石野味噌
商標の由来・石井筒
始めに銘水ありき
石井筒町 油小路四条より綾小路まで、此町東側南方人家後園に井水あり、
石造り井桁を以て囲む。傍らに小祠ありて蛭子ノ神を祀る、
慶長以来祇園祭礼の日、摂津今宮夷神社の神輿々丁来り此の井水に沐浴するを例とする。
宝暦御鑑之を俗に井戸元蛭子と呼びしが維新の際其慣例を廃す。「京都坊目誌」より。
井戸元蛭子の尊像は、後の天明8年の大火、元治元年の蛤御門の変による戦火にも
家人が井戸に沈め避難した為焼失をまぬがれ
現在も当社の守護神として屋上に祭祀されて居ります。
当社の商標はこの銘水「石井筒」を後世に記念し設定しました。
創業天明元年(1781年) 株式会社 石野味噌
創業以来 234年です。
関連記事 ➡ 名水を訪ねて
11月3日 五條上ル 小泉町
11月5日 高辻下ル 住吉町
11月6日 四条上ル 藤西町
仁丹看板
洛中は室町時代の昔から上京と下京に分かれていました。
明治11年4月(1878年)京都府は洛中を上京区と下京区の区制に分け
当時は京都府上京区下京区で郵便が届きました。
明治22年4月(1889年)に京都市制がしかれ、上京区と下京区の2区制となりました。
昭和4年4月(1929年)新たに中京区がつくられました。
仁丹広告の町名表示板は昭和4年以前制作の為下京区となっていますが
当店制作の表示板は昭和4年以後の為中京区となっています。
角にある 和菓子屋さんの掲示板より
関連記事 ➡ 仁丹 町名ホーロー看板
館髪美 みかみ かん と呼ぶのでしょう
多くのものが 古い、レトロです
どこかで 聞きかじりですが 「散髪屋さんは 角に多い」と 当たっています
前回の右書き看板記事 ➡ 右書き看板 「油醤」 みやざき本店
膏薬辻子(こうやくのずし)
膏薬辻子とは、四条通から中ほどで折れ曲がり綾小路通までを走るこの細い道の名称である。
また、膏薬辻子を挟む地域が、明治2年(1869年)に新釜座町と命名されるまでは、
地域の名称としても用いられていた。
この地域は、皇后を何代も輩出した大納言藤原公任の邸宅である四条宮のあった場所である。
そして、この地域において、踊念仏で知られ、
後に西光寺(現在の六波羅蜜寺)を創建した空也上人が、
天慶元年(938年)、この地に道場を設けて念仏修行を始めた。
天慶3年(940年)に、天慶の乱により戦死した平将門の首が京都の町で晒されて以後、
全国で天変地異が相次ぎ、平将門の怨念の仕業とされたため、
各地で平将門の霊を鎮めるために首塚が築かれた。
京都でも、空也上人が、道場の一角に塚(現在の神田神宮)を建てて供養したことから、
空也供養の道場と呼ばれた。そして、空也供養の発音が訛り。細い道を意味する辻子と合わせて、膏薬辻子と呼ばれるようになった。 京都市
9月4日 天気予報で確認し、愛宕登山に決めました。
清滝から表参道の鳥居を8時45分 出発。
山頂の神社に到着したのは 10時28分でした所用時間は1時間43分。
予定より時間がかかった
途中降りてくる人とは10人ほど出会いました内2人は女性。
追い越したのは5人ほど、追い越されたのは2人でした。
やはり、平日は登山者は少な目。土・日曜日の登山者ははるかに多い。
山頂の気温は 9度
山頂本殿前
本殿前からの 外の眺め
紅葉の様子
山頂 広場 社務所前の様子
よく色づいています
本日のお気に入りの1枚
木を見上げたところ
空がもっと青ければよかったのですが
山頂広場から 京都市内の眺め
ちょっと 曇りがち
中央右から3本目の木の左の小高いところが双ヶ丘
左の1本目と2本目の間にみえる池が 広沢の池