはやなりていあと

平安京左京三条二坊十一町にあった蚑松殿(はいまつどの)と呼ばれた

橘逸勢(?~842)の邸宅。

逸勢は延暦23(804)年留学生として入唐,大同元(806)年帰国。「橘秀才」といわれ,

三筆の一人に数えられる。承和の変(842)で罪なくして遠流に処せられ,

伊豆下向途中の遠江で病により没した。

そのため御霊として祀られ,邸宅跡に橘逸勢社が建てられたが焼失した。

 

 関連記事 ➡ 下御霊神社  無実の罪で非業の死を遂げた人たちを祀る

 


石碑  廣野了頓邸跡   了頓辻子の名の由来

2015年11月11日 07時35分08秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

江戸時代初期の地誌である「雍州府志」によると、足利家代々の従臣である

廣野家は将軍義晴、義輝の時代にこの地を領有した。

その後、安土桃山時代になって、末裔である廣野了頓は、

剃髪してこの地に茶亭を構え茶道を広めた。

当時、豊臣秀吉は京へ入洛した折に了頓邸を訪れ、

茶を点じた了頓はその縁で280石の知行をあてがわれた。

また、山科言経の日記「言経卿記」にも文禄3年(1594)5月11日に

徳川家康が了頓邸を訪れて遊び、言経、古田織部らも同席したことを記している。

了頓は江戸時代に入って徳川幕府からも知行400石を受け、厚遇されて明治に及んだ。

邸地は了頓の意志により、表門から裏門までの一般の通行が許され、

表門は将軍御成門と称した。かつてこの付近には清水が涌き、

井戸も多く、民家の裏には了頓井と称する井戸があった。

了頓図子(小路)町という名は、実際にここに住した

廣野了頓に由来して今に伝えられたものである。

京都市

 

関連記事 ➡ 廣野了頓の邸宅跡 ・将軍御成門跡


川家住宅  京都市指定有形文化財

2015年11月11日 06時02分31秒 | 建築物・明治・大正など

 

 

 

川家住宅 5棟 主屋 附玄関 1棟 便所及び浴室1棟

洋館 茶室 二十八畳蔵 十二畳蔵 大正15年(1926)

〃 〃大正13年(1924)  大正末年 丸栄株式会社

中京区三条町  指定建62  平11. 4. 1

 

京都市指定有形文化財

川家住宅

当住宅は、綿布商を営む井上利助が大正15年(1926)に建てたもので、

主に商談や取引の場として用いられた。その後、川崎家の住宅として使用された。

屋敷は、通り側に門と塀を設けて、

奥へ順に茶室と洋館、玄関棟、主屋、便所浴室棟、土蔵2棟を配置する。

茶室(紫織庵)は4畳板入りで、南側に3畳の水屋が付属する。

洋館は外壁に大谷石と煉瓦タイルを用いており、

当時流行したF.L.ライト風の意匠に仕上げている。

主屋は中廊下をもつほぼ総二階の建物で、

2階にも本格的な座敷や洋間を設けている。

大工棟梁は明治・大正期に活躍した数寄屋大工の上坂浅次郎で、

上坂の他にも京都商事株式会社の創設者である塚本与三次や、

京都帝国大学教授の武田五一も設計に参与している。

当住宅は、大正期の大規模な都市型住宅で、洋館とともに主屋の2階に洋間をつくるなど、

和風の中に巧みに洋風を取り入れている。

用材・技法・意匠ともに洗練された当初の建物か゛一連でよく残っており、その価値は高い

平成11年

 

京都市

 

 

 


大西清右衛門美術館    

2015年11月11日 00時20分29秒 | 伝統産業

 ここは 美術館なんです  料亭のような雰囲気です

 気になったのは  御釜師 の看板でした  駒札は 文字がはがれて 読み取れません

HPから   あいさつ

大西清右衛門美術館は、代々の清右衛門が精進を重ね、

工夫を凝らした茶の湯釜の伝統と様式を、広く皆様に公開するために開設致しました。

本館では四百年にわたって選ばれた名品を展示するだけでなく、

茶の湯釜に関する研究と発表の場としても活用されることを目指しております。 

京釜をはぐくんだ釜座の歴史と技術に学びつつ、

日本古来の伝統工芸品としての茶釜の真価を後世に伝える場となることを、

心から念願しております。

十六代 大西清右衛門

 

大西家の家祖は、山城の国・南山城広瀬村の出身で、

当初は広瀬姓を名乗っていました。

 その地は現在の京都府南山城村大字田山小字広瀬にあたります。

府下では唯一の村で、京都府と滋賀・三重・奈良の三県境に位置しています。

 釜師・大西家は、初代浄林が二人の弟達と京へ上洛し、

三条釜座の座人になったのが始まりです。(1620年頃)

 初代浄林以降、十五代浄心まで隠居名で数え、

当代(十六代)は清右衛門を名乗ります。

 

 でした