洛翠は、もと藤田小太郎氏の邸宅でありました。千七百坪を有する敷地内にある庭園は、平安神宮の神苑、無鄰菴の庭園など数多くの庭園を手掛けた明治の名造園家小川治兵衛(七代目)明治42年の作であります。
屋号が「植治」であることから、「植治(うえじ)の庭」と広く呼ばれる庭園は、それまでにあったわびさびの庭とは違う、明るく開放的な庭、そしてその施主の心の癒しとなる庭づくりが特徴となっています。
ここ洛翠庭園では藤田家が滋賀県で多くの事業をされていたことから琵琶湖を忠実に模した池をつくっており、また敷地内には画仙堂(京都三仙堂の1つ)、不明門、渓猿亭(大正時代に建てられたお茶室)など歴史的にも興味深い建築物がございます。
※ 洛翠の庭園は平成15年より、その技と精神を受け継ぐ11代目小川治兵衛氏に復元・集景・維持をしていただいており、現代に生きる「植治の庭」として保存・継承しております。 洛翠
不明門(あけずのもん)
この門は豊臣の時代に伏見城内にあったものを、そののちこの場所に移築したものです。
昔より常に閉ざされていたもので、「あけずのもん」と呼ばれ、その名の通り今も昔も開けた事がございません。敷地内の天井にはかつての極彩色の絵画の跡が残されており、供侍の場も設けられています。当洛翠(らくすい)は、もと藤田小太郎氏の邸宅でした。千七百坪を有する敷地内にある庭園は、平安神宮の神苑や無鄰菴の庭園など多くの庭園を手掛けた、明治の名造園家小川治兵衛(七代目)の作であります。
日本調剤研修・保養所 洛翠
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今日の俳句
草むらや 蟷螂蝶を 捕へたり /虚子
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平成27年7月28日の記事
日蓮宗 もとは中京区西ノ京にあり、北野天満宮七保の御供所の1つであったが、
元禄15年(1702年)にここに移転した。
この地は日蓮上人が吉田の神道伝授のとき、寄宿したところと伝わる。
菅原道真を祀る文子天満宮がある。
本堂前には、映画監督の溝口健二の石碑がある。
作品は 「雨月物語」 「山椒大夫」 など
法勝寺の執行俊寛僧都の居住の址と伝わる、境内にある閼伽井は法勝寺の井戸と伝わる
平成28年10月16日 駒札画像1枚 説明追加
京都市指定有形文化財
満願寺 六棟
本堂、鐘楼、手水舎、表門、文子天満宮本殿、文子天満宮拝殿
満願寺は示現山と号する日蓮宗の寺院で、もとは西ノ京にあって、天慶3年(940)に北野朝日寺の最珍を開山として創建されたと伝える。当初は真言宗に属し、北野天満宮の御供所であった北野七保のなかの五ノ保社ともなっていた。その後、元禄10年(1697)に日蓮宗へ改宗いるとともに、元禄15年に現在地へ移転してきた。
本堂は、移転後まもなく元禄15年から宝永が仁年(1704)にかけて造営されたもので、京都市内に残る日蓮宗の一般寺院本堂のなかでは古い方に属する。建築的には、桁行三間・梁行一間の身舎の四周に一間幅の裳階をまわして背面に内陣部を突出し、さらにその後方に土蔵造の奥陣を付設した複合建築で、変化に富んだ外観をみせている。また、その内部の力強い空間構成には近代的特色がみられ、日蓮宗本堂の近世遺構の一例として貴重である。
境内にはこのほか、当寺が現在地へ移転してきたときのものとして鐘楼、手水舎、表門、文子天満宮本殿・拝殿などが残っており、位置が一部変化しているものの、江戸時代中期における日蓮宗の一般寺院の寺観をよく伝えている。
平成7年3月30日 指定 京都市
本堂 2層になっていて 高くそびえています
扁額 何が記されているのか
本堂を 右手から見たところ
溝口健二の石碑を画像6枚 追加 平成28年10月16日
勲章 勲四等 瑞宝章 昭和21年8月24日
世界的映画監督
溝口健二を偲びて 1956年11月 永田雅一
二代目 中村雁治郎
近江屋仁兵衛
地図では 文子天満宮 と出ていたのだが
天満大自在天 と扁額に記されている
拝殿の中には 四方に人物画が掲げられていました
弁財天社 石鳥居は昭和8年の建立
見たことがない 石造物
手水舎
井戸 と その奥は 弁財天社
境内にある閼伽井は法勝寺の井戸と伝わる
鐘楼
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