昭和7年(1932)5月建立 滋賀県知事新庄祐次郎書
平安時代、弘仁元年(810)不破・鈴鹿と並ぶ三関の1つ逢坂関が置かれ、
平安京の非常時には古関使が派遣され、兵士が警固にあたった。
京津国道(現国道1号線)改良工事か昭和6年から8年にかけて行われた。この工事により、逢坂峠頂上の勾配は4mほど切り下げられて、道幅も11mに拡幅した。碑はこの時に建立された。ただ、関の所在地ははっきりしない。
現在は逢坂一丁目長安寺付近にあった関寺の近くともいわれている。
関屋がどこにあったか未だにはっきりしていない、
推測では大津市上片原町あたりともいわれている
常夜灯
左面には施主 大津/米屋中
右面に 寛政6年11月建立(1794)
これと同じ常夜灯が逢坂山大師堂前にある
小倉百人一首
これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関 /蝉丸
夜をこめて 鳥の空音は はるかとも
よに逢坂の 関はゆるさじ /清少納言
源氏物語
「関屋」の巻
常陸介と共に東国に下っていた空蝉と石山詣の途中の光源氏が再会する非常に印象的な場面が描かれています
「賢木」の巻
斎宮下向の日、思いを募らせた光源氏が、娘と共に伊勢へ下る六条御息所に歌を贈ります。それに対する御息所の返歌「またの日 関のあなたよりぞ御返しある」(「関」とは逢坂の関)
「枕草子」の中にも逢坂の関の記述があります
逢坂峠と東海道
大津は、奈良時代から、物資の集散する京の玄関口として大いに栄えましたが、この繁栄を支えてきたのはまぎれもない東海道でした。特に、逢坂峠は、東海道の中でも要衝の地として重視されており、逢坂峠から瀬田を含む大津宿周辺は、街道一の繁栄を極めました。街道沿いには、大津絵や針、大津算盤などを売る多くの店が軒を連ねるようになります。また、車石と呼ばれる石を敷き詰める街道の整備も行われました。
車石(くるまいし)
江戸時代に逢坂越は、大津港で陸揚げされ京都へ運ばれた米俵などの輸送にも重要な役割を果たしました。これらの物資を運ぶ牛車が泥道で立ち往生しないように車石と呼ばれる石が敷設されました。その工事は文化元年(1804)から翌2年にかけて行われました。車石は、今も京都・大津間の旧東海道沿いに残されており、当時としては画期的な街道整備を知る重要な文化財となっています。
大津算盤(おおつそろばん)
大津は日本国内での算盤発祥の地と伝えられています。大津算盤は、慶長17年(1612)、大津一里塚町(現大谷町の西側)の片岡庄兵衛が、長崎で明(中国)から算盤を手に入れ、改良を加えたことに始まります。材質は、珠がツゲ、ヒイラギ、ウメ、枠がカシ、カキ、黒たん、紫たんなどで、桁の軸には丈夫な細竹が使用されていました。また枠や梁の裏側(底部)には、作者の居住地と名前が木版印刷された和紙が貼られているものが多くあります。算盤製造は明治期に入って廃れていきましたが、算盤師の看板や政策道具、宝永2年(1705)銘の算盤などが現存しています。なお製作道具と宝永銘の算盤は文化財に指定されています。
大津針
江戸時代の「東海道名所図会」によると、逢坂山付近の名物として「大津絵、算盤、縫針」の人気がありました。貝原益軒は「逢坂山この辺の町に針を売る所多し、虎屋を良工とす」と評しています。このように大谷の虎屋針は良質の針として知られていました。また追分池川針やみすや針も有名で、当時は人気を得ていたと伝えられています。
いずれも現在は途絶えています。 御針所看板(小島一馬家蔵)
大津絵
大津絵がいつごろから始まったものか、はっきり年代を示す史料はありません。しかし、17世紀前期には、東海道を往来する旅行者用の土産物として絵が売られるようになったと考えられています。
その後、大津絵は近松門左衛門の「傾城反魂香」(宝永5年(1708)初演)によって全国にその名前が知れわたることになりました。
大津絵は庶民向けの絵であることから、生産コストを抑えるためにも描写も簡略化し、細かい描写は小型の版木を押して、すばやく描けるように工夫してあります。
そして、その素朴な画風は様々な画家に愛され円山応挙や富岡鉄斎、浅井忠なども大津絵をモチーフにした絵画を描いています。また、大津絵の魅力に魅せられた愛好家は全国各地に沢山おられ、その伝統は今でも受け継がれています。
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水の蜘 一葉に近く 泳ぎ寄る /其角
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