西国三十三観音霊場の28番札所。本堂は標高400mのところにある。寺伝によると、開基は慶雲元年(704)、真応上人によって、後に文武天皇の御願寺とされた。草創期には方9間の「精舎」を中心に阿弥陀堂、五重塔など多くの建物があり、寺域は回廊によって囲まれていたという。また、場所は今より上方の「仙台」というところにあったが、応永7年(1400)に山崩れで崩壊、20年以上の歳月を費やして現在の場所に復旧された。寺宝は重要文化財の阿弥陀像(鎌倉期)や室町期の租税の基本台帳・丹後国諸庄郷保総田数帳目録をはじめ、府・市の指定文化財も多い。近年、江戸期から途絶えていた「火渡り修行」が復活した。
西国順礼堂 この堂には三十三霊場の各ご本尊が安置してあります
このお堂へ参拝されると三十三霊場巡回と同様の功徳ご利益があります
一願一言の地蔵さん
この地蔵さんは唯一願を一言でお願いすれば、
どんな事でも必ず叶えて下さると伝えられる大変あらたかな地蔵さんです。
安楽ポックリの往生も叶えられると伝承されています。
約六百二十年前に創られた大変古いお地蔵さんです。堂司
本堂
左甚五郎作 真向の龍
江戸時代に雨乞いのため、龍の彫刻を成相寺に奉納することになり、宮津に滞在中の左甚五郎に彫刻を依頼。甚五郎は快諾もしたものの、見たこともない龍の彫刻に思い悩む。そんな中、夢で龍が住む場所を教えられた。早速夢で教えられた道をたどり滝壺に降り立ち、祈ること三日間。渦を巻き白く沸き返る滝壺から龍が姿を現し、見る間に空へと立ち昇り雲の中に消えていった。
こうして完成したのが『真向の龍』だといわれています。
西国三十三観音霊場 のポスター
本尊等の写真
奉納額
鉄湯船
重要文化財(工芸品) 鎌倉時代 正応3年(1290)
鋳物師 山河貞清 当山の湯屋にて湯船として使用していたもので、
直接入るのではなく湯釜で沸かした湯を入れ、かかり湯をするために用いられたと思われる。
後に薬湯を沸かして怪我や病気の人を治療したとも伝えられています。 成相寺
鎮守堂(江戸時代)
寺から見える 宮津湾
本堂
本堂からみた参道
参道途中にある 鐘楼
撞かずの鐘由来
慶長14年(1609)、山主賢長は、古い梵鐘にかえ新しい鐘を鋳造する為、近郷近在に浄財を求め喜捨を募った。1回、2回と鋳造に失敗し、3回目の寄進を募ったとき、裕福そうな女房が「子供は沢山おるがお寺へ寄付するお金はない」と険しい目の色で断った。やがて鐘鋳造の日、大勢の人の中に例の女房も乳呑み児を抱いて見物していた。そして銅湯となったルツボの中に誤って乳呑み児を落としてしまった。此の様な悲劇を秘めて出来上がった鐘を撞くと山々に美しい音色を響かせていた。しかし耳をすますと子供の泣き声、母親を呼ぶ声、聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って、一切この鐘を撞く事をやめ、撞かずの鐘となった。
新しい建物 五重塔
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今日の俳句
松茸や 山かきわくる 匂ひかな /支考
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