この碑は吉田松陰(1830~59)自作自筆の詩を刻し,松陰の五十回忌にあたる明治41年(1908)に京都府教育会が建立した。松陰の勤王思想を表すとして著名な詩である。
松陰の詩は,その著『長崎紀行』によれば,江戸から長崎への途次,嘉永6(1853)年10月2日に京都御所を拝した時の作。ただし紀行に収める詩とこの碑の詩には大きな文字の異同がある。ほかにも異本が多い。刻まれた詩の原本は,松陰が安政3(1856)年に山県有稔(有朋の父)のために旧作を揮毫したもので,明治15年,山県有朋の斡旋で皇室に献納され御物となった。
碑の向って右(西側)には高155×幅18×奥行18cmの詩碑の所在を示す角柱石標がある。この碑は図書館前庭の東南端に建立されたが,平成13年に完成した京都府立図書館の改築にともない現地に移された。
是先師松陰吉田先生嘉永癸丑十月朔過京都拝
禁闕詩真蹟也初先師為山縣公爵厳父有稔翁書之
翁以伝公爵公爵謂是先師精神之所鍾豈蔵之私家
乎因献於御府焉今茲戊申十月丁先生五十年忌辰
奏請得允撮影以頒同志者京都府教育会員相謀勒
諸石会長大森知府属余記其由乃叙其梗概云
明治四十一年十月
従二位勲一等子爵野村 靖撰
正三位勲一等男爵野村素介書
芳村茂承鐫
山河襟帯自然城東来無不日憶 神 京今朝盥嗽拝 鳳闕野人悲泣
不能行 上林零落非復昔空有山河無変更聞説 今皇聖明徳
敬天憐民発至誠鶏鳴乃起親斎戒祈掃妖氛致太平 従来 英皇不
世出悠々失機今公卿安得 天詔勅六師坐使 皇威被八紘人
生若萍無定在何日重拝 天日明
右癸丑十月朔日奉拝 鳳闕粛然賦之時余将西走入海
丙辰季夏 二十一回藤寅手録(印)(印)【朱文印「矩方」白文印「子義氏」】
吉田松陰先生 詩碑
山河 襟帯
尊攘堂創立五十周年記念
昭和十二年孟春 尊攘堂委員建
此境内ニ在リ
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今日の一句
早口のニュース半分聞きもらす /時枝
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全国創立の地 と書かれています
建立の辞
大正11年3月3日、全国から三千人の大衆がこの地 京都市岡崎旧公会堂に集い、歴史的な全国創立大会を開いた。永い間の差別と屈辱の鉄鎖をみずからの力と団結によって解き放とうとする大衆はここに蹶起した。人間の自由と平等を求めてやまないこの炬火はついに燎原の炎となって燃えあがっていった
はかくして生まれた
人の世に熱あれ、人間に光あれ
と結ばれたこの創立宣言は、日本の近代民主化に黎明をもたらす最初の人間宣言の栄誉を担うものとなった。それはこの宣言が単に解放のみならずすべての人間の解放を目指す普遍的な原理に根差しているからである。このようにして生まれた解放運動は幾多の試練と苦難を克服して、今もなお発展継承されている。本日、ここに創立六十周年を記念して永く先人の偉業をたたえるとともに、国民的課題として差別を解消する決意を表すため、この碑を建立するものである。
昭和57年3月3日 京都市
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今日の一句
玄関を出るとき鳴っていた電話 /久場
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