明治378 戦没記念碑
明治378年戦役 伏見町 堀内村 向島村 深草村 字大亀谷 忠死軍人紀念 姓名表
拝殿を見る 右は手水舎
武運長久 と書かれた 石燈籠
明治維新 伏見の戦跡 内閣総理大臣 佐藤栄作 書
慶應3年12月9日 王政復古が渙発せられるや、京洛の内外は物情騒然として朝幕の間に一触即発の険悪な空気が漲ったところが7日の明け方当社の表門に徳川氏陣営と書いた大きな木札が掲げられた祠官三木善郷は早速社人を遺して御所へ注進すると翌日薩摩藩の吉井孝助(吉井勇の祖父)が来てこの札を外しここに部隊を置いたやがて年が明けて慶應4年正月2日徳川慶喜は大軍を率いて大阪より上洛せんとし、その先鋒は翌3日の午後伏見京橋に着いた。
そこでこれでこれを阻止せんとする薩摩藩との間に小ぜり合いが起こった。その折しも鳥羽方面から砲聲が聞こえてきたので、これをきっかけに当社の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(後の元帥大山巌)の指揮により御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所(現在桃陵団地)の幕軍に対し砲撃を開始した。これに対し土方歳三の率ゐる新選組は砲撃の火蓋を切って應戦し、一方久保田備中守の率ゐる伝習隊は官軍の前衛部隊を攻撃して奇効を奏し官軍を墨染まで撃退した然し翌4日官軍総裁に任じられた仁和寺宮嘉彰親王は錦の御旗を翻して陣頭に立たれたので官軍の士気大いに振ひそのため幕軍は淀に敗退した。一方鳥羽方面の官軍も一時苦戦に陥ったが錦の御旗に志気を盛り返し幕軍を淀から更に橋本に撃退し、遂に幕軍は大阪に敗走した。
かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかは一に繋ってこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦は我が国史上否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。
大政奉還の後,大坂城に待機した徳川慶喜(1837~1913)は反撃ため上洛を決意し,慶応4(1868)年正月3日,鳥羽と伏見の二方向に分かれてに京都に進軍した。伏見の守備は薩摩藩将兵800人がこの地御香宮を中心に固め,幕府軍は会津藩を主とした1500人が伏見奉行所等に入り対峙した。この石標は,翌年まで続く戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の跡を示すものである。
明治百年記念
奉納 御祭神壱千七百年祭奉賛会
大正11年 建立
明和9年(1771)
拝殿
寛永2年(1625)徳川頼宜(紀伊藩祖)が石鳥居とともに寄進したと伝わる。中央の一間をひらいて通路とする割拝殿で、正面の唐破風下には太閤桐をあらわした蟇股があり、軒廻りの蟇股にもさまざまな花鳥を彫刻している。伏見城の車寄を移したといわれるが、一説にもと古御香にあったのを移したともいわれている。
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今日の川柳
その口はサヨナラを言うつもりだわ /西川
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