大手筋木鳥居旧基礎石について
江戸時代・萬治2年(1659)紀州徳川頼宜は当神社境内入口の大手筋に石鳥居を奉納した。その鳥居は寛文年間の大地震により倒壊、その後数度の建替を経て、明和4年(1767)に現今の鳥居が奉納された。数回の修理後、平成10年9月の台風により傾斜したのを機に解体修理を行った。今回修理にあたり基礎を鉄筋コンクリートにて補強するのに際して旧来の柱根石を交換したが、柱根を支えていた石底根石は再利用している。ここに十数トンの重さを支えていた基礎石の状況を図示して、往時の土木技術の状況を図示して、往時の土木技術の確かさを感じ取っていただければ幸いである。平成11年9月 吉日
延享 丁卯
延享5年(1747)
伏見義民事蹟
天明5年(1785)、時の伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら七人を伏見義民という。
江戸時代(1603~1867)伏見は交通の要衝として栄え、政治・経済上重要な地であったため、幕府の直轄地として奉行所が置かれた。安永8年(1779)に奉行となった小堀政方は数々の悪政を行い、住民に対する苛斂誅求は言語に絶するものがあった。
文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴家伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛の7人は、奉行の悪政に虐げられた住民の苦難を座視するに偲びず、苦心惨憺の末、天下の禁を破って幕府に直訴した。このため、天明5年(1785)政方は奉行を罷免されたが、九助ら七人も獄中で相ついで病死した。この碑は明治20年(1887)に建てられたもので碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書である。毎年5月18日には伏見義民顕彰会によって慰霊祭が執行される。京都市
天明5(1785)年9月,伏見の町人文殊九助と丸屋九兵衛が寺社奉行へ出訴した。これは伏見奉行小堀政方が町人に対し不法な御用金を課したことなどを訴えたものである。その後京都町奉行所や評定所で審理が行われ,天明8年5月に小堀は改易,出訴当事者として調べられた町人7名は御構いなしという判決が出された。しかし7人ともすでに病死や牢死で判決時に在世したものはいなかった。
明治になり,小室信介『東洋民権百家伝』(明治16年刊)で取り上げられ,自由民権運動のさきがけとして注目された。この碑は7人の同志を顕彰するために,事件落着後百年を期して建立されたものである。
なお,この碑の礎石は古代寺院の塔心の礎石ではないかという説がある(京都新聞1994年1月12日付朝刊)。
伏見義民之碑
内大臣三条実美書
(印)(印)【白文印「藤原実美」朱文印「梨堂」】
【以上題額】
いにし天明の頃伏見のさと司とれる某とかや奢つよく私多かりけれは酷吏ねちけ人」
等時を得其私を助け政あらぬ方にみたれ行民其たつきを失ひ歎きのさきり深くして」
払はむすへなかりしに里人文珠九助ぬし才賢こく志実やかにて思を潜めもろ人の為に」
身の難をかへり見す同し志の友丸屋九兵衛麹屋伝兵衛柴屋伊兵衛焼塩屋権兵衛板屋市」
右衛門伏見屋清右衛門等と密に謀心思を一にし万苦をしのきいくかへりか江戸に出て歎き」
訴ふる所あり終に此真心貫きて呉竹の伏見の里人の為に直なる道ふみ開き其苦」
厄を払らひたりしに此事半にして伝兵衛ぬしは病に死九助ぬしは事果し後天明八とせ」
正月三日九兵衛ぬしは同しき月廿三日江戸の旅寝の露と消えぬ今哉其没後百とせを」
経ぬ此里人遠を慕ひ義にいさみもゝとせも猶一日のこゝちして其なきたまを祭り其」
いさをを世に伝むとす嗚呼むかしも今も鬼いはらよもきはことに茂り安し九助ぬし」
の如きはそをかり払ふよき利鎌といはむ歟 明治二十年月日 海舟散人誌」
当社は学問書道の神「菅原道真」をお祀りしています。その昔、御香宮の東に蔵光庵というお寺がありました。1390年
頃(室町時代)この寺の僧の夢枕に菅原道真がたたれました。数年後、同門の僧から菅原道真の画像が贈られました。それは夢で見た雄型と同じであったので、僧は自分の学問を守って下さる神として寺の中に天満天神としてお祀りしました。
江戸時代、「山ノ天神」として伏見の町の寺子屋の子供等は、2月と6月には必ずお参りしていました。
しかし、次第に荒れてきましたので観音寺の僧教覚が町の中にお遷ししようと、本谷市造と、宮大工坂田岩次郎の協力を得て、20年間の歳月をかけて1841年(天保12年)に完成しました。この時、坂田岩次郎は使用した大工道具を完成御礼として奉納しました。この大工道具約70点は日本の木造建築を支えた道具文化財として大切に保存されています。
洛南保勝会
菅原道真を祭神とする旧村社、俗に「山の天神」といい、はじめ桃山の中腹にあった竜幡山蔵光庵の鎮守社であるが、伏見築城に際して寺は嵯峨臨川寺の東にうつし、神社は前田家の屋敷内に祀られた。伏見城破却のとき、前田家も取り払いとなったが神社は残った。しばらく旧地にあったが、天文10年(1541)御香宮神社の西に移され、次いで昭和44年(1969)現在の地に移った。什宝に天保12年(1841)、造営時に用いた大工道具一式および「渡唐天神図」がある。
去来の碑
明治35年6月25日(1901)
一千年祭 建立
牛の親子が彫られています
厳島社
老松社
白太夫社
紅梅殿
この石碑は
大正15年に建立されている
天満宮の歴史が書かれています
祭神は菅原道真。もと木幡山の中腹,御香宮神社旧地の東方にあった竜幡山蔵光庵の鎮守社。伏見城の築城によって,庵は臨川寺(りんせんじ,右京区嵯峨北造路町)の東に移され,天満宮は同所に築かれた加賀前田家の邸内に祀られた。その後城下町伏見の衰退とともにと荒廃し,天保12(1841)年に御香宮の西,現近鉄桃山御陵前駅前に社殿が再興された。のち昭和44年,御香宮神社境内に遷宮された。この碑は明治35(1902)年の菅原道真千年祭にあたり,天保12年の再興の経緯を記して記念としたものである。なお碑文の撰者鳥羽重晴は真幡寸神社社司。
此の天満宮社はし応永のむかし伏見石井庄に鎮座豊公桃山城を造営み
諸藩邸を造らしめらるゝ加賀前田侯邸内なるは遠祖の縁に依て祠を
改造祭祀も荘厳に挙行れしを時世変遷さしも殷盛なりし桃山城は
荒さるあはれ祠宇も葎の中に朽果なむ状なるを観音寺住職山本教
覚工匠阪田岩次郎は赤心を振起し教覚は資金を募集篤志者本
谷市造之を賛敬和次郎は工事を負担廿年間一日の如く共に労き天保十
二年此所に瑞の神殿美しく造竟遷し奉しは最も愛き事なりけり然を
許々多の年月を経て甚く破損しかは社掌矢野弟一郎有志の人々と謀り
修理ひ奉り又社務所社標玉垣等新設明治三十五年六月千年の
大祭仕奉ぬ如此社頭の光輝のます随に神威もいよ@@益曜き渡るらん今般
岩次郎男忠兵衛発起て此事跡を碑になしけるになん
京都御幸町六角 宇治郡山科字八軒
阪田忠兵衛 谷口清三郎 田島与三吉
発 北村与三次郎 山田常次郎 前田常吉
本谷市兵衛 西岡卯八 前田幸吉
清水半兵衛 高城清蔵 武田清助
起 藤岡伊兵衛 山崎又右衛門 吉川芳之助
長谷川清三郎 荒木三郎兵衛 森清次郎
桜井又兵衛 山崎末吉 久乗広吉
人 楠本定治 西定治郎 田村久吉
一ノ瀬清兵衛 若代隼太郎 長谷川伝吉
山田吉三郎 藤本定七 矢野弟一郎
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今日の川柳
絵に描いたような正直者の友 /菅原
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